80 礼文島沖海戦の結末
距離六〇〇〇メートルにまで迫り、伊王は命中弾こそまだ受けていなかったものの、多数の至近弾に囲まれることとなった。
水柱と共に弾片が彼女の船体に襲いかかり、まず探照灯が吹き飛ばされた。
次いで、後檣の後部に設置されていた四十ミリ機銃が弾片の直撃を受けて使用不能にされる。
中でも敵戦艦の放つ十六インチの榴弾が作る水柱と弾片は脅威であった。
伊王の二基三門の十二・七センチ高角砲は、砲塔形式ではなく防楯が付けられた程度のものでしかない。そこに水柱が襲いかかり、装填を担当している砲員たちを押し流していったのである。
さらに、弾薬庫から砲弾を運び出すために甲板上を疾駆する乗員たちも次々に弾片に薙ぎ倒されていった。
それでも、伊王の乗員たちは怯まなかった。
砲員たちが次々に欠けていく中、手空きの機銃員や爆雷担当の乗員たちがその穴を埋めようと率先して甲板に上がっていく。
その者たちも水柱に攫われ、弾片に斃れ、そしてまた次の者がやってくる。甲板にはすでに無数の血の流れが出来ていた。
そして、短艇が破壊され、煙突に弾片が食い込む中で、なおも伊王は射撃を続けていた。
敵戦艦の艦上に、直撃弾を示す閃光が走る。
「そろそろ輸送船は宗谷の要塞砲の射程内に逃げ込めたかな?」
小寺少佐は時計を確認してぽつりと呟いた。
時刻はすでに二〇〇〇時を過ぎていた。日没まであと十五分ほど。
宗谷臨時要塞に開戦と同時に設置された九六式十五センチ榴弾砲の最大射程は、二万六二〇〇メートル。そろそろ、敷設艇石埼に守られた三隻の輸送船は、その射程内に入った頃だろう。
一対五、それもこちらは排水量一〇〇〇トンに満たない海防艦でありながらソ連の最新鋭戦艦に一太刀以上を浴びせられていることに、小寺少佐は満足していた。
伊王に敵弾が直撃したのは、その直後のことであった。
ソビエツカヤ・ベロルシアを護衛する二隻のグネフヌイ級駆逐艦ストレミーテリヌイ、ソクルシーテリヌイのどちらかの放った十三センチ砲弾が、伊王の船体中央部を直撃した。
これが、この海戦におけるソ連側の初めての命中弾であった。
だが、ベロルシア艦橋ではそれを素直に喜べない雰囲気が広がっていた。
「いったい何故、本艦の主砲は射撃を停止しているのだ!?」
政治将校のザイツェフ少将が、ベロルシアの艦長に詰め寄っていた。
当初は交互射撃で敵艦への射撃を続けていたベロルシアであったが、三度目の被弾以降、主砲の射撃は止まっていた。
「射撃方位盤が故障したのです。これでは、統制された主砲射撃など不可能です」
艦長は、何とか政治将校に弁明を試みていた。
伊王の十二・七センチ砲弾は、そのことごとくがベロルシアの最大四二〇ミリに達する装甲に阻まれていたが、それでも甲板上では機銃座や短艇が破壊され、小規模ながら火災も発生していた。
そして、三度目の被弾箇所は、艦橋基部であった。
ソヴィエツキー・ソユーズ級の司令塔は最大四二五ミリの装甲で覆われているものの、やはりベロルシア建造の際の問題点がここでも露呈していた。
もちろん、司令塔の装甲が貫通されて舵輪が破壊されたというようなことはないが、被弾の衝撃が艦橋全体を大きく揺さぶったのである。
艦橋内の一部では、配管などが外れたりするなどの被害も出ていた。
そしてその衝撃の影響を最も受けたのが、艦橋上部に設置されたKDP-2-8型測距儀と射撃方位盤であった。高い位置に設置されていたため振動の影響が最も大きく、結果、射撃方位盤が振動に耐えられずに故障してしまったのである。
ベロルシアの建造過程で発生した問題は、ここでも祟った。急速な海軍拡張計画に測距儀や射撃方位盤の生産が追いつかず、後部射撃指揮所は内部に必要な機材を搭載していなかったのである(後部艦橋としての外見だけが存在)。つまり、後部射撃指揮所に射撃指揮を引き継がせることも出来なかったのだ。
これにより、ベロルシアは統制された射撃が不可能となった。砲塔に設置された十二メートル測距儀を用いた射撃を砲術長が各砲塔長に命じていたものの、練度不足の乗員たちは砲側照準に戸惑い、主砲射撃が再開出来ずにいたのである。
「同志少将、射撃装置の故障は致し方あるまい」
アンドレーエフ中将は、ザイツェフ少将を宥めた。
「それに、ストレミーテリヌイかソクルシーテリヌイのどちらかが敵艦に命中弾を与えた。本艦の主砲が発砲出来ずとも、遠からずあの日本帝国主義者どもの不遜な艦は沈むだろう」
彼の視線の先では、夜の帳が降りた海上で火災を発生させ、その姿を浮かび上がらせる敵艦の姿があった。
伊王の最初の被弾は、二〇〇八時であったという。
船体中央部に十三センチ砲弾が命中し、中央甲板室が破壊された。これにより、彼女は船体中央部に火災を生じさせることとなる。
だが、それでも伊王の速力は衰えなかった。
機関室の温度は限界を超えて上昇し、機関科の者たちの中にも倒れる者が続出している。ボイラーが爆発するかもしれない、かなり危うい状況でもあった。
それでも伊王は、被弾して火災を発生させながらも十七ノット以上の速力を維持していた。
三門の十二・七センチ砲も、なおも発砲炎を煌めかせていた。
彼我の距離は、すでに五〇〇〇メートルを切っていた。
伊王はジグザグに転舵しつつ、ベロルシアへの突撃を続けていた。
「突っ込め! 突っ込め!」
艦橋では、小寺少佐が獅子吼していた。
最早、伊王の生還は絶望的だろう。だけれども、このまま沈められるつもりは彼にはなかった。
「砲術長、弾種を対潜弾に変更!」
「宜候! 弾種対潜!」
海防艦には、高角砲から発射出来る対潜弾が配備されている。艦前方に投射する対潜兵器としては三式対潜弾投射機 (ヘッジホッグ)があり、そちらの方が対潜攻撃には有効であるのだが、それでも対潜兵器としては一定の効果があると考えられていた。
この十二・七センチ対潜弾は、潜望鏡深度ないし潜行直後の潜水艦を攻撃するため、水中弾となるように設計されている。
その馳走距離は最大七五〇メートルだが、射程は四二〇〇メートルと短い。
そのため、今までは使えなかったが、すでに彼我の距離がこれだけ縮まっている状況下ならば有効だろう。上手く水中弾として命中させられれば、流石に魚雷とまではいかないまでも、ベロルシアに浸水を発生させられることは出来る。
小寺少佐は、敵戦艦に向けて凄絶な笑みを浮かべていた。
「装填完了!」
「てっー!」
砲員の報告の叫びを受けて、弾種を変更した十二・七センチ砲が再び火を噴く。
「早くあの敵艦を黙らせろ!」
船体中央部から火災を発生させながら、なおも突撃と砲撃を続ける敵艦にザイツェフ少将は半ば恐慌状態に陥ったかのように喚いていた。
射撃方位盤の故障したベロルシアは、未だ主砲射撃を再開出来ずにいる。
その間に、ストレミーテリヌイとソクルシーテリヌイが敵艦に接近して十三センチ砲弾を浴びせかけている。
速力を低下させて落伍したハバロフスクはすでに後方にあったが、それを避けるために転舵して敵艦から離れてしまったウラジオストクも再び砲撃に加わっていた。
もちろん、ベロルシアも使用不能な主砲に代わって副砲と高角砲が射撃を続けている。
林立する水柱は、敵艦の最期が近いことをアンドレーエフ中将に予感させていた。
これまで以上の衝撃が伊王を襲い、艦橋にいた者たちが一斉に薙ぎ倒された。
爆発音と共に、船体が軋みを上げる。
「被害知らせ!」
即座に立ち上がった小寺艦長が叫ぶが、報告を受けるまでもなく彼は自らの船の惨状を悟らざるを得なかった。
艦首部に設置された防楯付きの十二・七センチ単装砲が吹き飛ばされ。その残骸らしきねじ曲がった鉄の塊の周囲で火災が発生していたのだ。
さらに、その弾片が艦橋にも飛び込んでいたらしい。
数名の者たちが体を切り裂かれて血を流し、計器類の一部も破損していた。
「艦長、ご無事で……?」
か細い声が聞こえてそちらを見れば、航海長の桑田敏彦中尉が腹部から血を流して床に座り込んでいた。
「しっかりせい!」
小寺少佐が駆け寄って声を掛けるが、桑田中尉の周囲にはすでに大きな血溜まりが出来ていた。
「艦長、海防艦でソ連の最新鋭戦艦を相手にここまで戦えたんです。私たちの名は、帝国海軍の歴史に残りますよ……」
すでに己の死期を悟っているだろうに、桑田中尉の声は朗らかであった。表情にも、満足そうな笑みが浮かんでいる。
「っ……」
小寺少佐は唇を噛んで立ち上がった。そして、伝声管に向かって叫ぶ。
「砲術長、無事か!?」
「ええ。何とか」
伝声管から伝わる松本嘉尚少尉の声には、強がって笑っているような響きがあった。
すでに前部の高角砲は破壊され、後部の二門も遠からず破壊されるだろう。それでも、小寺少佐は命じざるを得なかった。
「ならば撃ち続けろ! 最後の一門になるまでだ!」
さらなる被弾の衝撃で伊王の船体が悲鳴を上げる中、彼女はなおも自らの乗員たちに応えてようとしていた。
鈍い衝撃が、ベロルシアの艦底の方から伝わってきた。
「何だ?」
最初は、至近弾によるものかと誰もが思った。しかし、直後にそうではないことが判明する。
「左舷艦底部に浸水あり! 敵魚雷による可能性大です!」
「魚雷だと?」
アンドレーエフ中将は思わず敵艦の姿を見た。海戦当初の段階で魚雷を撃ち尽くしたのか、敵艦は魚雷発射体勢をとっていない。
だというのに魚雷が命中したと言う。
衝撃も、魚雷が命中したにしては小さいような気がしていた。
しかし、続く報告では浸水が拡大中とあり、ベロルシアを襲った衝撃の正体など詮索している場合ではなくなってしまった。
質の悪いリベットの多用などによる船体の不具合が、ベロルシアの浸水を拡大させていたのである。
先ほどまで交互射撃とはいえ主砲も撃っており、その振動が積み重なっていたところに今回の衝撃が加わったことで、多層式水中防御を構成する装甲板の数ヶ所でリベットが弾け飛んでいたのだ。
弾け飛んだリベットがさらに隔壁を傷付けて浸水を拡大させ、ベロルシアは徐々に傾斜していった。
「右舷への注水、急げ!」
艦長が急ぎ命じる。
「何ということだ……」
旧式駆逐艦一隻がここまで戦ったことに、アンドレーエフ中将は驚嘆を隠せなかった。
伊王に残された最後の十二・七センチ砲が沈黙したのは、二〇三三時のことであった。
そして二〇四五時には、ついに航行不能に陥っていた。
「負傷者……、負傷者はおらんか……」
伊王の艦橋もまた、惨状を呈していた。自らも負傷しているらしい衛生兵の声が、虚しく響く。
小寺艦長も、艦橋の壁に背を預ける形で座り込んでいた。弾片か艦橋の一部らしい鉄片が、腹部に突き刺さっていたのだ。
「おい、貴様……」
小寺少佐は、駆け寄ってきたその衛生兵に声を掛けた。
「総員退艦だ。総員退艦を、乗員たちに伝えてくれ」
艦橋で無事な者がおらず、艦橋の設備も大きく破損した中で、総員退艦を全艦に伝える術は失われていたと言っていい。
「私のことはいい。早く、他の者たちに総員退艦を伝えてこい」
小寺艦長は、最後の力を振り絞ってそう命じた。その衛生兵は一瞬だけ躊躇いの表情を浮かべた後、さっと敬礼した。
小寺少佐が頷くと同時に、艦橋から駆け出していく。
海防艦伊王を任されていた元商船乗りの海軍軍人は、大きく息をついていた。ソ連最新鋭戦艦相手にここまで戦えた満足感と、乗員の多くを死なせることになってしまった後悔が同時に押し寄せている。
そしてその意識もやがて、暗闇の中に溶けるようにして消えていった。
海防艦伊王はソ連艦隊による集中射撃を受け、二〇五六時、爆発を起こして沈んでいった。
加熱したボイラーが同時に爆発し、その爆炎は礼文島からも確認出来たという。
生存者は、翌朝礼文島に漂着した水兵三名のみであった。
「一度、沿海州方面に離脱する」
ようやく小癪な敵艦を撃沈したにもかかわらず、ベロルシア艦橋には重苦しい雰囲気に満ちていた。
主砲射撃方位盤は故障し、浸水と注水によって最大速力は二十四ノットに落とさざるを得なくなっていた。
「同志提督!」
だが、アンドレーエフ中将の決断に異を唱えたのは、政治将校のザイツェフ少将であった。
「稚内沖の日本輸送船団はどうするのだ!? 敵前逃亡は、認められるものではない!」
「これは敵前逃亡ではない」
アンドレーエフ中将は努めて戦意を失っていない態度を示しながら、この政治将校に説明する。
「一度艦隊の態勢を立て直し、再度の宗谷海峡突入を目指そうとしているに過ぎん。それとも同志少将は、このまま主砲の撃てない本艦を宗谷海峡に突入させて、我がソビエトの最新鋭戦艦が帝国主義者の笑いものにされることを望んでいるというのか? それは利敵行為であり、同志スターリンに対する重大な裏切り行為に他ならない」
利敵行為は流石に言い過ぎだろうが、敵前逃亡と言われたことへのアンドレーエフ中将の意趣返しであった。
「……ではひとまず、太平洋艦隊司令部のザハロフ中将に確認させてもらう」
利敵行為呼ばわりされて、かえって自らの発言の迂闊さを悟ったのか、ザイツェフ少将は逃げるように艦橋を後にした。
ザハロフ中将とは、太平洋艦隊司令部付きの政治将校である。つまり、ザイツェフ少将だけでなく、太平洋艦隊に配置されている全政治将校を指揮する立場にある。
その背中を見届けたアンドレーエフ中将は、戦闘に対する疲労と政治将校に対する疲労との両方を感じながら、溜息をついた。
「参謀長、艦隊を再集結させろ。夜明け前に、急ぎこの海域を離脱する」
「ダー、同志提督」
こうして、北太平洋小艦隊は宗谷海峡突入を目前にしながら反転した。
たった一隻の、排水量一〇〇〇トンに満たない海防艦は、一五〇名以上の乗員の犠牲と引き換えに、宗谷海峡と稚内へ向かう輸送船を守り抜いたのである。
そしてそれは同時に、日本海軍による戦艦ソビエツカヤ・ベロルシア追撃戦の始まりでもあった。
ここまでお読み下さり、誠にありがとうございました。
これにて、第4章は完結となります。第5章では、引き続き日本海軍とソ連艦隊との戦いを描いてまいります。
また、本作はクリエイター支援サイト「Ci-en」にて先行掲載をしております。
350円コースから「北溟のアナバシス」および「秋津皇国興亡記」の先行掲載分をご覧になれます。
この機会に、一人でも多くの皆様にご支援を検討して頂けましたらば幸いに存じます。
利用サイト:「Ci-en」
プロフィールページ:ci-en.dlsite.com/creator/21922(先頭に「https://」を追記のこと)
それでは、引き続き拙作を何卒、よろしくお願いいたします。




