78 薄暮の交錯
「爆雷は安全装置をかけてすべて投棄しろ!」
目視で確認出来た敵戦艦へと突撃を開始する中、海防艦伊王艦上では乗員たちが素早く動き回り、配置についていく。
艦尾に搭載された一二〇個の爆雷は、誘爆を防ぐために安全装置をかけて次々と海中に投棄されていった。
艦首と艦尾の八九式十二・七センチ高角砲でも砲員が配置につき、すでに砲弾を装填していた。
伊王の八九式十二・七センチ高角砲は、松型駆逐艦と同じB型砲架である。これは動力十キロワットのA型から動力十五キロワットに向上させ、旋回速度を向上させた砲架であった。
その砲塔が敵戦艦に向けて旋回し、砲員たちが八八式信管を付けた砲弾を装填する。八八式信管は着発式の信管で、主に対水上戦闘に用いられる信管であった(対空戦闘の場合は、九一式信管に交換する)。
帝国海軍の小口径砲に、徹甲弾は存在しない。これは、砲弾自体が小さく大口径砲弾に比べて強度が低いため、命中すると砕けてしまうために徹甲弾を開発しても無意味だったからである。
そのような武装で、伊王はソ連の最新鋭戦艦に挑もうとしていたのだ。
「敵戦艦、発砲!」
そして、彼我の距離が二万メートルを切った時、ソ連戦艦からの砲撃が開始された。
十二・七センチ高角砲は、対水上射撃の場合、最大射程は一万四六二二メートル。この距離では、砲弾は届かない。
「機関室! もっと速力は出せんのか!?」
小寺藤治少佐は伝声管に向かって叫ぶ。
「無茶言わんで下さい、艦長! これでも何とか二十ノット超えなんですよ!」
機関長からの返答には、困惑の響きがあった。
伊王を初めとする鵜来型海防艦の本来の最大速力は、十九・五ノットである。そこを、機関を酷使することで彼女は何とか二十ノット超えを達成していたのであった。
だが、小寺少佐は満足しなかった。
「二十二ノットは出せ! ちんたら走っていると敵の砲弾に捕まるぞ!」
そして次の瞬間、轟音と共に伊王の周囲に三本の水柱が立ち上った。伊王の艦橋を遙かに超える高さの水柱である。
その轟音と衝撃が、機関室にも伝わったのだろう。伝声管から、機関長の自棄になったような叫びが聞こえてきた。
それが小寺少佐に対するものなのか、部下たちに対する叱咤なのかは、水柱の轟音の所為で聞き取れなかったが。
だが心なしか、伊王が速力を上げたような気がした。
自分自身の願望がそう感じさせているのかもしれないと小寺少佐は思ったが、今はその願望ですら縋りたい気分であった。
距離二万から高角砲の射程に入る一万五〇〇〇まで、二十ノットならば四八六秒。時間にすれば約六分だ。
しかし、敵砲撃を避けるために左右への転舵を繰り返すため、実際にはそれ以上かかるだろう。
そして、命中を期すならば一万メートル以下にまで距離を詰めたい。
だとすれば、その距離に到達するまでに二十分以上かかることは覚悟しなければならないだろう。
その時間を少しでも短くして、ソ連戦艦に一太刀浴びせなければならない。
小寺少佐は、崩れゆく水柱の先にあるソ連戦艦の姿を凝視していた。
◇◇◇
「いったい、本艦の砲術長と各砲員たちは何をしているのだ!」
一方、ソビエツカヤ・ベロルシア艦橋では、政治将校のザイツェフ少将が喚いていた。
これまで、ベロルシアは三度の主砲射撃(交互射撃)を行っていた。そのことごとくが、接近を続ける敵艦に対して見当外れの弾着になっていたのである。
第一射は敵艦に対して手前に落ち過ぎ、第二射は逆に敵艦の向こう側彼方に落下した。第三射も似たような結果で、弾着修正はかなり甘いと言わざるを得ない結果であった。
散布界も一〇〇〇メートル近くに及び、本来であれば実戦に耐えられる練度ではない。
そうした不甲斐ない砲撃成果を、ザイツェフ少将は詰っていたのである。
「このままでは、敵駆逐艦の肉薄を許してしまうではないか!」
だが、この政治将校が艦橋で無意味な叱責を繰り返すのも、一方では理のあるものでもあった。
この時、ベロルシア側は接近を続ける伊王を、睦月型駆逐艦であると誤認していたのである。駆逐艦であれば当然に魚雷を搭載しているはずで、それはベロルシアにとって大きな脅威であった。
だからこそ、ザイツェフ少将は焦りにも似た叫びを艦橋に響かせているとも言えたのである。
「同志少将。砲撃とは、弾着修正を根気強く行っていくものだ」
アンドレーエフ中将は、この政治将校を宥めるように言った。
「それに同志少将。どうやら向かってくる敵艦はあの一隻だけのようだ。むしろここは、護衛の艦艇にあの敵艦の処理を任せ、我々は宗谷海峡に突入すべきではないか?」
そして北太平洋小艦隊を率いる司令官は、目の前の日本海軍駆逐艦(当然、誤認)にばかりかかずらって、肝心の敵輸送船を取り逃がすことを恐れていた。
すでに見張り員が発見した敵輸送船らしき船影は、暗い東の空に溶け込むように消えていた。
ギュイース-1レーダーは、まるで役に立っていなかった。目の前に見えている敵艦ですら、捉えられていないのだ。
ここで徒に時間を浪費すれば、宗谷海峡付近を航行しているだろう無数の日本輸送船に退避の時間を与えてしまう。そうなれば自分はスターリンの不興を買い、太平洋艦隊司令部や海軍総司令部から査問を受ける立場になるだろう。
最悪、NKVDに逮捕されることもあり得る。
そう考えれば、政治将校であるザイツェフ少将の叱責は的外れであるとも言えた。スターリンの意思を体現する政治将校であるならば、目の前の小賢しい敵艦よりも、輸送船を取り逃がしてしまうことに焦りを覚えるべきであろうに。
とはいえ、やはりベロルシアの練度不足は祟っているようであった。
「……う、うむ。確かに、同志提督の言うことももっともであるな」
政治将校からの同意も得られたことで、アンドレーエフ中将は次なる命令を下した。
「ハバロフスクとウラジオストクに下令。敵艦に接近し、これを撃沈せよ。駆逐艦ストレミーテリヌイおよびソクルシーテリヌイは本艦に続け。これより、宗谷海峡への突入を目指す」
「敵オマハ級軽巡二、こちらに接近してきます!」
「いかんな……」
見張り員の報告を聞いて、小寺少佐は苦い顔を浮かべた。恐らく敵司令官は、オマハ級二隻に伊王の相手をさせて、その隙にベロルシアを突破させる肚だろう。
今のところ、ベロルシアから砲撃を受ける伊王に至近弾はなかった。伊王側が煙幕を展開しつつジグザグ航行をしているというのもあるのだろうが、猛訓練を旨とする帝国海軍からするといささか以上に照準の甘い砲撃が飛んでくるのも理由の一つだろう。
ただし、伊王もジグザグ航行を繰り返しているために、ベロルシアとの距離は一万七〇〇〇をようやく切ろうとしているところであった。まだ、高角砲の射程には入らない。
「砲術長、ひとまず目標をオマハ級の先頭艦に定めろ! こんな状況だ、射程に入り次第、撃ち方始め!」
「宜候! 目標をオマハ級先頭艦とします!」
砲術長の松本嘉尚少尉が叫び返す。その声からは、未だ砲撃の出来ないもどかしさがありありと感じられた。
「……耐えろよ、伊王」
小寺少佐は、まるで命あるものに語りかけるように、基準排水量九四〇トンの海防艦に祈りを託していた。
「アゴーン!」
伊王へと接近を続ける元オマハ級軽巡のハバロフスクとウラジオストクは、アンドレーエフ司令官からの命令が下ると、間髪を容れずに射撃を開始していた。
オマハ級軽巡の主砲である五十三口径六インチ砲の最大射程は、二万三一三〇メートル。
すでに彼我の距離が二万メートルを切っている状況であったから、両艦の艦長は同乗の政治将校の手前、即座に射撃命令を下したのである。
オマハ級は竣工時には砲塔式とケースメイト式の六インチ砲を計十二門、搭載していたが、復原性の問題もあり、その後、多くの艦で後部両舷下部のケースメイト式単装砲を撤去していた。
元ローリーとデトロイトであるハバロフスクとウラジオストクも、後部単装砲を撤去した艦であった。
そのため、両艦は連装砲二基四門、単装砲六基六門の計十門となっていた。しかもケースメイト式の単装砲は両舷にそれぞれ配置されていたから、片舷に向けられるのは七門の六インチ砲のみであった。
ハバロフスク、ウラジオストクの二隻合計十四発の六インチ砲弾が伊王へと降り注ぐ。
竣工後、慣熟訓練もそこそこに極東に回航されたソビエツカヤ・ベロルシアと違い、米国から購入後、それなりの訓練期間を設けることが出来た両艦の射撃精度は、少なくともベロルシアよりは良好であった。
「あの二隻のオマハ級は、ベロルシアよりは射撃の何たるかを知っているようだな」
部下たちの手前、小寺少佐は泰然とした調子でソ連艦隊からの砲撃を評していた。
六インチ砲から放たれる四十七・七キログラムの砲弾は伊王の周囲に水柱を立てていく。だが、流石に六インチ砲にとっても最大射程に近い距離で放たれた砲弾であるため、伊王側が即座に脅威を覚えるような射撃精度ではない。
とはいえもちろん、彼我の距離は徐々に縮まっている。
煙幕を展開し、ジグザグ航行を続けているとはいえ、接近すればソ連側の砲撃精度も上がってくるだろう。それに、この基準排水量九四〇トンの海防艦がどこまで耐えられるか……。
小寺少佐が喉の渇きを覚え、唾を固く飲み込んだその刹那、ついに見張り員が待望の報告を叫んだ。
「敵オマハ級先頭艦との距離一万四〇〇〇!」
「てっー!」
そして間髪を容れぬ、松本砲術長の裂帛の叫び。
これまで沈黙を続けていた伊王の主砲が、ようやく火を噴いた瞬間であった。三門の八九式四十口径十二糎七高角砲の砲口から砲炎が噴き出し、二十三キロの砲弾が砲身より飛び出す。
ソビエツカヤ・ベロルシアの十六インチ砲には劣るが、それは伊王にとって勇ましい反撃の号砲であった。




