79 海防艦伊王の戦い
伊王の放った第一射は、ハバロフスクの手前約五〇〇メートル付近に落下した。
約一・七キログラムの下瀬火薬が爆発し、水柱を立てる。
「くそっ、こちらもソ連の連中をあまり嗤えんか……」
射撃の指揮を執りながら、松本砲術長は呻いた。
鵜来型海防艦に限らず、占守型に始まる海防艦は射撃方位盤を持たない。艦橋上に三メートル測距儀は搭載されているものの、あくまでも浮上した敵潜水艦を砲撃することを想定した装備でしかないのだ。
海防艦が水上艦艇を相手に本格的な砲撃戦を行うこと自体が、そもそも建造時点の設計思想から外れているのである。
しかし、伊王に乗り込んだ男たちは、それを承知の上でソ連艦隊に挑みかかっていた。
二基の高角砲に取り付いている砲員たちが、即座に三十四キロの重量を持つ弾薬包を装填する。高角砲の砲弾は、装填速度を高めるために砲弾と薬莢が一体化した弾薬包形式であった。
砲術長からの諸元修正を反映し、伊王は第二射を放つ。
敵軽巡の放つ六インチ砲弾と伊王の放つ十二・七センチ砲弾が交錯し、双方の艦の周囲に水柱を立てていく。
「艦長、このままではオマハ級に頭を抑えられてしまいます!」
航海長の桑田敏彦中尉が叫ぶ。
海防艦でしかない伊王は、どれほど機関を酷使しようと二十ノットを少し超えた速度を出すのが精一杯である一方、オマハ級軽巡は三十ノット以上出せる。
敵の方が優速であり、そもそも会敵時点でソ連艦隊が伊王側の頭を抑えるような形で進んでいた以上、彼我の態勢がこのようになるのは時間の問題といえた。
小寺少佐の決断は早かった。
「取り舵一杯! 航海長、ベロルシアに腹を見せるように転舵しろ!」
桑田航海長は、艦長の意図を即座に理解した。
「宜候! 取り舵一杯!」
「とーりかーじ、一杯!」
航海長の号令を操舵手が復唱し、伊王の舵輪が大きく回される。
小寺少佐は、まるでベロルシアに雷撃を敢行するかの如き姿勢をとることで、敵に転舵を余儀なくさせようとしたのである。
転舵を始めた伊王の船体が、遠心力で右へと傾いていく。
そして、ベロルシア側は伊王の意図通りの反応を見せた。
「敵駆逐艦、魚雷発射体勢!」
「いかん! 面舵一杯!」
見張り員の緊迫した報告に、ベロルシア艦長が即座に転舵を命ずる。敵艦に対して艦尾正面を向ける体勢にすることで、敵艦から見える自艦の面積を最小限に抑えようとしたのである。
「……」
「……」
アンドレーエフ司令官もザイツェフ少将も、艦橋で固唾を呑んでベロルシアの艦首が右に振られるのを待ち続けている。
基準排水量六万二〇〇〇トンの船体がもたらす慣性によって、ベロルシアはしばらく直進を続けてからようやく右へと転舵を開始した。
「いったい、いつになったらあの小癪な帝国主義者の艦を沈められるのだ!」
転舵によって傾斜していく艦橋の中で、政治将校のザイツェフ少将が苛立たしげに叫ぶ。
「もう会敵から三十分は経っているぞ!」
実際、同様な焦燥はアンドレーエフ中将も感じていた。日本の旧式駆逐艦相手に、北太平洋小艦隊は時間を浪費していたのである。
このままでは、宗谷海峡突入が夜間となってしまう。夜戦技量に不安がある以上、薄暮での突入、夜間での離脱を目指したかったのであるが、すでにその作戦計画には綻びが生じていた。
「敵戦艦および敵巡洋艦、転舵していきます!」
「随分な慌て様だな」
見張り員の報告に、小寺少佐は満足げに頷いた。ベロルシアだけでなく、オマハ級の二隻も伊王が魚雷を発射すると考えたのか、転舵していたのである。
少なくともこの転舵によって、多少なりとも樺太避難民を乗せた三隻の輸送船を逃がす時間を稼ぐことが出来ただろう。
電探が敵影を探知してから、すでに四十分近くが経過している。
とはいえ、輸送船は九ノット弱の速度で進むのが精々である。いま少し、伊王が時間を稼ぐことが必要であった。
「オマハ級の鼻先をかすめろ! ベロルシアにさらに接近するぞ!」
少なくとも、あのような巨艦を宗谷海峡に突入させるわけにはいかない。伊王のごとき海防艦でどこまでソ連の最新鋭戦艦に損傷を与えることが出来るかは判らないが、何もしなければ避難民を乗せた輸送船が鏖殺される。
だから伊王は、高角砲発砲の砲炎を煌めかせつつ、敵戦艦への突撃を続けるのであった。
「アンドレーエフ提督! このまま消極退嬰に堕するは、帝国主義者に対する屈服に等しい!」
敵駆逐艦の排除を命じたはずのハバロフスクとウラジオストクまで魚雷を恐れて転舵したことで、ザイツェフ少将はついに苛立ちを爆発させていた。
「かくなる上は、本艦も含めた艦隊全艦であの小賢しい帝国主義者の駆逐艦を包囲、これを撃沈すべきである!」
政治将校としての高圧的な口調で、彼は艦隊司令官であるアンドレーエフ中将を督戦する。
「しかし同志少将。駆逐艦の持つ魚雷は、戦艦であっても脅威で……」
「同志提督はソビエト人民がその総力を結集して完成させたこの艦を愚弄するつもりか!?」
海軍軍人としての意見を述べようとしたアンドレーエフ中将を遮って、ザイツェフ少将は叱責する。
「我が人民の技術力を以てすれば、帝国主義者の魚雷など恐れるものではない!」
「……」
確かに、ソヴィエツキー・ソユーズ級戦艦の水中防御は、バルジに五十三・三センチ魚雷が三本同時に命中しても耐えられるように設計されていた。
しかし、ソヴィエツキー・ソユーズ級の水中防御は、曰く付きの代物であった。
当初の計画ではイタリア式のプリエーゼ式水中防御システムを採用したのであるが、ソ連の溶接技術では到底、再現出来ない構造であり、結局、建造途中でアメリカ式の多層防御式に変更を余儀なくされていたのである。
さらに三番艦であるソビエツカヤ・ベロルシアは、ソ連にありがちな計画優先の現実を無視した工程・工期で建造が続けられたため、装甲鈑を繋ぐリベットの品質に問題があった。
これは起工直後から発覚していたことであったが、大海軍の早期再建を願うスターリンの意向を汲んだ結果(そして工期遅延による粛清を恐れた結果)、そのまま建造が続けられたのである。
すでに一番艦ソヴィエツキー・ソユーズと二番艦ソビエツカヤ・ウクライナ、そしてクロンシュタット級二隻の建造でソ連の造船能力、工業能力は限界に近かったため、必然的に三番艦ソビエツカヤ・ベロルシアに割り当てられた資材の品質は低下することとなった。
実際、短い訓練期間中、ソビエツカヤ・ベロルシアはリベットの不具合によって主砲斉射時に浸水を引き起こすなどの不具合が相次いで発見されている。そのため、ソヴィエツカヤ・ガヴァニの造船技師からは、主砲の斉射はなるべく行わないよう、注意を受けているほどえあった。
公試運転と慣熟訓練をほとんど省いた結果が、ソビエツカヤ・ベロルシアという計画通りの性能を発揮出来るか不安な戦艦を生み出していたといえよう。
「艦長、ただちに敵駆逐艦に向けて転舵せよ!」
だがあくまでもスターリンの意向優先の政治将校は、アンドレーエフ中将を飛び越えてベロルシア艦長へと命令を下していた。
「……艦長、同志少将の言う通りだ」
結局、アンドレーエフ司令官はザイツェフ少将の言葉を追認することしか出来なかった。
会敵から一時間近く、日ソ双方は激しい砲撃の応酬を繰り広げる一方、互いに命中弾を出せないという状況が続いていた。
伊王の側は単純に十二・七センチ高角砲の射程の問題であったが、ソ連側は明らかに練度不足を露呈していた。急速な海軍兵力の拡張に、人員が追いついていない現状がここでも現れていたわけである。
北太平洋小艦隊は太平洋艦隊の主力とは目されていなかったから、なおさら配属されている乗員たちは練度不十分な者たちであった。
また、伊王とソ連艦隊が双方共に回避運動を繰り返していたことも、命中弾が出ていない要因であった。伊王は敵弾回避のために頻繁に転舵を行いつつ、雷撃体勢を擬装することでソ連艦隊にも転舵を余儀なくさせていたのである。
その意味では、海馬島と礼文島の間の海域で繰り広げられている海戦は、命中弾を出せずとも伊王側の思惑通りに進んでいると言えた。
しかし、会敵から一時間が過ぎ、彼我の距離は七〇〇〇メートルにまで縮まろうとしていた。
そして一九四二時、この海戦における最初の命中弾が発生した。
それは、伊王の放った十二・七センチ砲弾であった。
撃ち出された三発の砲弾の内、一発がハバロフスクの第二煙突基部に命中したのである。
七十六ミリの舷側装甲を持つオマハ級軽巡であったが、徹底した軽量化構造のためにその船体は脆弱な部分があった。
その結果、砲弾の爆発と被弾の衝撃によって、第二煙突は根本から倒壊してしまったのである。煙突倒壊による排煙能力の低下と機関部への煙の逆流によって、ハバロフスクの速力は低下した。
伊王の十二・七センチ砲弾は命中と同時に炸裂していたので装甲を貫くことはなかったが、それでもハバロフスクに確かな打撃を与えたと言えよう。
だが同時に、七〇〇〇メートルを切ろうとする彼我の距離は、ソ連側の射撃精度も上昇させていた。さらにこの時、艦隊司令部付き政治将校であるザイツェフ少将の督戦によって、軽巡ハバロフスク、ウラジオストクだけでなく、戦艦ベロルシアおよび駆逐艦ストレミーテリヌイ、ソクルシーテリヌイまでもが伊王攻撃に加わっていた。
北太平洋小艦隊は、その全力を以て伊王というたった一隻の海防艦を撃沈しようとしていたのである。
ハバロフスクの速力低下によって後続のウラジオストクが衝突を避けるために転舵、それによってこの二艦からの砲撃は一時的に止んだものの、今度は再びベロルシアの十六インチ砲弾が伊王の周囲に落下し始めた。そこに、二隻のグネフヌイ級駆逐艦が放つ十三センチ砲弾も加わる。
小寺艦長は、即座に射撃目標をベロルシアへと変更するよう松本砲術長に命じた。この時点で、すでに彼我の距離は七〇〇〇メートルを切っていた。
日没まで三十分を切った海域は徐々に暗さを増しつつある。
その中で、ベロルシアは半分以上沈みかけた夕日を背に、伊王から見てその艦影をくっきりと水平線上に浮かび上がらせていた。
海防艦である伊王の砲術科の者たちは、戦艦よりも遙かに小さい、そして乾舷の低い浮上した潜水艦を想定した訓練を積んできた。いかに射撃方位盤がないとはいえ、六〇〇〇メートル台に接近し、これだけ好条件が揃っている以上、彼らが目標を外すことは無かった。
射撃目標を変更して間もなく、ベロルシア艦上に直撃弾炸裂の閃光が走る。
「いいぞ、その調子で撃ち続けろ!」
小寺少佐は、いっそ朗らかな調子でそう叫んだ。応ずるように、伊王の高角砲が吠える。
「くそっ、何て奴らだ! ヤポンスキーめ、当ててきやがった!」
敵駆逐艦から直撃弾を受けたことに、ベロルシア艦橋では動揺が走っていた。
今や完全に北太平洋小艦隊に包囲されている状況の中で、あの敵艦はハバロフスクを落伍させ、ベロルシアに命中弾を与えてきたのである。
「砲術長、早くあのヤポンスキーを沈めろ!」
艦長が、苛立ったように砲術長を叱責する。艦長としても、政治将校がいる手前、ソ連最新鋭戦艦として無様な戦いぶりを晒せないという重圧を感じていたのである。
ソビエツカヤ・ベロルシアの主砲が唸り、一一〇八キログラムの砲弾が放たれた。
同時に、十五・二センチ副砲からも重量五十五キロの砲弾が放たれる。十センチ高角砲もまた、敵艦に向けられていた。
彼女は搭載されたあらゆる火器を用いて、排水量九四〇トンの伊王を圧殺しようとしていたのである。




