91 照明弾射撃
八月二十日〇〇二八時、那智は距離二万五〇〇〇にて照明弾射撃を開始した。
二十・三センチ砲から放たれた照明弾は、雲が垂れ込め始めた新月の空の下で鮮やかに炸裂する。それまで漆黒であった彼方の海上にまばゆい光源が出現し、その下にあるものを浮かび上がらせた。
「敵艦を視認! ソユーズ級と思われます!」
照明弾の明かりを頼りに、見張り員が敵艦影を確認した。三連装の主砲塔に、幅の広い船体、そしてドイツ装甲艦風の艦橋。
それは、紛れもなく日本海軍が追い続けてきたソヴィエツキー・ソユーズ級三番艦ソビエツカヤ・ベロルシアの姿であった。
志摩中将ら司令部要員が詰めている戦闘指揮所でも、どよめきに近い歓声が広がっていく。
ようやく、水上艦隊によってベロルシアを捕捉することが出来たのだ。
「相手は、手負いとはいえ十六インチ砲九門を搭載する戦艦だ。油断は出来んぞ」
だが志摩は、戦闘指揮所にいる者たちを戒めるように言った。こちらは、あくまでも八インチ砲搭載の巡洋艦でしかないのだ。
十六インチ砲弾を一発でも喰らえば、この艦は無事ではいられないだろう。妙高型重巡は、六インチ砲弾に対する防御しか施されていないのだ。
「距離二万メートル以下には接近せず、敵の頭を抑える針路を取り続けよ」
だから志摩は、二万メートルの距離を保ちつつベロルシアの針路を妨害、砲撃によってこれを牽制することとした。
もちろん、好機に乗じて雷撃を行うつもりではある。一本でも命中させられれば、ベロルシアの足はさらに鈍るだろう。
しかし、敵艦に接近しての雷撃は困難と危険が伴うため、あくまで主砲砲戦距離での遠距離雷撃とするつもりであった。
敵の護衛艦艇を牽制出来る僚艦がいないため、ベロルシアの砲火が那智に集中してしまう可能性が高かったからである。
護衛の神風以下四隻の駆逐艦は、逆に敵の二隻の護衛艦艇がベロルシアを守るべく必死の突撃を行ってくる場合に備え、那智の直衛を任せている。そのため、那智が距離二万でベロルシアと戦闘を繰り広げる間隙を縫って、突撃させるわけにもいかなかった。
志摩たちのいる戦闘指揮所にも、那智の主砲射撃の振動が伝わってくる。
艦橋からは、敵戦艦の発砲を確認したとの報告はない。少なくとも、電探による探知も含めて、那智はベロルシアの先手を打つことには成功したようであった。
「問題は、ベロルシアがどのような針路をとってくるかだな」
那智は現在、ベロルシアの行く手を遮っている。それに対し、ベロルシアは変針するのか、あるいはそのまま強行突破を図るのか。
十六インチ砲搭載戦艦ということを考えれば、重巡一隻を蹴散らして突破することも可能だろう。しかし、ベロルシアは現在、六ノットにまで速力を低下させている。ベロルシアが万全の状態ならば強行突破も可能であったろうが、果たして敵司令官はどのような判断を下すのか。
「……」
志摩は戦闘指揮所に新たな報告が届けられるのを、じっと待っていた。
「アゴーン!」
距離二万二〇〇〇メートルにて、ソビエツカヤ・ベロルシアは主砲射撃を行った。
第一主砲塔から一発のみの発射ではあったが、砲口から闇を裂く鮮やかな発砲炎がほとばしる。
それは乗員たちの執念なのか、あるいは粛清への恐怖なのか、アンドレーエフには察しようがない。しかし、ベロルシアがまだ戦艦として健在であることを敵艦に知らしめることにはなるだろう。
問題は、今のベロルシアの船体がどこまで主砲射撃に耐えられるのか、そして弾着観測をどうするのか、ということであった。
質の悪い資材を用いて建造されたベロルシアはそもそも主砲斉射の衝撃に船体が耐えられない状態であったが、被雷とそれによる隔壁の損傷によってさらに船体は危うい状態となっている。
また、こちらはあくまでも敵の発砲炎を目がけて射撃を行っているだけで、見張り員は敵艦影を正確に捉えられてはいない。むしろ、敵の照明弾射撃によってベロルシア周辺が明るくなり、かえって暗闇を見通し辛くなっているのだ。
そのため、ギュイース-1対空レーダーが未だ敵艦影を探知出来ていないこともあり、弾着観測そのものが不可能となっていた。
アンドレーエフは偶然であろうとも構わないから、砲側照準によって放たれた主砲弾が敵艦の近くに落下してくれることを願わずにはいられなかった。
敵艦の主砲発射は、那智でも捉えていた。
戦闘指揮所内に、緊迫した空気が生まれる。伊王との戦闘の結果からソ連海軍の射撃精度は低いものと予測されたが、十六インチ砲弾が飛んでくるとなれば、流石に身を固くせざるを得ない。
十六インチ砲の威圧感をはね除けて避難民を守り切った伊王の乗員たちに、志摩は改めて驚嘆の念を抱かずにはいられなかった。
やがて、ベロルシアの放った主砲弾が那智の後方三〇〇〇メートル近くの海面に落下したとの報告がもたらされる。しかも、確認された水柱は一本だけであるという。
「敵は船体への負荷を考えて、一門ずつの射撃にしているのでしょうか?」
「恐らくは、そうであろうな」
松本参謀長の言葉に、志摩は頷く。
四航戦攻撃隊は、ベロルシアに三本の魚雷命中を確認している。被害箇所によっては防水隔壁なども損傷させた可能性があり、主砲射撃による振動でさらなる隔壁の損傷を招くことをベロルシア側が恐れていると考えられたのである。
また、被雷による浸水によって艦のトリムが狂い、射撃精度そのものが低下している可能性も大いにあった。那智から三〇〇〇メートルも離れたところに水柱が立つということは、そういうことだろう。
しかし、だからといって油断は出来ない。
過度に接近すれば敵戦艦の副砲や高角砲などによる射撃も加わるであろうし、敵護衛艦艇の突撃を受けやすくもなるだろう。
「艦長、距離二万にて、弾種を徹甲弾に切り替えよ」
志摩は戦闘指揮所から、艦橋に立つ艦長の渋谷紫郎少将に命じた。
「また、左魚雷戦用意。好機に乗じ、敵戦艦への雷撃を敢行する」
那智は十門の主砲を振りかざしつつ、ベロルシアとの本格的な砲戦に移行しようとしていた。
「艦長、艦首部の浸水が拡大しつつあるとのことです。第一主砲塔からの射撃は、控えるべきかと」
ベロルシアのダメージ・コントロールを担当する将校が、艦長にそう報告した。
もともと、艦首部を沈下させながら進んでいたベロルシアである。これ以上の浸水の拡大を防ぐために六ノットで航行を続けていたとはいえ、艦首の防水隔壁にかかる水圧は相当なものだったろう。それが、艦首に近い第一主砲塔の射撃によってついに水圧と隔壁の強度との均衡が破られたのだ。
「やむを得ん、艦長。第一主砲塔からの射撃は中止せよ」
「ダー、同志提督」
アンドレーエフがそう命じると、艦長は苦渋の表情を浮かべてそれに従った。
「……」
次いでアンドレーエフは、ちらりと政治将校のザイツェフ少将に視線をやった。
先ほどまでうるさく喚いていたかと思えば、今度はやけに大人しくなっていた。やたらと躁鬱が激しい。
政治将校として作戦を成功に導けなかった以上、ソビエト共産党におけるこの男の政治的生命は絶たれたも同然だ。そして、生物的な意味での生命が絶たれるのも、時間の問題だろう。
作戦を成功に導けなかった政治将校は、軍に対する政治的指導が不十分であったとして、容易に粛清の対象になってしまうのだ。
そうした己の運命を前に、督戦する気力も湧いてこないのかもしれない。
いずれにせよ、自分にとっても最後となるだろう艦隊の指揮を小うるさい政治将校に邪魔されないのならば、アンドレーエフはそれで良かった。




