65 シベリア鉄道爆撃作戦
一九四四年八月十七日。
満洲国北東部を斜めに走る大興安嶺山脈の上空に、無数の轟音が響き渡っていた。夏の緑に覆われた山々を圧するように、無数の航空機が北へと向かって進んでいたのである。
南北約一二〇〇キロにわたって続く山脈を越えようと北上を続けていたのは、帝国海軍の最新鋭艦上戦闘機「烈風」、そして陸上爆撃機「銀河」で構成された編隊であった。
この日、斉斉哈爾飛行場を発進した第二〇二航空隊と第五二六航空隊は、シベリア鉄道に対する爆撃を敢行すべく、飛行を続けていたのだ。
作戦目標は、ウルシャ川に架かる鉄橋およびウルシャの街に存在する操車場であった。
ウルシャは、黒龍江(アムール川)に面した満洲国最北端の県・漠河県から北に約一〇〇キロの地点にある。街を流れるウルシャ川は、その黒龍江の支流の一つであった。
斉斉哈爾からウルシャまでは、直線距離で約六〇〇キロ。
烈風、銀河ともに十分に航続圏内に収められる目標であった。
最新鋭艦上戦闘機である烈風は、「十六試艦上戦闘機」の名称で一九四一年より零戦の後継機として三菱重工によって開発が開始された機体である。一九四四年二月に制式採用された紫電改よりも少し早い一九四三年十一月、零戦に代わる最新鋭艦上戦闘機「烈風一一型」として制式採用された。
発動機には、同じく三菱の開発した二〇〇〇馬力級発動機「ハ43」を搭載し、最高速度時速六三九キロ、航続距離一九六〇キロ(+全力三〇分)というもので、零戦の最終型である六四型よりも七〇キロ以上の優速を誇る。兵装は二十ミリ機銃二門、十三・二ミリ機銃二門で、それぞれ携行弾数は二十ミリが一門あたり二〇〇発、十三・二ミリが一門あたり三〇〇発であった。
しかし、三菱が満を持して送り出した零戦の後継機ではあったが、実際のところ、紫電改の制式採用によって烈風は制式採用から一年と経たず、早くもその地位を脅かされつつあった。
烈風は、川西飛行機の開発した最新鋭局地戦闘機「紫電改」に対して最高速度、兵装の点で負けており、航続距離に関しても紫電改は一七一五キロと烈風に劣るもののそこまで劇的な差異ではないのだ。
当初は一九四二年末頃の開発完了を海軍から要求されていたにもかかわらず、一年以上も開発期間が延びてしまったことも烈風にとって不利に働いていた。
もっとも、これは烈風を開発しながら十四試局地戦闘機の開発、そして零戦の改良を行わなければならなかった堀越二郎以下三菱の設計陣の多忙によるものであり、開発遅延の原因は多数の戦闘機の設計を一度に任せた海軍側にも存在している。結局、十四試局地戦闘機は「試製雷電」という名称が与えられたものの紫電の改良型である紫電改が良好な成績を収めたため試製雷電は制式採用には至らず、開発は中止されている。
そして烈風に代わる次期主力艦戦(十八試艦上戦闘機)の開発についても、海軍は三菱よりも川西に期待をかけているという有り様であった(もちろん、三菱側も烈風の改良型である「烈風改」の開発に取り組んではいた)。
一方の銀河は、アメリカとの艦隊決戦において米空母に対して先制攻撃を行える急降下爆撃機として開発された機体である。
開発を担当したのは、海軍航空技術廠であった。
一九三〇年代を通して、日本海軍は戦場海域上空の制空権を確保することで艦隊決戦を有利に進めようとする対米作戦構想を抱いていた。しかし、第二次補充計画で建造された蒼龍以降、空母戦力の増強に力を入れてきた日本海軍ではあったが、それでもなおアメリカの空母戦力に対して劣勢であるという認識が強かった。
アメリカは一九三〇年代になるとヨークタウン、エンタープライズ、ワスプを建造して条約制限量一杯にまで空母を保有するに至っていたからである。
さらにその後、無条約時代の到来に伴ってヨークタウン級三番艦ホーネットを建造、両洋艦隊法では新型のエセックス級空母十八隻の建造が決定されていたから、日本海軍が一九四〇年代前半には空母保有数においてアメリカに圧倒的に劣ることになることは確実であった。
そのため、陸上の航空基地から発進して米空母を撃破するための急降下爆撃機が必要とされたわけである。
こうした、空母戦力の劣勢を基地航空隊によって補うという作戦構想の下、敵戦闘機の迎撃を突破して敵空母の飛行甲板を破壊するというのが、開発段階での銀河(十五試双発陸上爆撃機)の役割であった。
その意味では、一式陸攻の純粋な後継機とは言い難い。
制式採用なった銀河一一型は、誉発動機二基を搭載し最高速度時速五六七キロ、航続距離一九二〇キロ(過荷五三七〇キロ)という高速性能と航続距離を両立させた双発爆撃機であった。
そして、八〇〇キロ爆弾一発ないし五〇〇キロ爆弾もしくは二五〇キロ爆弾二発、あるいは重量一〇八〇キロの九一式航空魚雷改五一本を搭載することが出来た。
ただし、銀河はその高速性能によって敵戦闘機を振り切るという設計思想のため、兵装は機首の二十ミリ機銃一門と電信員席の十三・二ミリ機銃一門の計二門のみであった。
今回のシベリア鉄道爆撃作戦では、第二〇二航空隊の烈風四十八機および第五二六航空隊の銀河七十二機が参加している。
内、斉斉哈爾発進後に発動機不調などで引き返したのが烈風三機、銀河二機であったので、合計で一一五機の編隊であった。
本来はアメリカとの艦隊決戦に投入されるはずであった銀河の初陣が、対ソ戦におけるシベリア鉄道爆撃であるというのは、何とも皮肉な話であった。
◇◇◇
銀河隊である第五二六航空隊を率いる森本秀雄少佐は、銀河の機首にある偵察員席で航法を担当していた。
眼下に見える大興安嶺山脈の間を縫うようにして、無数の河川が走っている。その先に、黒龍江が見えてくるはずであった。
銀河隊は現在、高度五〇〇〇メートルでの飛行を続けている。
空には多少の雲が存在しているものの、八月の満洲の天候としては良好な方であろう。ここ数日、満洲北部では雨季らしく雨が続き、航空作戦が困難となっていたのだから、この天候はむしろ有り難いものであった。
銀河隊を護衛する烈風隊は、直掩隊と制空隊に分かれて飛行していた。
直掩隊は銀河の直接護衛を担当し、銀河隊と同じ高度五〇〇〇メートル前後を飛行している。制空隊は敵戦闘機の排除を目的として、それよりも高い高度六〇〇〇メートルを飛行していた。
烈風隊を率いるのは、第二〇二飛行隊長の鈴木実少佐である。
今回の作戦で問題であったのは、銀河隊である森本少佐よりも烈風隊の鈴木少佐の方が先任であることだった。そのため出撃前の打ち合わせでは、進撃中の指揮全般は鈴木少佐が執り、実際の爆撃の指揮などは森本少佐に一任することに決められている。
やがて、大興安嶺山脈を覆う緑の中で、ぽつんと穴のように緑の乏しい場所が見えてきた。
満洲国最北に位置する、漠河の市街地だろう。
鉄道も通っていない、山奥の街である。
このようなところにまで人の営みがあることに、森本としては驚かざるを得ない。シベリア鉄道やその沿線の街はこの漠河よりもさらに北にあるのだから、内南洋で対米戦を考えていた海軍軍人の一人である自分がこのような北までやって来たことに何とも言えない感慨が湧き起こってくる。
『まもなくソ連領上空に入る。総員、見張りを厳にせよ』
と、攻撃隊隊長である鈴木実少佐からの通信が受聴器に入る。それを受け、森本は機首の二十ミリ機銃の安全装置を解除した。
ぐっと銃把を握りしめる。
烈風と銀河、帝国海軍の最新鋭機で編成された攻撃隊は、やがて黒龍江上空を通過した。
編隊は、ソ連領へと侵入しつつあった。
【森本秀雄】
1944年12月25日、第七六二航空隊攻撃五〇一飛行隊を率いてサイパン島アスリート飛行場を攻撃した銀河隊指揮官。この攻撃で未帰還。
いくつかの文献では「大尉」と表記されていますが、防衛省防衛研究所所蔵の「昭和18年12月~昭和19年7月 753空 飛行機隊戦闘行動調書」の搭乗員割りを見ると、1944年5月の時点ですでに少佐に昇進しています。




