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北溟のアナバシス  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第三章 日ソ開戦編

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58 朝鮮半島への侵攻

 だが、大和がアバチャ湾のソ連海軍基地への砲撃を成功させたからといって、ソ連軍の侵攻の勢いが留まるようなことはない。

 アバチャ湾砲撃は太平洋航路の安全確保には資する作戦ではあったのだが、一方で満洲や朝鮮半島での戦闘に寄与する部分はほとんど皆無であったと言ってもいい。

 八月十三日未明、ソ連海兵隊二個大隊超が朝鮮北部東岸の雄基・羅津に、そして海兵隊一個旅団が清津に上陸作戦を敢行したことからも、それは明らかであった。

 八月九日の開戦以来、雄基、羅津、清津の北鮮三港はソ連軍による空襲に晒されており、さらにソ連軍地上部隊が国境となっている豆満江を渡河して朝鮮半島への直接侵攻を開始していた。

 この時、豆満江渡河を敢行したソ連軍は、第一極東正面軍第二十五軍麾下の第三九三狙撃師団であった。一方、張鼓峰事件など何度となく国境紛争が発生していた日ソ国境地帯を守備していたのは、帝国陸軍第十九師団麾下の歩兵第七十五連隊および歩兵第七十六連隊、捜索第十九連隊(かつての騎兵第二十七連隊を機械化した部隊)を中核とする部隊である。

 ソ連軍の雄基・羅津・清津上陸作戦は、国境地帯において防衛戦闘を行う日本軍の後方を突こうとするものであったといえよう。

 九日の開戦から十三日のソ連軍上陸までの間、すでに咸鏡北道(かんきょうほくどう)では住民の疎開が開始されていた。対ソ戦においては真っ先に戦場となり得る地域であったため、咸鏡北道では一九四四年四月ごろから、住民の避難計画を立案していたのである。

 八月九日夕刻、早くも府尹(ふいん)(朝鮮における地方長官の呼称)は住民に対し、咸鏡北道北部の会寧・茂山に向けて疎開を開始するよう布告を行っている。これは、北上する第二十師団(京城)や第三十師団(平壌)からの増援部隊と南下する避難民が交錯しないようにするための措置であった。

 つまり、南方から咸鏡北道に向かう軍事輸送のための鉄道ないし自動貨車(陸軍におけるトラックの呼称)の車列を優先しようとしたのである。

 そのため、咸鏡北道の住民は北へと疎開させられることになったのである。会寧・茂山へと疎開した避難民たちは、そのまま鴨緑江を伝って朝鮮西岸ないし平壌へと送られる予定であった。

 しかし当然ながら、布告が出てから三日で雄基や羅津、清津の住民全員が避難するなど無理な話であり、さらにここに在郷軍人らに対する治安維持のための警備召集が掛けられたことが、混乱に拍車をかけることとなった。

 結果として、そうした混乱の最中でソ連軍が上陸したことにより、北鮮三港の住民たちの間にさらなる混乱と恐慌が引き起こされる事態となってしまった。

 一方、羅南に司令部を置く第十九師団では、ソ連軍の雄基・羅津・清津上陸が国境地帯での防衛戦闘中の第七十六連隊などの側背を突こうとするものであると見抜いていた。特に雄基港は国境地帯に近く、ここに橋頭堡を築かれ、後続の部隊が上陸する事態となれば朝鮮の防衛体制が緒戦にして崩壊する危険性があった。

 さらに旅団規模のソ連軍部隊の上陸が確認されている清津は、日本と満洲東部を結ぶ重要な港の一つであり、朝鮮において工業的にも重要な地位を占めている街である。ここを失うことは、日本の戦争遂行能力そのものを低下させてしまうことに繋がってしまうのだ。

 第十九師団司令部は、本来であれば国境地帯への増援として派遣する予定であった羅南の歩兵第七十三連隊および茂山の騎兵第七十九連隊を、清津方面に派遣することを決定する。

 一方、雄基・羅津については上陸したソ連軍が二個大隊超二〇〇〇名規模ということもあり、現地部隊である陸軍の羅津要塞守備隊(羅津要塞重砲兵連隊基幹)および海軍の羅津根拠地隊による防衛が試みられることとなった。

 そして、元山に司令部を置く海軍第十一航空艦隊もまた、沖合のソ連艦隊および輸送船団攻撃のために出撃していた。


  ◇◇◇


「全力ヲ以テ敵攻略部隊ヲ撃滅スベシ。攻撃目標船団」


 十三日〇七五三時、第十一航空艦隊司令長官・草鹿任一中将からの命令に従って元山基地を発進したのは、第二十二航空戦隊の零戦二十七機、一式陸攻三十三機であった。

 奇しくも第二五二航空隊と第七五五航空隊は、かつての元山航空隊であった。

 彼らの目標は、清津沖のソ連軍輸送船団である。

 元山から清津沖までの直線距離は、約三〇〇キロ。

 一式陸攻はおろか、零戦ですら十分に航続圏内に収められる距離であった。

 第二十二航空戦隊には他に艦上爆撃機「彗星」で編成された第五五二航空隊が存在していたが、陸海協同でのソ連軍地上部隊への攻撃のため陸軍の吉州航空基地に進出してしまっており、十三日時点で元山には存在していない。

 この第五五二航空隊に対しては、雄基・羅津沖のソ連軍輸送船団攻撃が命ぜられた。ただし、搭載していたのは艦船攻撃用の徹甲爆弾ではなく、陸用爆弾であった。これは、未明の時点ではソ連軍地上部隊攻撃が予定されていたからである。

 第五五二航空隊は爆弾を換装することなく、ソ連軍輸送船団攻撃に出撃したのであった。

 一方、陸攻隊は元山を発した一時間半後の〇九二〇時過ぎ、清津沖のソ連艦隊および輸送船団を捕捉した。

 彼らは攻撃隊指揮官、七五五空の石原薫少佐の「全軍突撃せよ」を命令と共にソ連軍上陸船団への攻撃を開始しのだった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


「七五五空からのト連送を受信いたしました!」


 一方、朝鮮沖に出現したソ連艦隊および輸送船団攻撃のために出撃していたのは、第十一航空艦隊だけではなかった。

 第七艦隊に属する第六戦隊以下の艦艇もまた、ソ連軍上陸船団撃滅のため、出撃していたのである。

 第六戦隊司令官・田中頼三少将は、旗艦青葉の艦橋でその報告を受けた。

 このとき、第六戦隊を中心とする鎮海を根拠地としていた主要艦艇は、偶然にも元山にまで進出していた。日ソ国境を越えて侵攻を開始したソ連軍地上部隊に対し、海上からの支援砲撃を行うためである。

 また、空襲を受けて雄基・羅津・清津から退避する商船を護衛するためでもあった。

 しかし、そうした作戦が実行される前に、ソ連軍が朝鮮東岸に上陸してきたのである。

 実は昨夜の時点で、ウラジオストク沖で哨戒に当たっていた伊号潜水艦の一隻より、輸送船団と思われるソ連軍艦艇の出撃は報告されていた。

 ただ、潜水艦という艦種の性格上、そしてウラジオストクというソ連海軍の警戒が厳重な軍港の沖での哨戒活動中ということもあり、潜水艦からの報告はかなり遅れていた。不用意に電波を発信することで、自らの位置がソ連海軍に露見することを恐れたのである。

 そのため、ソ連軍輸送船団の発見時刻は昨夕であるにもかかわらず、報告の電文が第十一潜水戦隊旗艦である特設潜水母艦りおでじゃねろ丸に、そして第七艦隊旗艦である戦艦伊勢に届けられたのは、十三日〇三〇〇時過ぎのことであった。

 そしてこの情報は元山の第六戦隊にも届けられたものの、陸上にある第十一航空艦隊司令部や朝鮮の陸軍部隊への伝達は完全に遅延してしまった。

 ソ連軍の上陸後、ないしすでに航空部隊が出撃した後になって、ようやく連合艦隊司令部経由でソ連軍輸送船団のウラジオ出撃が報されたのである。

 通信も含めた、各部隊の連携不足が露呈した形であった。これは、第十一航空艦隊司令部と第七艦隊司令部の距離が離れている(元山と舞鶴)ことも原因の一つである。

 さらに言えば、ソ連軍の朝鮮東岸上陸により、開戦前からの懸念が現実のものとなってしまった。舞鶴の第七艦隊主力の到着が、隼鷹以下の母艦航空隊も含めて翌十四日以降となる見込みだったのである。

 このため、元山所在の艦艇は田中少将指揮の下、単独での出撃を行わざるをえなかった。

 この時、田中少将の指揮下にあって出撃した艦艇は次の通りである。


  指揮官:田中頼三少将(第六戦隊司令官)

第六戦隊【重巡】〈青葉〉〈衣笠〉〈古鷹〉〈加古〉

第十八戦隊【軽巡】〈天龍〉〈龍田〉

第二十二駆逐隊【駆逐艦】〈皐月〉〈水無月〉〈文月〉〈長月〉


 以上の十隻が、ソ連軍の雄基・羅津・清津上陸の報を受けて元山を出撃した艦艇であった。

 この他、朝鮮東岸には鎮海警備府所属の海上護衛部隊・第一〇五戦隊が展開していたのであるが、旗艦である松型駆逐艦柳を除き、すべてが海防艦であったために今回の出撃には参加していない。

 第一〇五戦隊はあくまでも、鎮海警備府の指揮下で朝鮮東岸での海上護衛に従事し続けることになった(このため、第六戦隊以下の出撃に際しては対潜警戒などを担当した)。彼女たちは、北鮮三港から元山に退避してくる商船の護衛を、引き続き実施することが求められたのである。

 田中少将は元山出撃にあたり、次のような電文を発している。


「本職、本十三日〇八〇〇、第六戦隊及第十八戦隊竝第二十二駆逐隊ヲ率イ清津ニ向カイ北上セントス。爾後ノ行動ハ本日ノ基地航空隊ノ偵察及攻撃ノ成果ニ依リ決スルモ、為シ得ル限リ、夜間、敵輸送船団ノ泊地ニ殺到、之ヲ撃滅セントス」


 対潜警戒などの之字運動などを行えば、元山から清津沖までの距離はおおよそ五〇〇キロと見込まれた。十八ノットで航行すれば、およそ十五時間の距離である。

 田中少将は、夜襲にてソ連軍上陸船団の撃滅することを目指したのであった。


  ◇◇◇


 眼下の輸送船団の一部から、薄らと黒煙が上がっている。


「……」


 攻撃を終えて集合をかけた攻撃隊隊長・石原薫少佐は、一式陸攻の機上から戦果を確認していた。

 敵艦隊への雷撃を敢行すべく開発された一式陸攻ではあったが、今回の出撃においては調定に時間のかかる雷装ではなく、二五〇キロ爆弾四発を搭載して出撃していた。

 魚雷の調定に時間を浪費するよりも、出撃を反復して輸送船からの兵員や装備、物資の揚陸を妨害することを目指したからであった。

 元山から清津沖までは直線距離で三〇〇キロ程度。敵艦隊から対空砲火を浴びる時間を出来るだけ少なくするため、陸地側より侵入して爆撃を行ったとしても、片道四〇〇キロにはならない。

 一式陸攻の巡航速度は時速三一五キロであるから、二時間程度で元山の基地とを往復出来る計算になる。

 少なくとも、さらに午後と薄暮、今日は計三回の出撃が可能だろう(搭乗員の疲労を無視すれば、であるが)。

 敵輸送船団上空を旋回していた石原機は、やがて列機を率いて元山への帰投を開始した。

 戦果を告げる石原機からの電文は、次のようになっている。


「我、敵輸送船二ヲ炎上。敵戦闘機八及爆撃機十ヲ撃墜。我方ノ損害、陸攻三、零戦二。尚、清津沖ノ敵艦隊ニ戦艦ヲ認ム。戦艦二、巡洋艦四、駆逐艦十」

 田中頼三提督は二水戦司令官として有名ですが、史実では事実上の左遷をされてしまったため、それがなければどこまでの地位に上ることが出来たのか、いまいち判らない面があります。

 ただ、海兵同期で三水戦司令官であった橋本信太郎提督はその後、第五戦隊司令官になっています(間に水雷学校校長を挟む)ので、田中提督も順調にいけば重巡戦隊の指揮官になった可能性があると考えました。

 なお、田中提督の前任の二水戦司令官は五藤存知提督だったりします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 安心と信頼の田中頼三提督。また虐殺が始まってしまうのか。
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