77 北太平洋小艦隊来襲
後に「礼文島沖海戦」と呼ばれる戦いは、要すればスターリンによる海軍への督戦によって発生した海戦であるといえた。
八月十六日に敢行された樺太上陸作戦に伴って、ソビエツカヤ・ベロルシアを基幹とする北太平洋小艦隊もまた出撃していた。
その編成は、次の通りである。
司令官:ウラジーミル・アンドレーエフ中将
【戦艦】〈ソビエツカヤ・ベロルシア〉
【軽巡】〈ハバロフスク〉〈ウラジオストク〉
【駆逐艦】〈ストレミーテリヌイ〉〈ソクルシーテリヌイ〉
ソヴィエツキー・ソユーズ級戦艦にとって、このソビエツカヤ・ベロルシアの出撃が初陣となった。
当初、これらの艦艇は日本軍が南樺太南部から増援部隊を北上させる徴候が見られた場合、鉄道路線などに対して艦砲射撃を行う任務を帯びていた。
そのため、ソヴィエツカヤ・ガヴァニの沖合を遊弋して待機している状況が続いていた。北海道西方沖には日本海軍の潜水艦が潜んでいると北太平洋小艦隊司令部は考えていたから、護衛艦艇の少なさもあって、アンドレーエフ中将はあくまでも上陸部隊への支援に徹するつもりであった。
しかし、十八日になって太平洋艦隊司令部から、より積極的な作戦行動を命じられたのである。
それは、北海道西方海上に進出して日本の海上交通路を遮断せよ、というものであった。
この時、ソ連側は日本が樺太からの避難民疎開のために宗谷海峡や小樽方面に多数の輸送船を回航していることを察知していた。
それら輸送船に対する通商破壊作戦を、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ大将は命じたのである。
南樺太の住民たちは、ソ連にとって貴重な労働力である。南樺太―北海道間の航路を遮断することで、南樺太からの避難民脱出を妨害するとともに、北海道方面からの日本軍増援部隊が南樺太に到着することも阻止出来る。
北海道西方海上における通商破壊作戦は、そうした意味を持っていた。
加えて、スターリンが海軍の積極的な行動とそれによる戦果を望んでいると言われてしまっては、アンドレーエフ中将に反論の余地はなかった。
結果、それまで間宮海峡を遊弋していた五隻の艦艇は、南下を開始したのである。
問題は、ソ連海軍の洋上航空作戦能力の低さであった。
ソ連海軍航空隊は、これまで沿岸哨戒程度の任務しか行ったことがなかった。艦隊と連携して洋上での航空作戦を行った経験は、皆無に等しかったのである(その他の任務は、海軍歩兵部隊の上陸支援など)。
そのため、ベロルシア以下の艦隊は航空部隊による上空直掩を受けることが出来なかった。
偵察についてはベロルシアが水上偵察機ベリエフBe-4を四機、元オマハ級軽巡であるハバロフスクとウラジオストクがそれぞれ二機搭載していたので、これを用いて宗谷海峡方面の索敵を行った。
その結果、やはり潜水艦部隊の報告通り、稚内沖に多数の日本の艦船が存在していることが確認された。有力な艦隊の存在も確認出来なかったため、アンドレーエフ中将は宗谷海峡での通商破壊作戦を行うことを決断したのである。
問題は、南樺太の制空権が極めて曖昧な状態であることだった。
上空支援が受けられない状況で、日本の勢力圏下にある宗谷海峡に突入するのは危険である。未だ航空機が戦艦を撃沈したという例はなかったが、アンドレーエフ中将は艦隊を不用意な危険に晒すことを恐れた。
それもまた、スターリンの不興を買う原因となってしまうからであった。
加えて、ソ連海軍は夜戦の技量が高いとは決して言えない。アバチャ湾沖や朝鮮沖で日本の水雷戦隊に惨敗したことからも、それは明らかだった。
一応、ベロルシアにはソ連海軍の最新鋭レーダーであるギュイース-1対空捜索レーダーが搭載されている。ギュイース-1は対空捜索レーダーであるが対水上捜索レーダーとしても使用出来、大型艦を約十五キロ、小型艦を約九キロで探知することが可能であった。
しかし、艦載レーダーの開発が他国に比べて遅れているソ連では、未だ少数の生産に留まっており、五隻の中でレーダーを搭載しているのはベロルシアだけであった。
だから夜戦技量に不安があることもあり、アンドレーエフ中将は夜間の宗谷海峡突入という選択もとれなかった。
そこでアンドレーエフ中将が選んだのは、日本の船団護衛などに付いている敵航空部隊が基地へと引き上げるであろう薄暮に宗谷海峡に突入、日没後に離脱するという作戦であった。
五隻の艦隊は、昼間は日本の索敵機にウラジオストクへの回航と誤認させるため沿海州寄りの航路をとり、そして夕刻になって一気に速度を上げて海馬島と礼文島の間を突破、宗谷海峡へと突入しようとしていたのである。
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伊王の電探が探知した敵影を見張り員の肉眼が確認したのは、距離二万三〇〇〇メートル付近になってからであった。
早朝からの対潜警戒による疲労、そして西に沈みゆく太陽の光などで、見張り員たちの視力が落ちていたのである。見張り員たちはそれでも、充血した目を見開いて双眼鏡に取り付いていた。
「右舷三〇度、距離二三〇に敵艦を見ゆ! 戦艦一、巡洋艦ないし駆逐艦四! 戦艦はソユーズ級と認む!」
「機関最大戦速、右砲戦用意!」
見張り員の報告とともに、小寺藤治少佐は力強く命じた。出航以来、艦橋に立ち続けてきた疲労など感じさせぬ、張りのある声であった。
「宜候! 右砲戦用意!」
鵜来型海防艦が装備している砲は、同時期に建造された松型駆逐艦と同じ四十口径八九式十二・七センチ高角砲三門であった。
前部に防楯を取り付けた単装砲を一基、後部に連装砲を一基の、計三門という配置である。
この他、鵜来型にはイギリス海軍の開発したヘッジホッグをライセンス生産した三式対潜弾投射機を艦橋前に装備し、後檣後方にボフォース四〇ミリ機銃をライセンス生産した二式四〇ミリ機銃の四連装型を一基、艦橋および煙突の両舷に九六式二十五ミリ機銃の三連装型を計四基、そして艦尾に三式爆雷投射機を装備している。
当然というべきか、駆逐艦ではないので魚雷は一本も搭載していない。
対艦攻撃に使える兵装が三門の十二・七センチ高角砲だけと、十六インチ砲搭載戦艦に対抗するには伊王はあまりにも非力な存在であった。
しかし、彼女の背後には樺太からの避難民を満載した輸送船が三隻、存在している。
ここで退くという選択肢は、最初から存在していなかった。
四二〇〇馬力の機関を限界まで酷使して速力を上げつつ、メインマストに戦闘旗を掲げた伊王は敵艦隊に向けて舵を切っていった。
◇◇◇
一方のソ連海軍北太平洋小艦隊旗艦ソビエツカヤ・ベロルシアが伊王以下の船団の存在を確認したのは、二万五〇〇〇メートル付近であった(なお、ソ連では一九二五年より旧来のヴェルスタやサージェンに代わり、メートル法が採用されている)。
これは、ギュイース-1対空レーダーによる探知ではなく、見張り員の肉眼による探知であった。
すでに日没まで二時間を切りつつある時刻。伊王以下六隻がちょうど暗くなりつつある東の方向にあったため、発見がその距離になってしまったのである。
この時点ですでに伊王の側では二二号電探によってベロルシアの存在を探知しており、敷設艇石埼以下の五隻は之字運動を中止、伊王から離れて宗像丸の出せる九ノットの速力で稚内港を目指しつつあった。
「これは好機ですな」
ソビエツカヤ・ベロルシア艦橋で、軍事会議委員(政治将校)のザイツェフ少将が言った。
「日本帝国主義者の輸送船団は稚内へ向かう航路をとり、我々はその頭を抑えつつある。アバチャ湾と朝鮮沖で我が赤軍に対し卑劣な攻撃を行った日本帝国主義海軍に鉄槌を下す、絶好の機会と言えましょう」
「ああ、同志少将の言う通りだ」
こちらが敵船団の頭を抑えつつあるという自明の理など、政治将校に言われずとも判っている。アンドレーエフ中将は内心の反発を抑えつつ、頷いた。
「戦闘用意! 我ら赤色海軍の真の実力を発揮する時が来た! 全艦隊将兵は、同志スターリンのご期待に背かぬよう、その全力を尽くすべし!」
アンドレーエフ中将は、そう将兵を鼓舞した。
「主砲、左砲戦用意!」
ベロルシアの艦長が、そう命ずる。ソユーズ級が実戦で主砲射撃を行うのは、これは初めての機会である。艦長の声には、それと判るほどに緊張と興奮の感情が宿っていた。
「砲戦距離、二万メートル! 目標、敵一番艦!」
アンドレーエフ中将は、ベロルシア乗員の練度を考慮して距離二万メートルでの射撃開始を命じた。
この艦は対日侵攻作戦に間に合わせるために、公試運転や慣熟訓練もそこそこに北極海経由でソヴィエツカヤ・ガヴァニに回航されたのである。距離二万メートルでの主砲射撃でも不安があったものの、流石にそれ以下の距離では自分の敢闘精神が政治将校に疑われるため、その距離を選択したのである。
「同志提督。すでに我々は敵を発見しているのだ。何故、射撃準備が整い次第の砲撃を命じないのだ?」
だが、それすら政治将校であるザイツェフ少将には不満なようであった。
「同志少将、我々は目の前の敵輸送船団を撃破した後、宗谷海峡へ突入しようとしているのだ」
流石に練度不足を言い訳にするわけにはいかず、アンドレーエフ中将は諭すように続けた。
「そこには無数の輸送船がおり、また状況次第では稚内港への艦砲射撃を行う必要もあろう。だからこそ、出来るだけ引き付けて必中距離で射撃を行い、砲弾を節約する必要があるのだ」
練度不足ではなく、あくまでもより多くの戦果を求めるために今ここでは砲弾を節約したいのだと、説明した。
「ふむ、確かに同志提督の言うことももっともですな」
とりあえず、アンドレーエフ中将はこの政治将校から敢闘精神を疑われずに済んだらしい。ただでさえ、ベロルシアの練度不足などに不安を抱いているというのに、政治将校などという余計な気苦労まで抱え込み、このソ連人提督は辟易とする思いであった。
と、アンドレーエフ中将が内心で胸をなで下ろしていたその時、見張り員の叫びが艦橋に響き渡った。
「敵艦の一隻が、我が艦隊に向かってきます! 敵艦は速力を増速中の模様!」
薄暮を迎える海域で、礼文島沖海戦は開始されようとしていた。




