60 外交的敗北
一九四四年八月十三日に発生した清津沖での海戦を、日本側は「東朝鮮沖海戦」と呼称した。
この海戦では、夜襲に成功した第六戦隊以下十隻の艦艇がソ連海軍巡洋艦キーロフ、ヴォロシーロフ、チェルヴォナ・ウクライナ、クラスニイ・クリム、嚮導駆逐艦キエフ、駆逐艦レシーテリヌイ、ラストロープヌイを撃沈、巡洋艦クラースヌイ・カフカースを大破させる戦果を挙げている。
ソ連艦隊を撃破した後、田中少将は清津港への突入を命令、未だ揚陸を完了していなかったソ連軍上陸船団の撃滅にも成功していた。
結果、ソ連海兵隊二個大隊および重装備などが輸送船ごと沈み、さらにすでに上陸していた第十三海兵旅団二個大隊は清津にて完全に孤立することとなったのである。
こうした大戦果に対し、田中艦隊の損害は重巡青葉が小破する程度であり、輸送船団の撃滅という当初の作戦目的を達成したことも含めて、事実上、日本海軍の完勝であった。
そして、ソ連軍の悲劇はこれだけに終わらなかった。
翌十四日、舞鶴から急行中であった第七艦隊の空母隼鷹、飛鷹、千歳、千代田、日進の母艦航空隊、そして元山の第二十二航空戦隊によるさらなる空襲が行われたのである。
これは前日に航空攻撃が不十分であった雄基・羅津沖のソ連軍輸送船団に対して行われたもので、こちらも輸送船とその護衛であった哨戒艦ミチエーリ以下の艦船が撃沈され、さらには前夜の戦闘で損傷しウラジオストクに向けて退避中であった巡洋艦クラースヌイ・カフカース、駆逐艦リヤーヌイも同じく空襲によって沈没している。
こうして、ソ連軍による北鮮三港上陸作戦は、完全な失敗に終わった。
この原因には、いくつもの要因が考えられる。
やはり大きいのは、上陸作戦に対するソ連軍の研究不足、準備不足である。上陸用舟艇や揚陸艦の存在もなく、複数の拠点に対し同時に強襲上陸を行おうとしたことが、そもそもソ連軍の能力の限界を越えていたのである。
満洲国における関東軍の包囲殲滅という作戦構想に、ソ連軍の上陸作戦能力が追いついていなかったのだ。
また、上陸を支援するための艦隊兵力の不足もまた、敗北の大きな要因の一つであったろう。
これは、スターリンが北海道侵攻を計画していたため相対的に朝鮮戦線を軽視していたことが、現地のヴォロシーロフ総司令官やユマシェフ司令長官の判断に影響を与えてしまったと考えられる。
しかし一方で、ソ連軍が太平洋艦隊主力を温存していたことは、海戦後の日本海軍第七艦隊の判断に影響を与えてもいた。
五藤存知司令長官は隼鷹以下空母部隊による空襲が成功すると、そのまま舞鶴へと艦隊を反転させてしまったのだ。
この段階で、日本側に救助されたソ連艦艇乗員の尋問結果から、田中艦隊が撃沈した艦艇の中に戦艦が含まれていないことが判明していたのである。そのため、当初は徹底して追撃を行い、戦艦伊勢、日向によって日ソ国境地帯のソ連軍地上部隊に対して艦砲射撃を行うことも考えていた五藤中将は、ウラジオストクのソ連艦隊との会敵を危惧して艦隊を引き上げさせたのだ。
伊勢型の二隻ではソヴィエツキー・ソユーズ以下七隻の戦艦、そして沿海州のソ連軍基地航空隊には対抗出来ないと判断され、やはり日本側も艦隊の保全に走ってしまったのである。
朝鮮に侵攻したソ連軍の撃退という意味では、日本側もまた不徹底さを残していたといえよう。
とはいえ、アバチャ湾への艦砲射撃の成功と合せて、開戦以来、防戦一方であった日本にとって華々しい勝利となったことは間違いない。
十四日夕刻のラジオニュースでは大本営海軍部発表として、勇壮な軍艦マーチと共にカムチャッカと朝鮮沖での快勝が国民に伝えられ、さらに後日、それぞれの海戦に参加した海軍報道班員(従軍記者)などが撮影した映像がニュース映画として全国で上映されることとなった。
しかし、捷報に沸き返る国民たちとは対照的に、日本の指導者たちの元には暗鬱な報告が届けられていた。
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八月十六日、日ソ開戦に伴い設置された最高統帥機関である大本営と政府首脳部との連携を円滑に行うための大本営政府連絡会議が開催された。
大本営(統帥部)側の出席者は参謀総長・畑俊六大将、軍令部総長・嶋田繁太郎大将、政府側の出席者は内閣総理大臣・山梨勝之進、陸軍大臣・東條英機大将、海軍大臣・堀悌吉大将、外務大臣・吉田茂、大蔵大臣・賀屋興宣である。
連絡会議の議長を務めるのは、首相である山梨勝之進であった。
ただし、議長だからといって会議の主導権を握れるわけではない。大日本帝国憲法で統帥権の独立が規定されているため、憲法上、政府側が統帥事項について陸海軍統帥部長に対して指示を下すことが不可能だったからである。
大本営政府連絡会議は、そうした国務と統帥の分裂を最小限に抑えるために編み出された窮余の策であったといえよう。
「ワシントンD.C.のアメリカ大使館を初めとした在米公館より、あまり喜ばしからぬ報告が届いております」
夏の暑さだけではない不快さを顔に湛えて、吉田茂は会議の出席者全員に告げた。出席者の手元には、駐米大使発外務大臣宛電信など、外交電報の写しが配られていた。
「先日の東朝鮮沖海戦について、米国の各紙は“極東のシノープの虐殺”などと書き立てて、カムチャッカ砲撃と合せ、我が国の脅威論を煽っておるようです」
吉田の言葉と外交電報の写しを見ている者たちの間から、苦々しい呻きが発せられる。
“シノープの虐殺”とは、十九世紀中期のオスマン帝国とロシア帝国との戦争であるクリミア戦争において、ロシア艦隊がオスマン艦隊に対して一方的勝利を収めたシノープの海戦を指す呼称である。
ロシア帝国のあまりに一方的に過ぎる勝利に、かえって英仏の間にオスマン帝国同情論やロシア批難が沸き起こり、それが英仏のオスマン帝国側に立っての参戦に繋がった。
「我が帝国海軍の武威を瀆そうとする、まったくけしからん報道ですな」
軍令部総長である嶋田繁太郎大将が、吐き捨てるように言った。
「シノープの海戦ではロシア艦隊は海上を漂うオスマン水兵にまで攻撃を加えたと言うが、我が軍はソ連艦艇の乗員を救助して、丁重に扱っている」
東朝鮮沖海戦で勝利を収めた田中司令官は海戦後、海上を漂うソ連兵の救助を命じていた。この行為は国内では賞賛を以て報道され、蔚山沖海戦でロシア水兵の救助を命じた上村彦之丞提督になぞらえる声も上がっている。
もちろん嶋田自身の意識としては、ソ連軍捕虜をジュネーヴ条約に基づく形で扱っているのはアメリカ世論を考慮してのことという思いがある(ただし、日本は捕虜の待遇に関するジュネーヴ条約に批准していない)。
そうした考えがアメリカの報道機関によって悪し様に否定されては、不愉快になるのも当然であった。
こうしたアメリカの報道の背景には、東朝鮮沖海戦に関するソ連側の発表が影響していると考えられた。
ソ連は東朝鮮沖海戦について、日本帝国主義者に抑圧されている朝鮮人民を解放すべく、朝鮮人民の歓呼に迎え入れられながら進駐を果たしたソ連軍兵士を日本帝国主義軍隊が無道にも虐殺した戦いであると発表していたのである。そこには、どこまでもソ連側の開戦理由を正当化し、日本こそが極東の平和を乱す世界の脅威なのだという、執拗なまでの宣伝工作があった。
「それに、何ですかな、このソ連の報道は!?」
嶋田をさらに怒らせていたのは、他に資料として配付されたソ連のタス通信の和訳記事であった。
「カムチャッカ沖で、我が戦艦大和を撃沈した? まったく、ふざけている!」
ソ連側は敗北を糊塗するためなのか、アバチャ湾を砲撃した戦艦大和を撃沈したとの戦果を、“東朝鮮沖での虐殺事件”と並んで大々的に報じていた。曰く、腐敗した日本の帝国主義者たちが不沈戦艦と豪語するヤマトは、勇敢で精鋭なるソ連人民水兵の犠牲的な魚雷攻撃によって虚しく撃沈された、と社会主義国家らしい無駄に装飾的な文章で伝えていたのである。
大和はソ連海軍魚雷艇の犠牲的攻撃によって撃沈されたとされ、これにより日本帝国主義者の虚妄は明らかであると高らかに謳っていた。
そしてそれを信じるアメリカ人たちの存在も、外交電報は伝えていた。
米国内では東朝鮮湾海戦における日本脅威論と共に、大和“撃沈”による日本海軍の実力を侮る言説も見られているという。
抑止力として戦艦大和の存在を誇示してきたことが、かえって仇となってしまった形である。
「しかし、現実には大和は撃沈されていない」
海相の堀は、海兵同期の嶋田よりは冷静であった。
「本邦に在留している海外記者連に対して、アバチャ湾より凱旋した大和型三隻の姿を写真付きで報じてもらうなど、対策はとれよう」
彼は嶋田の怒りを宥めるように、そう言った。
「幸い、第一艦隊は現在、鹿島灘沖を航行中のはずだ。本来であれば横須賀沖の第二戦隊と合流させて柱島に帰還させる予定だったそうだが、一度、東京湾に回航させて外国人記者の目に留めるべきではないか?」
「うぅむ……」
海軍大臣に統帥事項について口を挟まれたにもかかわらず、嶋田は反発することなく悩ましげに唸った。
カムチャッカ沖から帰投する大和以下第一艦隊主力は、八月十八日に柱島に帰還する予定であった。それを一度、東京湾に回航させることになるのである。
その分、燃料を余分に消費し油槽船を手配する手間がかかるだけでなく、呉海軍工廠における今後の整備計画にもずれが生じる可能性があった。
だが、このままでソ連による悪質な宣伝だけが全世界に広まることになる。
それは、嶋田としても海軍の面子から許しがたいことであった。
「……海軍大臣の提言を受けることにしよう」
結果、嶋田は海兵同期の首席の言葉に従うことにしたのである。
「しかし、どうやら今回の件は十一月の大統領選挙にも影響を与えそうですな」
改めて、吉田茂が発言した。
「日本脅威論に基づく道徳的禁輸が、大統領選挙において焦点になる可能性は十分に考えられましょうからな」
「中立条約を一方的に破棄して侵攻したのは、ソ連ではないか」憤りも露わに、陸相である東條英機が言う。「だというのに、米国民はソ連に肩入れしようというのか?」
「まあ、あくまで私の考えではありますが、そうなる可能性は高いでしょうな」
吉田は自らの精神を落ち着けようとするかのように、紫煙をゆっくりと吐き出した。
「それだけ、米国にとって日本は脅威と認識されてしまっている、そういうことでしょう」
彼はちらりと堀海相と嶋田軍令部総長を見た。一九三〇年のロンドン海軍軍縮会議で対米六割に甘んじていれば、まだ米国世論をここまで対日脅威論一色に染め上げることはなかったかもしれないと、恨めしく思っているのだろう。
ワシントン・ロンドン両軍縮条約で海軍の要求を満足させてしまったことが、今の米国世論に繋がってしまっている。そう考えているのかもしれない。
「とはいえ、米国世論を取り込もうとするソ連側宣伝工作の巧みさは認めねばなるまい」
溜息をつきたそうな調子でそう言ったのは、首相の山梨勝之進であった。
「現状、確かにアバチャ湾砲撃と東朝鮮沖海戦では勝利を収めたかもしれん。だが、それはあくまで戦術的な勝利であり、アメリカの対日姿勢という意味では政略的・外交的にはソ連に敗北していると言わざるを得ない」
その言葉に、連絡会議に出席している全員の顔が険しくなる。
「今後はよりいっそう、帝国の公明正大なる態度を米国、そして世界に対して発信していかねばなるまい」
ソビエト連邦とアメリカ合衆国という大国に挟まれた大日本帝国を取り巻く国際情勢は、ソ連の対日侵攻によってさらにその厳しさを増しつつあった。
混迷する極東情勢は、より深い混沌へと大日本帝国を呑み込みつつあったのである。
ここまでお読み下さり、誠にありがとうございました。
これにて、第三章は完結となります。
第四章では、引き続き日ソ戦を描いてまいります。三式中戦車とT-34との戦車戦も描いていきますので、今後とも何卒よろしくお願いいたします。
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