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北溟のアナバシス  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第五章 連合艦隊反撃編

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94 戦艦の流儀

 戦艦ソビエツカヤ・ベロルシアの乗員たちは、疲弊していた。

 昨日の空襲以来、ベロルシアはほぼ常時、敵の接触を受け続けていたのである。さらに昨夜は、発砲炎しか目視出来ない敵に攻撃を受け、タタール海峡から追い立てられるようにして南へと針路をとらざるを得なくさせられていた。

 悪化していく海面状況のために六ノットでの航行も難しくなり、現在は四ノットの速力で何とか敵のレーダー圏外へ脱出しようと苦闘している最中であった。


「どうにもなりませんな」


 応急修理班の責任者と話し合っていたベロルシア艦長は、アンドレーエフにそう告げた。


「浸水は何とか止まっていますが、それはこれ以上、艦に衝撃が加わらなければという話です。主砲射撃どころか、副砲の射撃の振動ですら、現状では本艦にとって危険なものとなっています」


「副砲まで使用出来んのか……」


 アンドレーエフ中将は、嘆息を禁じ得なかった。

 最早ベロルシアは、戦艦としてはほとんど死んだも同然だった。四ノットで進む、ただ図体がでかいだけの鉄塊でしかない。

 すべては、計画優先で質の悪い資材をこの艦に割り当ててしまったことが原因だ。小口径砲弾が命中した程度の衝撃で容易に弾け飛ぶリベット、振動で故障する射撃方位盤、測距儀や方位盤の生産が間に合わず機材を搭載していない後部艦橋。

 これほどの巨艦を四隻同時に、しかもクロンシュタット級巡洋戦艦やチャパエフ級軽巡などの建造と並行しつつ行うことは、ソ連の工業力・技術力では不可能だったのだ。

 そして、スターリンによる無意味な督戦命令。

 ソ連という国家の持つ宿痾が、最新鋭であるはずのソビエツカヤ・ベロルシアをここまで追い詰めていたといえよう。


「だが、敵艦が接近してきたら何も応戦せぬわけにもいくまい。まだ、例のヤポンスキーの艦は本艦を()けてきているのだろう?」


「恐らくは」


 実は二十日未明になっても、ベロルシアの見張り員は昨夜から延々と追跡してきた敵艦の姿を完全には視認出来ていなかった。

 どうも敵艦はこちらがレーダーで探知出来ていないことに気付いているらしく、時折、自らの存在を誇示するように八インチ砲と思しき砲弾が飛んでくるだけで姿を見せようとはしなかった。それが昨夜から続いているために、乗員は肉体的にも精神的にも疲弊していたのである。

 まったく見えない位置から一方的に撃たれているというのは、それだけ乗員の士気に影響を与えていたといえよう。

 未だ命中弾がないのは幸いといえたが、かといって振り切ることも出来ていない。

 ソヴィエツカヤ・ガヴァニへの帰還が叶わないとなればウラジオストクへと向かわざるを得ないが、その距離をベロルシアが無事に航行出来る可能性は限りなく低いだろう。

 風浪も激しくなり始めたために速力を四ノットに低下させているベロルシアには、敵艦を振り切るだけの速力も敵艦を撃退出来るだけの戦闘能力も残されていない。

 第一砲塔は艦首からのこれ以上の浸水を防ぐために使用不能であり、残った第二、第三砲塔も船体に衝撃を与えないために射撃は控えざるを得ないのだ。

 昨夜から針路変針を繰り返して何とか敵の追跡を振り切ろうとはしているが、ヤポンスキーどもの執念は相当なもののようだった。恐らく、夜が明けて天候が回復すれば、また空襲を受けることになるかもしれない。

 まさか本艦が洋上航行中の戦艦で初めて航空攻撃で沈められた戦艦という不名誉を背負うことになりはすまいな。アンドレーエフはそんなこと思った。出来れば、敵艦との砲戦の中で最期を迎えたいものだ。

 彼がそう思った、刹那のことだった。


「十時の方向に敵大型艦らしき艦影見ゆ! 距離一万六〇〇〇!」


 見張り員の叫びに、艦橋の者たちが一斉にそちらの方角を見る。アンドレーエフもまた、その方向に双眼鏡を向けた。

 艦橋の外は、雨だった。そのために遠くほど、靄がかかったかのようになっている。


「……」


 アンドレーエフは目を凝らしてみるが、なかなか見張り員が発見したという艦影は見えない。見張り所に設置された双眼鏡とは倍率が違うからかもしれないが。


「敵は二隻! トサ・クラスと思われます!」


 だがその間にも、見張り員は己の発見した艦影の正体を突き止めようとしているようだった。


「トサ・クラス?」


 双眼鏡を下げたアンドレーエフは呟いた。

 それは、旧式ながら十六インチ砲十門を搭載した日本の戦艦だ。だが、開戦前の情報ではトサ・クラスは太平洋側にいるはずで、日本海にいるのはイセ・クラスだったはずだ。

 恐らく、見張り員は艦影を誤認しているのだろう。


「イセ・クラスの誤認ではないでしょうか?」


 参謀長のバイコフ少将も同様に疑問に思ったらしく、そう指摘した。


「ああ、そうだろうな」


 とはいえ、アンドレーエフにとって会敵した敵戦艦がトサ・クラスかイセ・クラスかなど、些細な違いでしかなかった。今のベロルシアでは、十四インチ砲搭載戦艦ですら十分な脅威となり得る。


「敵艦は転舵! 本艦と同航することを目論んでいると思われます!」


「砲戦でこちらを沈めるつもりか」


 見張り員の報告に、アンドレーエフはむしろ喜びを覚えた。

 この艦が最早まともに主砲を撃てないことなど、イセ・クラスに乗る司令官が知らないわけはないだろう。昨夜から付きまとっているヤポンスキーから報告は受けているはずだ。

 ならば駆逐艦を接近させて雷撃処分でも何でもすればいいのだ。

 あるいは単純に、この天候では駆逐艦による雷撃は困難だと考えているだけなのかもしれない。


「同志諸君、ヤポンスキーどもは戦艦としての流儀に則ろうとしているようだ」


 だとしても、アンドレーエフにとって日本側の判断は歓迎すべきものであった。


「“戦艦を沈めるには戦艦でなくてはならぬ”。であるならば、我々も戦艦としての流儀で彼らを迎え撃とうではないか」


 諧謔を込めた笑みすら浮かべて、アンドレーエフは艦橋の者たちに宣言した。

 この艦が、そして自分自身が、砲戦という戦艦にとって最高の舞台に立って最期を迎えられることを純粋に海軍軍人としての誉れであると感じていた。

 スターリン体制下での、抑圧すら感じられる軍務の最後の最後で、これほどまでに清々しい気持ちになれるとは思ってもみないことであった。


「艦長。こちらも、主砲左砲戦用意だ」


 いっそ朗らかともいえる調子で、アンドレーエフは命じた。


「リベットが吹き飛ぼうが、隔壁が歪もうが、最早構わん。ベロルシアが紛れもない戦艦であったことを、ヤポンスキーどもの記憶に刻みつけてやるのだ」


「ダー、同志提督」


 ベロルシアの艦長も、表情に固いものを残しつつも、すでに覚悟は決まっているようだった。


「赤色海軍戦艦ソビエツカヤ・ベロルシア、これよりすべての主砲の使用制限を解き、応戦いたします」






 伊勢から放たれた初速七九〇メートル毎秒の砲弾は、一万五〇〇〇メートルの距離を二十秒程度で駆け抜けた。


「だんちゃーく!」


 時計員の声とともに、一万五〇〇〇メートルの彼方に水柱が立ち上った。その水柱を三一号電探と十メートルの九四式測距儀で観測し、諸元修正を行う。

 三一号電探は射撃用電探として開発されたため、目標と水柱の区別が付くだけの精度はあった。二二号電探を射撃用に援用するのでは、こうはいかない。しかし、流石に目標の自動追尾機能は備わっていないため、より弾着観測の精度を高めるには光学の測距儀との併用が欠かせなかった。


「全弾近!」


「高め三、急げ!」


 野田知行砲術長が即座に命じた。修正された諸元を元に、先ほど発砲しなかった右砲が仰角を取り始める。一方の左砲は仰角を五度に戻して、次弾を装填していた。


「てっー!」


 伊勢は、二度目の射撃を放つ。彼女の船体が、再びの衝撃に揺れた。

 後方からも、轟音が鳴り響く。日向もまた、諸元修正を終えて第二射を放ったのだ。

 その時、雨の帳の向こうで煌めくものがあった。命中の閃光ではない。

 ソビエツカヤ・ベロルシアもまた、砲撃を開始したのだ。

 彼我の砲弾が、空中で交差する。

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