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北溟のアナバシス  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第四章 赤軍侵攻編

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76 樺太からの避難民輸送

 八月十八日、樺太南西に浮かぶ海馬島の沖を、六隻の艦船が南へと向かって航行していた。


「……商船の速力が、これほどもどかしく感じることになろうとはな」


 その六隻の内の一隻、海防艦伊王(いおう)の艦橋で、海防艦長・小寺藤治少佐は呻くように言った。


「はい。出せて九ノットですからな」


 航海長の桑田敏彦中尉も緊張感の滲んだ声で応ずる。


「中東から石油を運んでくる航路と違って短いとはいえ、それでも敵潜が潜んでいるかもしれない海域を通過しなければならないとなれば、もどかしくもなります」


「それに、我々が運んでいるのは石油ではない。樺太からの避難民だ。彼らを無事、北海道まで送り届けねばならん。これは、重大な任務だぞ」


 小寺少佐は視線を艦橋の外に向けた。視線の先にあったのは、樺太からの避難民を船内の通路や甲板にまで乗船させている北日本汽船の貨客船三隻であった。

 能登呂丸(総トン数一二二九トン、最大速力十ノット)、真岡丸(総トン数一二一九トン、最大速力九・八ノット)、宗像丸(総トン数九八一トン、最大速力九ノット)の三隻は、乗客の定数を大幅に超えて避難民を受け入れ、一路、南下を続けていたのである。

 それを護衛するのは、小寺の海防艦伊王(いおう)の他、敷設艇石埼(いしざき)、第二十三号掃海艇の三隻であった。

 この六隻は八月十八日の午前六時、樺太西岸の真岡を出港し、北海道の稚内へと向かっていた。

 しかし、対潜警戒を行いながらの航行は、平時の北海道―樺太連絡航路のように順調にはいかない。

 さらに三船は、乗客の定数を大幅に超えて避難民を受け入れていたため、重心の上昇などの問題を引き起こして操舵性能を悪化させている。

 また、三船とも船団を組んでの航行はこれが初めてのことであった。

 そうしたことが、対潜警戒のための之字運動をより困難なものとしていた。

 三隻の護衛艦の中で、最先任は伊王艦長の小寺であった。彼が、この船団の指揮を執らなくてはならなかったのである。

 小寺らにとって、開戦初日に発生した鈴谷丸事件は記憶に新しい。

 だからこそ、樺太からの避難民を無事に北海道まで送り届けることの困難さと重要性は痛いほどに理解していた。

 真岡出港以来、小寺は伊王艦橋に立ち続けて自艦と船団の指揮を執っていた。現在、六隻はA法と呼ばれる之字運動(基準針路に対してまず二十五度に転舵し、一定距離を進んだ後また五十度に転舵し、基準針路に戻ったら再び二十五度に転舵するというのを繰り返す航法)を行いつつ、航行を続けている。

 しかし、A法という最も単純な之字運動であっても、突然それを命じられた三貨客船の船長たちには難しい相談であった。

 小寺は三貨客船が落伍しないよう、常に緊張を強いられる立場にあったのである。

 之字運動を行いながらの航行のため、平時であれば九時間ほどの航路を十五時間ほどかけて進むことになる。


「……」


 やがて六隻の船団は海馬島の沖を通過し、宗谷海峡に差し掛かりつつあった。


  ◇◇◇


 樺太からの避難民脱出が本格化したのは、八月十三日以降であった。

 樺太庁主導の下、大泊、真岡、本斗の三港に避難民を集め、そこから船で北海道の稚内に疎開させる計画である。

 真岡、本斗からの疎開は北日本汽船の船が担当し、大泊からの疎開は鉄道省の稚泊連絡船が担当することとなった。

 また、開戦当時、亜庭湾にあった海軍の砕氷艦大泊も避難民輸送に動員されている。

 こうした避難民輸送に対応するため、日本海軍も大湊警備府所属の第一〇四戦隊が小樽方面に出撃、北海道西方海上での対潜掃討作戦および避難民を乗せた船舶の護衛を担当することとなった。この他、北海道・東北方面にあった大湊警備府所属の駆潜艇・掃海艇なども護衛任務のために小樽に回航されている。

 海防艦伊王は、そうした中の一隻であった。

 日本海軍が旧式巡洋艦を“海防艦”とするのではなく、新規に海防艦の建造を開始したのは一九三七年の第三次海軍軍備補充計画からであった。大型の装甲巡洋艦では運用のために多額の費用がかかり非効率であり、また旧式駆逐艦を充てるにしても燃費の問題があり平時における海上護衛任務には不向きであったのだ。

 そうして帝国海軍が設計当初から海防艦として建造した最初の艦が、北洋警備を主任務とする占守型であった。

 しかし、占守型は設計が緻密に過ぎて戦時の量産には向かない海防艦であった。

 一九四〇年、第二次欧州大戦でのドイツの勝利が確定的になると、将来的に日本海軍は中東からの石油輸送が独Uボートによって遮断される危険性があると認識するようになり、海防艦の整備は急速に進むことになった。

 これに拍車をかけたのが、日米関係の悪化であった。

 依然として中東の油田は開発途上にあったため、一九四〇年時点でも日本がアメリカからの石油輸入に依存する割合は大きかった。しかし、仮に日米開戦となれば、日本は中東の石油に依存せざるを得ない。

 そうした意味でも、戦時における海上交通路の保護を担わせるための海防艦の量産は急務であった。

 また、英独間の緊張関係は大戦終結後も続いており、イギリス側から再度の英独開戦となった場合、日本から海防艦の供与を受けたいという打診があったため、そうしたことも見越した量産体制が整えられることとなった。

 一九四一年以降、占守型の設計をわずかに簡素化した択捉型十四隻が建造されたのを皮切りに、さらなる設計の簡易化と対空・対潜能力を強化した御蔵型、御蔵型の設計をさらに簡易化して対潜能力に特化した鵜来型、そして徹底的な工事簡易化が図られた日振型が続々と建造されていくこととなった。

 また、海防艦の整備と並行して、船団護衛などを担当する駆逐艦である松型の建造も行われている。

 一九四四年は、北太平洋から中東ペルシャ湾に至るまでの広大な海上交通路を保護するための艦艇が揃い始めた時期だったのである。






 こうした小型艦艇の増勢によって、海軍では兵学校出の士官だけでは人員不足を来すようになった。

 その結果、「海軍予備員令」に基づく高等商船学校出の予備士官、商船学校出の予備下士官が大量に動員されるようになり、それでも足りずに水産講習所の遠洋漁業科卒業生までもが海軍に動員されることとなった。

 こうして海軍内部で予備仕官・予備下士官の比率が増大したことで、昨一九四三年の出師準備に伴って官名改正が行われ、海軍内部で「予備」という区分は廃止されることとなった。

 伊王の海防艦長となった小寺藤治少佐もまた、こうした高等商船学校出の海軍士官の一人だったのである。


  ◇◇◇


「……」


 宗谷海峡に差し掛かりつつある中で、小寺少佐の緊張感は高まっていた。

 稚内には、大泊や本斗などからも輸送船が集まっている。そして、稚内で避難民を降ろした輸送船が、再度、樺太に向かってもいる。

 さらには第五艦隊が、宗谷海峡への対潜機雷堰敷設のために一部艦艇を派遣してもいた。

 つまり宗谷海峡は、多数の艦船が行き交う極めて混雑した海域になりつつあったのだ。それを狙ってか、ソ連軍潜水艦の発見・撃沈報告も相次いでいるという。

 本格的な避難民輸送が開始されてから今日で四日目。開戦当日の鈴谷丸撃沈事件に続くように、宗谷海峡ではソ連軍潜水艦によって避難民を満載した輸送船が襲撃される事件も発生している。

 一方で、稚内港の収容能力は限界を迎えつつあった。続々と到着する避難民を町内に留めておくことは出来ず、鉄道が増便されて次々と北海道各地に送られていた。

 また、樺太では港湾や輸送船に多数の避難民が押し寄せているため、その排泄物によって避難民の間の衛生状態も悪化の一途を辿っていた(これは稚内町内でも同じ)。

 いつコレラや赤痢などが発生しても、おかしくはない状況だったのである。

 このため、一部の輸送船は稚内ではなく留萌や小樽に向けることも検討されているのであるが、現段階では輸送船の数が不足しているために見送られている。要するに、往復に時間がかかるために、かえって樺太住民を避難させるのが遅滞すると考えられていたのである。


「艦長、大湊警備府からの電文が入っています」


 と、夕暮れを迎える中、伊王艦橋に一本の電文が届けられた。


「……」


 その電文を読んで、小寺少佐は表情をますます険しいものに変えた。


「……戦艦ベロルシアが、間宮海峡を南下しているのが確認されたとのことだ」


「……」


「……」


「……」


 その言葉に、艦橋に呻くような響きが満ちた。

 電文には、ソヴィエツカヤ・ガヴァニへの航空偵察の結果、ソ連北太平洋小艦隊主力の出撃は明らかであること、そして第七艦隊の潜水艦や七〇一空の陸攻が間宮海峡を南下するソビエツカヤ・ベロルシアの姿を確認したとの情報が記されていた。


「航海長。稚内までは、あとどれくらいだ?」


「およそ四十五浬(約八十三キロ)といったところです。もっとも、直線距離で、ですが」


 海図を確認した桑田中尉が答えた。


「……」


 之字運動を行っていることも勘案すれば、実際にはその五割増しほどの距離だろう。

 すでに日没まで二時間を切りつつあり、ソ連軍による空襲から守ってくれる直掩機(昼間は零戦三機が上空にあった)や対潜警戒のための九六陸攻も基地へと引き上げている。


「之字運動を止めて、一気に宗谷海峡を突っ切りますか?」


 桑田航海長が、そう進言した。

 だが、そうすれば今度は対潜警戒が疎かになる。そもそも、この船団とソ連戦艦が遭遇する確率はどの程度、あるのか。

 第二次欧州大戦では、独装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーなどが散々に暴れ回り、多数の輸送船が餌食になったという。

 そう考えれば、ソ連軍潜水艦か戦艦ベロルシアか、どちらをより警戒すべきなのかという判断は難しい。

 そして、八月十八日一八三〇時過ぎ。

 伊王はA法で定められた距離を進み、基準針路から二十五度の転舵をかけた。

 この時、伊王が転舵したのは面舵。つまり基準針路に対して西側に舵を切ったわけである。

 その刹那のことであった。


「電測室より報告! 電探に感あり! 真方位二四〇度、距離三万三〇〇〇! 反応から、大型艦と思われます!」


「―――っ!?」


 艦橋に、緊張が走る。

 北海道西方沖で活動中の友軍艦艇に、大型艦は存在しない。

 舞鶴から第七艦隊が急行中というが、それにしては一日早すぎる。

 今、この海域に存在する大型艦といえば、ソビエツカヤ・ベロルシアしか存在しない。もしかしたらソ連海軍は、夜陰に乗じて宗谷海峡に突入、避難民を乗せて稚内沖を行き交う船舶を狙おうとしているのかもしれない。

 そして何とも間の悪いことに、電探で捉えられた目標は伊王以下六隻の針路を塞ぐような形で進んできているようだ。

 逡巡の時間は、ほとんどなかった。


「……船団を、ただちに稚内に向けろ。之字運動は一時中止、全速で稚内を目指させろ」


 小寺少佐は、呻くようにそう命じた。


「それと、避難民を乗せた三隻を頼むと、石埼の艇長に伝えてくれ」


 この船団の次席指揮官は、敷設艇石埼の艇長であった。宗谷海峡に入ってしまえば、宗谷臨時要塞に配備された九六式十五センチ加農砲の援護を受けられる(ポーツマス条約などの関係上、平時に宗谷海峡を要塞化することは出来ず、開戦前は砲座のみが密かに整備されていた)。


「艦長、本艦は?」


 緊張に声を強ばらせつつもどこか挑むような調子で問うてきたのは、航海長であった。それに対して、小寺は不敵な笑みを浮かべて答える。


「航海長。私はね、せっかく海軍軍人になったのだから、ちょっとばかし派手に大砲をぶっ放してみたいと思っていたのだよ?」


「では?」


 桑田航海長の顔にも、小寺の感情が伝染したかのように凄みのある笑みが浮かぶ。


「ああ。総員戦闘配置! たとえ排水量が一〇〇〇トンに満たない艦であろうが、我々が四〇年前にバルチック艦隊を打ち破った帝国海軍であることを証明するぞ!」

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