90 新月の下での邂逅
重巡那智の二二号電探は、距離三万一〇〇〇メートルにて大型艦の艦影を捉えていた。
時刻は、日付が変わった八月二十日〇〇〇六時であった。
依然として新月の夜は、海上を漆黒に塗りつぶしている。
戦闘指揮所(CIC)には志摩清英中将以下、第五艦隊司令部の者たちも降りてきており、いささか手狭さを感じさせる有り様となっている。しかも電探室や見張り員などから次々ともたらされる情報を樹脂で作られた状況表示盤に反映するための声が飛び交い、室内は喧噪に包まれてもいた。
そうした中で、志摩中将は刻々と情報が書き加えられ、修正されていく状況表示盤を見つめていた。
電探で大型艦の艦影を捉え、連山からの誘導もあってこの艦影が敵戦艦ベロルシアであることは間違いないと考えられたものの、未だ那智の射程内には入っていない。
妙高型重巡洋艦は竣工時には二十センチ砲を搭載していたが、那智は一九三四(昭和九)年の第一次改装で二十・三センチ砲(正八インチ砲)に換装していた(もちろん、主砲換装は他の妙高型も行っている)。
この五十口径三年式二号二十センチ砲の最大射程は、二万九四三二メートル。
電探で敵影を捕捉した距離三万一〇〇〇メートルでは、まだ砲弾は届かない。
だが一方で、電探の艦影に変化もない。恐らく、敵の電探なり見張り員は、こちらの存在に気付いていないのだろう。
カムチャッカ沖での海戦や東朝鮮沖海戦の戦訓、そして海防艦伊王の撃沈に二時間以上を要し、結局は船団を取り逃がしてしまったことから考えると、ソ連海軍の電探技術はそれほど優秀ではないのかもしれない。
「速力を二十六ノットとなせ。このまま敵の針路を抑えるぞ」
志摩中将は、そう命じた。
那智以下五隻の艦隊は、二十ノットから二十六ノットへと増速する。那智の艦首が、海面を鋭く切り裂いていく。
敵は六ノット前後で航行していることもあり、第五艦隊側が敵艦隊を追い越すような形でその針路の前に出ることは容易であった。その間にも、敵艦隊からの反撃はない。
ソ連艦隊は本当に、那智や四隻の駆逐艦の存在に気付いていないのだろう。
あるいはこのまま遠距離雷撃を試してみるべきか、と志摩は思った。
重巡の雷撃は基本的に砲戦距離内において行うことを想定しているため、遠距離で雷撃を行う状況も想定されている。そのために開発されたのが酸素魚雷である九一式魚雷であり、この魚雷は雷速四十二ノットならば三万メートル、三十六ノットならば四万メートルの射程を誇る。
そのため、電探で捉えた大型艦はすでに那智の酸素魚雷の射程内であるといえた。
しかし、流石に三万メートルや四万メートルで魚雷を発射しても、那智一隻の八本の射線では命中は困難だろう。
出来れば距離二万メートル付近で、主砲射撃に紛れながら魚雷を放ちたい。
「敵艦隊、なおも北上中。本艦との距離、三万を切りました!」
電探室からの報告が、戦闘指揮所に響き渡る。
樹脂板に表示される彼我の位置関係が、刻々と更新されていく。志摩たち司令部要員から見て状況表示盤の裏側にいる担当兵士が、鏡文字で情報を書き加えていた。
帝国海軍の夜間見張り員と共に、戦闘指揮所の要員たちも特殊技能を持たせる訓練を重ねた者たちであった。
志摩が表示盤を見れば、すでに那智は敵大型艦の針路を塞ぐような位置にあった。上空の連山の搭載する電探による探知結果も、そこには反映されている。那智の電探が未だ捉えられていない二隻の艦影が、状況表示盤にあった
大型艦一、小型艦二というのが敵艦隊の戦力であるようだった。
「左砲戦用意! 主砲、照明弾射撃用意!」
志摩の鋭い声が、戦闘指揮所に響き渡る。
まずは照明弾射撃を行い、こちらの存在を誇示。それによって敵艦隊の変針を狙おうとしたのだ。
那智に搭載されている照明弾は、二十・三センチ主砲用のものと十二・七センチ高角砲用のものが存在する。その内、射程の問題から、志摩はまず主砲による照明弾射撃を行おうとしたのである。
「目標、敵大型艦! 距離二万五〇〇〇にて、撃ち方始め!」
それは、ベロルシアを追撃していた日本艦隊が、ついにその主砲射程内に彼女を捉えようとした瞬間であった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
照明弾の明かりの下、ベロルシアは海上にくっきりとその姿を浮かび上がらせることになった。
「いったいどこから撃たれている!」
レーダーも見張り員も敵艦隊の存在を捉えられぬ中、艦橋には政治将校のザイツェフ少将の苛立った声が響いていた。ベロルシアが航空攻撃を受けたあたりから、もはやこの政治将校は喚き散らすだけの存在になり果てつつあった。
乗員に今次戦争の意義を説き、戦意を高揚させることが政治将校に求められることであるだろうに、現在ではかえって艦橋にいる者たちの士気を下げるような発言に終始している。
純粋な将校としてではなく、共産党員として教育を受けてきたことが、この状況下で狼狽した言動を繰り返すことになっているのだろう。
「敵艦から発射された照明弾ならば、発砲炎が見えるはずだ。それを探せ」
アンドレーエフは海軍軍人として、最早哀れみすら感じる醜態を見せる政治将校を無視して指示を下す。今の照明弾射撃で暗闇に慣れた目をやられてしまった見張り員もいるだろうが、とにかく敵影を確認することが先決であった。
その間にも、一定の間隔でベロルシア上空に照明弾が撃ち込まれていく。
「一時の方角、距離二万三〇〇〇に発砲炎らしきものを確認!」
やがて彼方に煌めくものを見つけたのか、大型の双眼鏡に取り付いている見張り員の報告がもたらされた。
「こちらの針路を塞がれているか……」
だがそれは、ベロルシアに新たな試練を突き付けていた。敵は、ソヴィエツカヤ・ガヴァニに向かおうとするこちらの針路を塞ぐように進んでいたのである。
「沿岸砲の射程内に逃げ込めればよかったのだが……」
しかし、六ノットではそれも困難だろう。アンドレーエフは決断を迫られていた。
「―――主砲、副砲、砲戦用意!」
一瞬の逡巡の後、北太平洋小艦隊司令官はそう叫んだ。
「同志提督、それでは……」
だが、ベロルシアの艦長はアンドレーエフの言葉に引き攣った表情を向けた。ベロルシアの主砲射撃方位盤は故障し、砲塔が個別に射撃をすることしか出来なくなっている。その上、傾斜と浸水、船体強度の問題から、主砲を放つことはかえって危険であると指摘したいのだ。
「主砲は、船体に負荷をかけぬよう、一度に一門ずつの射撃でも構わん」
だが、アンドレーエフ中将は断乎とした口調で言った。
「とにかく、こちらが主砲砲戦能力を維持しているとヤポンスキーどもに思わせられれば良い。そうすれば、こちらの針路を塞ごうとする敵艦も退避せざるを得なくなるだろう」
アンドレーエフは照明弾の数や距離などから、敵は少数かつ戦艦などを伴っていないと判断していた。
もし敵が戦艦であるならば、すでにベロルシアには巨弾が降り注いでいたはずである。だというのに照明弾射撃に終始しているということは、相手は戦艦ではないということだ。恐らく、巡洋艦だろう。
ならば、主砲で脅し、敵艦に退避を促そうというわけである。
たとえベロルシアが戦艦としては不具合の多い艦であろうと、敵にとって十六インチ砲は相当な脅威となるはずである。
乗員の練度が低いために砲側照準での射撃には手間取り、また命中もほとんど期待出来ないだろうが、敵艦を撃退することには使えないこともないだろう。
それが、アンドレーエフの考えであった。
最早ソビエツカヤ・ベロルシアへの命運は尽きようとしているのかもしれないが、司令官として彼女には最期まで戦艦らしい戦いをさせてやりたい。
そして、そんな彼の思いに応えようとするかのように、ベロルシアの主砲はゆっくりと旋回を開始し、砲身が仰角を取り始めるのだった。




