85 ベロルシア捕捉
帆足機が発した電文は、第七艦隊旗艦の伊勢でも受信していた。
「北緯四十七度、東経百三十九度。真岡の沖、一五〇キロほどの海域で、どちらかといえば沿海州沖といった方がよい辺りです」
参謀長の岩淵三次少将が、即座に海図を確認させて五藤存知中将に報告する。
「しかし、針路二三〇度というのが気になるな」
伊勢艦橋の長官席に腰掛けながら、五藤は思案顔であった。
針路二三〇度ということは、南西に向かって進んでいるということである。
発見海域から考えれば、真岡への艦砲射撃、あるいはソヴィエツカヤ・ガヴァニへの帰還を目指していると見るのが普通であろう。しかし、ソ連艦隊は真岡のある西にも向かわず、ソヴィエツカヤ・ガヴァニのある北にも向かわず、何故か南西を目指しているようだった。
南西に進めばウラジオストクへ入港することが出来るが、では何故昨日の海戦後、即座にウラジオストクへと向かわず、未だ間宮海峡の南側出口付近に留まっているのか。
不可解であった。
「七〇三空の連山が誤認したわけではあるまいな?」
「流石にそれはないでしょう」
五藤の指摘に岩淵はそう答えたが、彼自身も不可解そうであった。
「あるいは、宗谷海峡での船団襲撃を諦めて、間宮海峡付近で我が船団を襲撃しようと待機しているのやもしれません」
現在は一時中断されているとはいえ、樺太西岸の真岡、本斗は北海道への避難を目指す樺太住民たちが集まっている港町である。いずれまた日本の輸送船が往来すると考えて、ベロルシアはその海域で待機しているのであろうか。
「ひとまず、太平洋艦隊主力への合流を果たそうとはしていないようですから、ソ連艦隊を各個撃破する好機ではありましょう」
「敵太平洋艦隊主力が、救援のために向かっているという徴候はあるか?」
参謀長にそう言われつつも、五藤はソ連艦隊の不可解な行動への疑念を捨てきれずにいた。もしかしたらソ連海軍は、太平洋艦隊主力と北太平洋小艦隊を合流させ、再びの宗谷海峡突入、あるいは北海道沿岸地域への襲撃を目論んでいるのではないか。
そうした可能性を、五藤は懸念していたのである。
「現在、索敵機からそのような報告は届いておりません。また、ウラジオ沖で哨戒を行っている第四潜水戦隊からも、敵太平洋艦隊主力が出撃したとの報はございません」
「ふむ」
少しの間、五藤はソ連艦隊の不可解な動きについて考えようとした。だが、そのような時間は与えられなかった。
「隼鷹より発光信号! 我、攻撃隊発進準備完了とのこと!」
第四航空戦隊司令官・長谷川喜一少将からの信号が伊勢艦橋に届いたのである。
帆足機からの敵艦隊発見の報は、すでに伊勢から第四航空戦隊司令部に転送してある。空母故に通信アンテナが戦艦よりも低いという問題から、帆足機の電文を隼鷹側が受信していない可能性を考えたからだ。
「長谷川少将は、随分と気が早いな」
五藤は、四航戦司令官からの信号に苦笑を浮かべた。
現在の艦隊の位置から発見されたソ連艦隊までの距離は、まだ五〇〇キロ(約二七〇浬)ほどある。攻撃隊にとっては、往復一〇〇〇キロの行程になるだろう(もちろん、第七艦隊は発見された敵艦隊に向けて前進を続けるので、実際にはそれよりも短くなるだろうが)。
攻撃隊を発進させるにしても、搭乗員の負担を考えれば片道三七〇キロ(二〇〇浬)あたりが妥当ではないかと五藤は考えていた。しかし、長谷川少将は違うようであった。
これは、帝国海軍母艦航空隊にとってこれは初めての戦艦攻撃任務となる。
漸減邀撃作戦の構想の下、猛訓練を重ねてきた者たちにとって、たとえ相手が米戦艦でなくとも気が逸るものなのかもしれない。
「隼鷹より再び信号! 攻撃終了後、母艦航空隊ハ豊原飛行場ヘ向カワセントス!」
つまり長谷川少将は、攻撃隊は母艦に帰還させず、そのまま樺太の飛行場に着陸させることで長距離攻撃を可能としようとしているわけである。樺太にある飛行場の内、海軍飛行場である敷香飛行場は流石に距離があり過ぎるため、民間飛行場である豊原飛行場へと攻撃隊を向かわせようとしているのだ。
しかしこれでは、第七艦隊はこの一度しか航空攻撃を行えないことになる。
「だが、やむを得んか」
五藤は、決断することにした。発見したソ連艦隊の動きが不可解である以上、ベロルシアの足を出来るだけ早くに止めてしまわなくてはならない。彼女がウラジオへ向かおうとしているにせよ、ソヴィエツカヤ・ガヴァニへ帰還しようとしているにせよ、真岡への艦砲射撃を目論んでいるにせよ、航空攻撃によって航行不能にさせてしまえば、あとはどうとでも処理が出来る。
それに、当初から航空戦の指揮は長谷川少将に委ねると決めていたのだ。
「隼鷹に返信。攻撃隊発艦始め!」
五藤の命令は即座に発光信号となって隼鷹へと伝えられた。
やがて、二隻の商船改造空母からは烈風十八機、彗星二十四機、天山九機が発進していく(飛行甲板の長さの問題から、二度に分けて発進した)。
これが、帝国海軍母艦航空隊にとって初めて戦艦攻撃を企図した攻撃隊となったのである。
手空きの者たちから帽振れで見送られた攻撃隊は、勇躍、北を目指して飛び去っていった。
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日本側から不可解に思われていたソビエツカヤ・ベロルシア以下北太平洋小艦隊の動きであったが、これは戦術的な判断からではなく政治的な判断が優先されたが故に、こうした状況となっていたのである。
「北太平洋小艦隊のソヴィエツカヤ・ガヴァニへの帰還は、認められない」
太平洋艦隊司令長官のユマシェフ大将、そして太平洋艦隊司令部付き政治将校のザハロフ中将からの通信は、アンドレーエフ中将にとって無情なものであった。
彼は速力を二十四ノットに低下させ、さらには主砲射撃方位盤が故障して統制された主砲射撃が行えなくなってしまったベロルシアを、いったん修理のためにソヴィエツカヤ・ガヴァニへと帰還させ、その後、再び出撃することを太平洋艦隊司令部に具申していたのである。
しかし、カムチャッカ沖や朝鮮沖での海軍の不甲斐なさに不満を抱いていたスターリンの意向を受けた太平洋艦隊司令部は、北太平洋小艦隊の消極的な行動を認めなかった。
スターリンが海軍総司令官クズネツォフ元帥を督戦したように、ユマシェフ大将とザハロフ中将もまた、アンドレーエフを督戦していたのである。
これにより、ベロルシアは浸水と射撃方位盤の故障を押して、再度の宗谷海峡突入を目指さざるを得ない状況に陥っていた。
その結果、日本側から見て中途半端な海域を延々と遊弋していたのである。
「何とか、我が艦隊の面子を保たねばならん」
アンドレーエフ中将は、長官室で参謀長のバイコフ少将に険しい面持ちでそう告げた。
「でなければ、私も君も破滅だ」
司令官からの言葉に、バイコフ参謀長も顔を強ばらせた。
このまま何の戦果もなく帰還すれば、自分たちは敵前逃亡か、あるいは日本への内通という容疑をかけられて逮捕されるだろう。そしてNKVDによる拷問の中で息絶えるか、拷問に屈して虚偽の自白をして処刑されるか。
しかも、自分だけが破滅するならばまだいい。NKVDは、自分たちの家族にも容赦はしないだろう。
すでに、朝鮮沖で敗北した艦隊の将兵たちにはNKVDの追及の手が伸び、その家族までがスパイ容疑で次々と拘束されているという噂が、アンドレーエフたちの元にも届いている。
「これが我が赤色海軍の現状だ」
嘆きたいのか憤りたいのか、アンドレーエフ中将自身にも判らなかった。
「輸送船相手であれば、副砲や高角砲でも何とかなろう。我々は、やるしかないのだ」
そう言って、アンドレーエフは長官室を出て艦橋へと戻った。今まで参謀長と今後の作戦について打ち合わせをしていたとでもいうような表情で、政治将校のザイツェフ少将に言う。
「我が艦隊は、今夜再び宗谷海峡への突入を目指す。日中の内は、排水および射撃方位盤の修理に専念する」
「同志提督の敢闘精神を、同志スターリンと党は高く評価することでしょう」
その言葉にどこか白々しさを覚えつつも、アンドレーエフ中将は努めて内心が表情に出ないようにした。
すでに日の出を迎え、昨夕の海戦など忘れたかのように海は平穏を取り戻していた。しかし、ここは戦時の海。その平穏がまやかしに過ぎないことを、アンドレーエフらはすぐに思い知ることになる。
「レーダーに反応があります! 大型機らしき機影、南南東より接近中!」
〇七〇〇時過ぎ、ベロルシアのギュイース-1対空レーダーが接近する影を捉えたのである。
見張り員たちが目視でその機影を確認しようと、双眼鏡を上空へと向けた。ベロルシア艦橋にも、緊張が走る。
友軍機であればいいが、北海道方面から飛来してくる以上、日本軍機であろう。
「高度三〇〇〇に機影を確認! ヤポンスキーの四発爆撃機です!」
やがて、肉眼でも機影を確認したらしい見張り員の報告が艦橋を駆け抜けた。
「……」
「……」
「……」
ベロルシア艦橋を覆う緊張が、よりいっそう張り詰めたものとなる。
「……日没まで、随分と時間がかかりそうだな」
胸の内に暗い予感を生じさせながら、アンドレーエフ中将はそう呟いたのだった。
史実海戦における空母と目標との距離
真珠湾攻撃……200浬
第二次ソロモン海戦……260浬
南太平洋海戦……210浬
マリアナ沖海戦……380浬




