95 雨中の砲戦
「始まったな」
那智の艦橋に上がってきた志摩清英中将は、彼方で行われる砲戦を見て呟いた。
一夜にわたる追跡と戦闘を繰り返した後ではあったが、目は冴えていた。戦艦同士の砲撃戦を高みの見物出来る機会など、そうそうないだろう。
もちろん、機会があれば那智も砲戦に加わりたいとは考えている。
現在、那智はベロルシアの右舷一万七〇〇〇メートル付近にあった。伊勢や日向とは、ベロルシアを挟んで反対側である。
ただ、立ち上る水柱を見る限り、ここで那智が二十・三センチ砲を放つことは、かえって伊勢と日向の弾着観測を妨害しかねない恐れがあった。いくら砲弾に塗料を仕込んでどの艦の水柱であるのかを判別出来るように工夫している帝国海軍といえども、砲術教範では三隻以上の同一目標への集中射撃は真に必要な場合を除いて推奨されていない。
那智の主砲が立てる水柱は伊勢、日向の三十六センチ砲のものよりも小さいだろうとはいえ、ここであえて那智が砲戦に参加するほど切羽詰まった状況でもない。
「護衛の駆逐艦がソヴィエツカヤ・ガヴァニへと逃走を図ろうとした場合、本艦はこれを阻止する」
だから志摩は、那智には残敵掃討の任務を担わせようとした。
敵の護衛艦艇は二隻だけとはいえ、これを取り逃がせば今後、間宮海峡で避難民を乗せた輸送船が再び襲われないとも限らない。少なくとも、駆逐艦は海防艦よりも有力な艦艇である。
この場で北太平洋小艦隊を撃滅出来るのであれば、志摩はその好機を逃すつもりはなかった。
双眼鏡の向こうでは、ベロルシアを包み込むように水柱が立ち上っている。その光景を見て、志摩は艦橋に控えている海軍報道員(従軍記者)に呼びかけた。
「君、こんな機会は滅多に訪れん。今のうちに、写真を撮っておきたまえ」
もともと那智に乗り込んでいた海軍報道員は、日ソ開戦前に行われた千島沖での演習を取材させるために招いたものであった。その報道員は開戦後も、下艦することなくそのまま乗り込んでいた。
こうして彼我の砲戦から少し離れた位置にあった那智は、樺太沖海戦に関する歴史的な写真の幾枚かを後世に残すこととなったのである。
◇◇◇
ベロルシアの放った十六インチ砲弾が、轟音と共に水柱を立てた。
伊勢の艦橋を越える高さの水柱は、ベロルシアが紛れもない十六インチ砲搭載戦艦であることを五藤中将らに印象付けた。
しかし、その弾着位置は伊勢からは三〇〇〇メートル以上、離れていた。水柱の数は三。散布界も一〇〇〇メートル以上に及んでいる。
到底、伊勢が脅威を覚えるような砲撃精度ではない。
「やはり那智からの報告の通り、敵艦は射撃管制装置に何らかの損傷を負っているようだな」
ちらりと崩れゆく水柱を確認して、五藤は言った。その声には、侮るような調子は微塵も含まれていない。
むしろ、そのような状況下でなお砲撃を行おうとするベロルシア乗員たちを讃えるような響きすらあった。
速力を低下させ、浸水で傾斜し、射撃管制装置が損傷してなお、ソビエツカヤ・ベロルシアは戦艦としての抵抗を見せている。ソ連海軍としての、そして最新鋭戦艦としての意地を、見るような気がした。
「だが、だから言って手心を加えるわけにはいかん」
五藤は再び、ベロルシアに険しい視線を向けた。
ソ連海軍は、開戦初日に民間人の乗った輸送船を撃沈し、そして先日も樺太からの避難民を満載した輸送船団を襲撃した。ここで彼らを取り逃がせば、また同様な被害が発生するだろう。
蔚山沖海戦で帝政ロシアのウラジオ艦隊を撃滅した上村艦隊の如く、ここで第七艦隊は後顧の憂いを断たなければならなかった。
それこそが、伊勢や日向、そして神風型や睦月型といった旧式艦が老骨に鞭打ってここまで急行してきた理由なのだから。
「だんちゃーく!」
伊勢二度目の砲撃が、ベロルシアを取り囲むように水柱を立てる。
弾着観測の結果を、五藤や岩淵、そして阪が固唾を呑んで待つ。結果は、程なくして判明した。
「ただいまの射弾、的艦を夾叉せり!」
「砲術長、よくやった!」
射撃用電探を用いたとはいえ、第二射で夾叉を得られたことを阪が賞賛する。
「次より斉射!」
「宜候! 次より斉射!」
野田砲術長も、溌剌とした声で応じた。
帝国海軍においては第三射までに的艦を夾叉して、第四射から本射に移ることが理想とされていたから、第三射から斉射に移れるというのは伊勢の砲術科員たちが相当の技量を持っていることを意味する。
艦齢の長い艦であるために、各砲塔には長年伊勢に乗り込んでいる特務士官が配置されている。その点だけは、伊勢型が最新鋭戦艦である大和型に勝っている点であった。
距離一万五〇〇〇と想定決戦距離よりは短いものの、この悪天候下である。彼らの技術は、十分に賞賛されるべきものであった。
「次発装填、急げ!」
斉射を行うため先ほど発砲した右砲に砲弾が装填されるのを待つ時間は、ひどく長く感じられた。
伊勢型は扶桑型と違い、仰角五度から二十度の間で次発装填が行える機構に改めて装填時間を短くする砲塔の構造になっていたが、それでももどかしい時間であることには変わりがない。
「……」
「……」
「……」
艦橋にも、焦れるような沈黙が広がる。誰もが、伊勢の次の射撃の成果に期待せずにはいられなかった。
やがて、装填を終えた十二門の砲身が仰角を取り始め、所定の角度で停止する。
「射撃用意よし!」
それは、待望の報告であった。
「てっー!」
刹那、伊勢に備えられた十二門の三十六センチ砲が轟音と共に一斉に火を噴いた。衝撃が全艦を揺るがし、砲煙が伊勢の姿を一瞬だけ覆い隠す。
十二発の九一式徹甲弾は、雨を切り裂いて一万五〇〇〇メートル彼方の目標へと殺到した。
「総員、衝撃に備えよ」
彼方で見えた一瞬の煌めきを確認して、アンドレーエフはそう命じていた。
先ほどまでとは、閃光の大きさが違っていた。恐らくは、三十六センチ砲十二門の斉発。
イセ・クラスが放った第二射は、ベロルシアを夾叉していた。次の射撃で命中弾が来るだろうことを、アンドレーエフは覚悟せざるをえなかった。
一方のベロルシアの砲撃は、まったく精彩を欠いた結果にしかなっていない。
目標とした敵一番艦から数千メートルは離れたところに、虚しく水柱を立てているだけだ。昨夜と違い、ベロルシア側も敵艦視認している。だというのにこの砲撃精度だということは、砲側照準の甘さと乗員の練度不足の象徴であるといえた。
主砲塔の十二メートル測距儀は艦橋最上の射撃指揮所よりも低い位置にあるとはいえ、それでも一万五〇〇〇メートルの目標であれば十分に捉えられるはずであった。
しかし実際には、砲塔側では砲側照準や操砲に手間取り、第一射の弾着観測に基づく諸元修正すら未だ完了していない有り様であった。
せめて一発だけでも、敵艦に命中させたい。
ベロルシアに戦艦らしい最期を遂げさせてやりたい、そして自分もまた海軍軍人らしい最期を迎えたいと思うアンドレーエフにとって、それは切なる願いであった。
ソ連の軍人であるという抑圧からの解放感を覚える一方で、やはりこの最新鋭戦艦が何の戦果も挙げられずに沈もうとしている理不尽への納得出来ない思いが、アンドレーエフの胸中に同居しているのだ。
それはある意味で、戦艦に乗る海軍軍人としての当然の思いであったかもしれない。
本来であれば十四インチ砲搭載戦艦であるイセ・クラスを、ベロルシアは圧倒出来るはずであったのだ。
やがて、日本側の放った砲弾がベロルシアへと降り注いだ。
轟音と共に艦を呑み込むような水柱がそそり立つと同時に、凄まじい衝撃が彼女を襲う。そしてそれは、一度だけに留まらなかった。




