81 西部戦線の後退
一九四四年八月十八日、満洲国西部戦線では日ソ両軍による攻防が続けられていた。
「ウラー!」
ロシア語の蛮声と共に、無数の兵士が満洲の大地を埋め尽くすように突撃を開始する。
そして直後、その声をかき消すかのような轟音が響き渡り、今まさに突撃せんとしていた兵士たちを吹き飛ばした。降り注ぐ砲弾による爆発は連続し、そのたびに少なからぬ兵士たちが肉片と化していく。
それでも「ウラー!」の喊声は鳴り止まない。
やがて、軽快な発砲音がそこに加わることになる。機関銃による、突撃破砕射撃であった。
放たれた機銃弾により、なおも突撃を続けていたソ連兵たちがつんのめるようにして倒れていく。
だがそれでも、海嘯のように押し寄せるソ連兵たちの突撃は止まらない。
砲撃や機関銃によって戦友が薙ぎ倒されようとも、彼らは突撃を続けた。
鉄条網にもたれかかるようにして事切れた味方の死体を乗り越えて、一部のソ連兵たちは日本兵の拠る塹壕へと飛び込むことに成功する。
狭い溝の中で、両軍の兵士が交錯した。
銃剣で敵を突き、円匙で薙ぎ、銃床で頭を砕く。そうした純粋な暴力の応酬が、陣地の各地で繰り広げられた。
排水のために敷かれた簀の子の下には水ではなく泥の混じった血が流れ、砕かれた頭蓋から飛び散った脳漿が塹壕の壁面にこびりつく。
日ソの兵士たちが繰り広げる凄惨な白兵戦は、やがて陣地後方から日本側の予備兵力が現れたことで収束に向かい始める。
彼らはソ連兵に奪われかけた陣地を奪還し、さらには逆襲へと転じた。
すでに日本軍による野砲と機関銃の射撃によって多くの戦友を失っていたソ連兵は、予備兵力を投入して行われた日本軍の逆襲に持ち堪えることが出来なかった。
ソ連軍の政治将校たちは恐慌状態に陥って潰走しようとする味方に容赦なく拳銃を突き付けたが、その政治将校もまた日本軍の射撃によって撃ち倒される。
やがてソ連兵は、日本軍陣地の前に積み上がった友軍の死体をかき分けるようにして、無秩序な潰走を始めたのであった。
◇◇◇
「ソ連軍の我が陣地への攻撃は、執拗というよりも何かに取り憑かれたかのような不気味さを覚えます」
索倫に司令部を置いている独立混成第三旅団の参謀長・日笠賢大佐は険しい顔で戦況を示した地図を睨んでいた。
「我が旅団は現状では持ち堪えておりますが、連日のソ連軍の攻勢によって兵の疲労も無視出来ぬものとなりつつあります」
「今日になって、ソ連軍の動きがより損害を厭わぬものへと変化したように思えるな」
参謀長の言葉に同じく険しい顔で応じたのは、独立混成第三旅団旅団長・宮崎繁三郎中将であった。
「ソ連軍上層部の方で、何か作戦方針に変化があったのでしょうか?」
「だとしても、我が旅団がここ索倫を守り抜くという方針に変わりはない」
強い意志を感じさせる口調で、宮崎は断言した。
彼が満洲国西部でソ連軍と対峙するのは、これが初めての経験ではない。五年前の一九三九(昭和十四)年のノモンハン事件に、当時、大佐であった宮崎は歩兵第十六連隊長として参加していたのである。
満洲国と外蒙古の国境紛争に端を発した日ソ間の軍事衝突は、最終的に外交交渉によってモンゴル側の主張する国境線が認められたことで事実上、日本軍の敗北に終わった。だが一方、宮崎自身はこの事件によって名声を上げることになった。
当時、ノモンハンの戦闘において九〇四高地と呼ばれていた地点の守備についていた第十六連隊は、戦車部隊を含むソ連軍の猛攻を凌ぎきり、敵戦車一五〇輌を撃破するという戦果を挙げていたのである。
さらにこの時、宮崎は隊内から石工を集めて日時と連隊名を刻ませた石を戦場となった地に埋めさせることで、その地域のみ日本側の主張する国境線をソ連側に認めさせる材料を作った。こうした機転もまた、彼の名声を上げる一助となった。
その後、少将に昇進した宮崎は歩兵第二十六旅団長などを経て、三番目の諸兵科連合部隊である独立混成第三旅団長に任じられて、今に至る。
今年の六月に中将に昇進し、次の人事異動でいよいよ師団長に栄転することが決まりかけていたのであるが、日ソ開戦に伴って大幅な人事異動を行う余裕がなくなったため、今も独混第三旅団の指揮をとり続けていた。
「索倫をソ連軍に奪われれば、阿爾山・五叉溝方面の友軍は孤立する。避難民の輸送もまだ途上だ。我々はここで、ソ連軍を押し止めなければならん」
宮崎は、自身が再び満洲国西部国境にてソ連軍を迎え撃つこの状況に、何か因縁じみたものを感じていた。そして、決して余裕を感じられるような戦況ではないものの、彼は今、自分が独混第三旅団を率いていることに不思議な充実感を覚えてもいた。
ノモンハン事件のときは、押し寄せるソ連軍戦車部隊に対して歩兵第十六連隊は棒地雷と火炎瓶による肉薄攻撃を中心に戦った。最終的には戦場に速射砲部隊が到着してソ連軍戦車部隊の撃退に成功したのものの、宮崎にとって苦しい戦いであったことには違いない。
周囲からの賞賛に、信頼する部下たちの多くを失った宮崎は素直に喜ぶことが出来ていなかったのである。
しかし、今、自分の手元にある兵力は五年前とは違う。
独立混成第三旅団は、機械化歩兵部隊である独立歩兵第三連隊、機動九〇式野砲を装備する独立野砲兵第三大隊、そして最新鋭の三式中戦車の配備された戦車第十八、十九連隊などからなる。
戦車の一部は三式中戦車の生産が間に合わず、一世代前の一式中戦車などが混じっているものの、それでも二個連隊一〇二輌もの戦車を擁する部隊であった。
戦車だけでなく歩兵の機械化・装備更新も進み、独立歩兵第三連隊は一式半装軌装甲兵車に四式自動小銃という装備が与えられていた。
装備の質も量も、五年前のノモンハン事件の際とは隔世の感がある。
「明後日二十日には、陸海軍共同によるソ連軍への航空総攻撃が予定されている。将兵には、それまでの辛抱だと伝えてくれ」
関東軍および第十二航空艦隊との現地協定によって実施が決定された西部国境方面への航空攻撃は、白城子周辺に陸軍の第五飛行師団(司令部・奉天)と海軍の第二十八航空戦隊(司令部・奉天)の戦力を集結させて、八月二十日に敢行されることとなった。
これが成功すれば、ソ連軍の進行速度は鈍らざるを得ないはずである。
すでに日本側は、西部国境を突破して満洲国中枢へと突進を図るソ連軍が砂漠地帯を突破するために無数の補給部隊を引き連れていることを航空偵察などによって察知していた。
また、この地域のソ連軍航空兵力も、どうやらその多くが空輸部隊として運用されているようである。
これら前線部隊へと燃料や弾薬、食糧を届ける部隊を航空攻撃によって撃破することが出来れば、その分、ソ連軍の進撃速度は低下することになるだろう。
もちろん、ソ連軍航空部隊による鉄道などへの爆撃は行われているものの、開戦前に想定していたよりもソ連の航空戦力は日本側の地上部隊・航空部隊に打撃を与えられていない。
依然として油断は大敵であろうが、宮崎自身も陸海軍共同による二十日の航空総攻撃には期待をかけていた。
それは、この方面の部隊の後退や満蒙開拓団の避難に必要な、貴重な時間を稼ぐことに繋がるからであった。
すでに満洲国西部を担当する第三軍司令部(司令官:牛島満中将)や関東軍司令部では、西部戦線の縮小を決定している。
阿爾山・五叉溝方面では阿爾山駐屯隊、第十五師団、第二十三師団が辛うじて踏みとどまっているものの、戦車部隊を中心とするソ連軍の大部隊はその南側をすり抜けるようにして進撃を続けていたからである。
さらには、中国領内蒙古方面を経由して満洲国へと侵攻するソ連軍部隊も存在する。
このままでは、関東軍は満洲国西部国境に長大な突出部を抱えることになってしまう。
さらに、もし仮に宮崎ら独混第三旅団の守る索倫が陥落すれば、阿爾山・五叉溝方面を守備する三個師団規模の兵力がソ連軍によって包囲されることになるのだ。
だからこそ、関東軍司令部も第三軍司令部も、阿爾山・五叉溝・索倫など白杜線(白城子―杜魯爾)沿線地域の放棄を決断していた。
日本側は国境線ではなく、洮斉線(洮南―斉斉哈爾)の線で西部国境方面から侵攻するソ連軍を迎撃する方針へと転換していたのである。
「ここが踏ん張りどころだ。友軍のためにも、そして開拓団の者たちのためにも、旅団将兵には今一度、奮起してもらいたい」
そうして宮崎は自ら前線の将兵たちを鼓舞すべく、司令部を出ると九五式貨物自動車へと乗り込んだのであった。




