92 闇夜の追跡
〇〇五四時、那智は弾種を九一式徹甲弾に切り替えての主砲射撃を開始した。
各砲塔一門ずつの、交互撃ち方である。
那智には、対水上捜索用の二二号電探、対空警戒用の一三号電探の二種類の電探が搭載されている。その内、二二号電探は限定的ながら対水上射撃用電探としても用いることが可能な改四であった。
帝国海軍では水上射撃用電探として艦載が可能な三号一型電探(通称、三一号電探)が実用化され、さらなる性能向上型である三号三型電探(通称、三三号電探)が試験段階にあったが、どちらも那智には搭載されていない。
三一号電探はまだ生産数が少なく、大和以下各戦艦と、主力艦隊である第一、第二艦隊の各艦艇への配備が優先されたためである。
那智はこの二二号電探を用いて、主砲射撃を行った。
闇夜の中で、彼我の砲弾が交差する。
那智の二十・三センチ砲弾五発はベロルシアに対して五〇〇メートルほど離れた海面に落下し、一方のベロルシアの十六インチ砲弾一発は那智から三五〇〇メートルほど離れた海面で水柱を立てた。
しかし那智の側の射撃精度も、二万メートルという距離に阻まれて良好とは言い難い。とはいえ、これ以上の接近は危険であると第五艦隊司令部は判断していたから、ベロルシアとの距離を詰めるための転舵は行わなかった。
「当てられずとも、敵戦艦に変針を強いられればそれでよい」
志摩は、渋谷艦長にそう伝えた。
ベロルシアからの緩慢な砲撃が降り注ぐ中、那智は電探による探知結果を元にして主砲の交互射撃を繰り返していく。
ベロルシアは那智に対して艦首を向けているため、第一、第二主砲塔しか用いられないらしい。対して、那智は敵に左舷を向けているため、十門の主砲全門が指向可能であった。那智は照明弾も交えながら、電探の観測結果と見張り員からの報告を元に弾着修正を行い、射撃を続けた。
とはいえ、互いに命中弾は出ない。
そしした中で〇一〇六時、那智が徹甲弾による射撃を開始して十分が過ぎた頃のことであった。
「敵艦隊、煙幕を展開しつつあります!」
見張り員からの報告が、戦闘指揮所に届く。
「電探室よりも、敵大型艦が面舵に転舵したとの探知結果が上がってきております!」
次々と舞い込んでくる報告を、担当員が状況表示盤に反映していった。
「やりましたな、長官」
ようやく敵が転舵したことに、松本参謀長が安堵の声を漏らす。敵の針路を妨害し、変針を強いることで間宮海峡への逃走を阻止するという当初の目的は、成功したと彼は考えたのである。
相手は手負いとはいえ、十六インチ砲搭載の最新鋭戦艦である。二十・三センチ砲しか持たない重巡の那智がその巨艦の歩みを妨げたことに、一種の達成感を覚えていたのだ。
「いや、まだだ」
だが、志摩中将はじっと状況表示盤を見つめていた。
「敵は、こちらを振り切るのを諦めたわけではあるまい」
現在、那智は西に向かって進み敵艦に左舷を向けている状態である。敵艦が面舵に転舵したということは、敵は那智の後方をすり抜けようとしているのかもしれない。
こちらが再び敵の針路を妨害しようとするのならば、一八〇度の回頭が必要である。その針路変針にかかる時間で、敵はこちらの妨害を振り切ろうしている可能性を、志摩中将は考えていたのだ。
「だが、逃がすわけにはいかん」
彼は小さく呟いた。
敵は六ノットに速度を落としている。こちらが一八〇度回頭に多少の時間を要したとしても、十分に再び頭を抑えることが可能だろう。
「艦長、撃ち方止め。一八〇度回頭。再び敵艦の針路を妨害せよ」
「宜候。撃ち方止め。一八〇度、回頭します」
那智の舵輪が大きく回され、彼女は再びベロルシアの針路を抑えるべく回頭を開始した。
一方、ベロルシアは護衛のストレミーテリヌイとソクルシーテリヌイに煙幕を張らせつつ、大きく右へと回頭を開始していた。
「これで、少なくとも敵艦は光学での弾着観測は困難となったはずだ」
これまでの砲撃戦の経過から、アンドレーエフは敵艦がレーダーを用いた射撃を行っていると判断していた。しかし、敵艦はなおも照明弾を撃ち上げ続けていたから、少なくとも敵はレーダーの探知結果と光学での探知結果を併用しつつ弾着修正を行っているものとアンドレーエフは見ている。
その内、煙幕を張ることでせめて光学による弾着修正だけでも妨害出来ないかと思い、護衛の駆逐艦に命じてベロルシアの姿を煙幕の中に隠させたのだ。
天候が悪化し始めているからか、これまで上空をうるさく飛んでいた日本軍重爆撃機の機影はレーダーから消えていた。だから上空からの弾着観測も、不可能だろう。
実際、二隻の駆逐艦が煙幕を張ると、敵艦からの砲撃は途絶えたようだった。
敵は西へ進みつつベロルシアの針路を妨害していたから、ベロルシアの側はその反対である東へと転舵したのである。
とはいえ、アンドレーエフはこのまま敵が一八〇度の回頭を終えるまでに、ベロルシアがその後方をすり抜けて妨害を突破出来るとは考えていない。ベロルシアが二十八ノットの最大速力を発揮出来る状態であれば可能だっただろうが、今は六ノットしか出せないのである。
必然的に、再び針路を妨害されることになるだろう。
だからアンドレーエフは、ベロルシアに大きく弧を描くように回頭させた。ちょうど時計回りにベロルシアが回頭する恰好である。
一度、敵艦との距離を取ることで敵レーダーの探知圏外へと脱しようとしていたのである。
そして、その後で再び北上を試みる。
敵はこちらの転舵を受けて一八〇度の回頭を行い、今度は東へと進み始めるだろうから、ぐるりとベロルシアが回頭を終えれば東へ艦首を向ける敵艦の後方につくことが出来る。
そうなれば敵はまたこちらの針路を妨害するために西に向かって転舵せざるを得ないだろうから、再び回頭に時間を浪費することになるだろう。
その隙に、こちらはタタール海峡への突入を果たし、出来れば沿岸砲台の射程内に逃げ込む。
そういう肚であった。
もちろん、ベロルシアが六ノットしか出せない以上、敵艦はしつこくこちらの針路妨害や追跡を試みるだろう。しかし、ベロルシアはまだ第二、第三主砲塔が使用可能であった。
上手く転舵を繰り返して敵艦を翻弄しつつ、主砲による威嚇を行って敵を撃退する。アンドレーエフはそのように目論んでいた。
要するに、逃げるこちらと追う敵との駆け引きである。
ソビエツカヤ・ベロルシアという戦艦自体の命運が尽きかけていることをアンドレーエフは自覚しつつも、だからといってこの艦を無為に沈めるつもりはなかった。
那智とベロルシアの攻防は、その後、数時間にわたって続けられた。
〇一三一時から三十分ほど、那智の電探はベロルシアを失探した。これは、ベロルシアが大きく弧を描くように回頭し、一時的に針路を南側にとっていたからである。
このため、那智の二二号電探はベロルシアの姿を見失ってしまったのだ。
特別に訓練された夜間見張り員を持つ日本海軍といえど、真っ暗闇の中で三万メートル以上彼方の敵艦影を発見することは困難である。ベロルシアの探知には、電探の存在が欠かせなかったのである。
この時点では、アンドレーエフ中将の目論見は成功したといえよう。
しかし、それはあくまでも三十分の間だけであった。
一度はアンドレーエフの戦術に惑わされた那智ではあったが、再びベロルシアの艦影を電探で捉えると即座にその意図を察知。ベロルシアの艦首が再び北へ向く前に那智は再び彼女の針路を塞ぐような位置を取ることに成功していた。
その意味では、アンドレーエフ中将は日本側の探知能力を低く見積もり過ぎていたといえよう。
〇二二〇時過ぎより、日ソ両艦隊は再び距離二万メートルにまで近付き、砲撃戦を再開した。この時、那智は主砲と同時に八本の魚雷を放ってもいるが、これは残念ながらすべて外れてしまった。やはり、遠距離雷撃という戦術自体に限界があったといえよう。
ベロルシアの側は再び転舵を行って那智の探知圏内から逃れようと試みたものの、今度は日本側もそうしたソ連艦隊の動きを予測して転舵を行ったため、ベロルシアを見失うことはなかった。
〇三〇〇時過ぎには、日本側からの探知や砲撃から逃れようとするベロルシアは南の方へと追い立てられるような恰好となり、間宮海峡へと突入する機会はほぼ失われてしまう。
ただし、那智の側も魚雷を命中させられなかったために、あくまでもベロルシアの北上を妨害する以上のことは出来なかった。
また、数時間に及ぶ追跡のために照明弾が尽きつつあったため、途中からは主砲射撃も控えざるを得なくなっていた。
樺太近海のこの時期の日の出は〇五二〇時前後であり、日ソ両艦隊は新月の暗闇の中で互いに追跡と逃走を繰り返していたのである。
だが、最終的にこの攻防を制したのは、日本側であった。
一九四四年八月二十日〇四五〇時過ぎ、あと三十分ほどで日の出となる頃、舞鶴から急行中であった第七艦隊、その旗艦伊勢の電探が、ついにベロルシアの艦影を捉えたのである。




