57 反撃の第一矢
「距離八〇〇〇に発砲炎らしきものを見ゆ!」
「何ぃ!?」
警備艦キーロフの艦橋に、見張り員の慄きの叫びが響き渡る。
実はこの直前、見張り員は彼方に艦影らしきものをおぼろげながら発見していた。しかし、ポノマリョフ大佐はそれが日本艦隊であるのか、あるいは単に海上に漂う靄か何かを見張り員が緊張のあまり敵艦と誤認しているのか、確証が付かなかったのである。
そして、判断に迷っている内に突然、暗い海上の彼方に発砲の閃光が走ったのだ。
「いかん! 機関最大戦速! 回避、回避だ!」
ポノマリョフ大佐は喚くように命じた。とにかく、敵弾を回避しなければならないと考えたのだ。
「取り舵一杯!」
「ダー! 取り舵一杯!」
だが、艦長の命令によって操舵手が舵輪を回し、艦がその指示に従うまでの間に日本艦隊からの砲弾が降り注いだ。
一一〇〇トンの船体が、無数の水柱に囲まれる。
夜間だというのに、その砲撃精度は恐怖を覚えるほどに精密なものであった。
ようやく、キーロフの船体が回頭を開始する。だがそれは、ソ連艦隊にさらなる混乱をもたらす結果となった。
突然の日本艦隊との遭遇と一方的な砲撃に各艦長、艇長たちが動揺しているところに、旗艦がいきなり回頭したのである。夜戦の訓練などほとんど経験したことのない者たちにとって、いったいどのような判断を下せばいいのか、判らなくなってしまったのである。
キーロフに従うべく同じ方向に舵を切る艦、あるいはキーロフとは反対側に舵を切って日本艦艇からの砲撃から逃れようとする艦、それそれがそれぞれに判断を下した結果、艦隊陣形は完全に乱れてしまったのである。
だがもちろん、ポノマリョフ大佐も他の艦長・艇長たちも、敵前逃亡が許されざるものであることを理解していた。
動揺と恐怖は、やがて彼らを日本艦隊への遮二無二な突撃へと駆り立てた。
「同志スターリンは諸君らを常に見ておられる! 腐敗した帝国主義者どもの艦隊に、精鋭なる我らソビエト人民の艦隊が負ける道理がない!」
ポノマリョフ大佐は、己自身を奮い立たせるように全艦に向けてそう檄を飛ばした。
一方、川内の側ではソ連艦隊の陣形の乱れを、そうとは受け取っていなかった。
敵艦隊はこちらに丁字を描かれていることを悟り、敵弾回避と照準の分散を狙って陣形をあえて崩したのだと理解していた。
実際、それまで単縦陣であったソ連艦隊が陣形を崩したことで、丁字の有利は失われていた。
「各艦は各個の判断により目標を定め、攻撃を続行せよ」
ここで旗艦が麾下艦艇に目標を指示しようとしても、かえって混乱が生じるだけだろう。伊集院少将はそう判断した。
川内と八隻の駆逐艦による射撃は続く。敵艦隊の姿は、その頭上で炸裂する照明弾によっても露わになっていた。
「突撃を命じますか?」
と、三水戦先任参謀の石井励中佐が問うてきた。水雷戦隊にとって、敵に肉薄しての雷撃こそがその真骨頂である。
「いや、今突撃を命じても、かえって混戦となって敵を利するだけだろう」
だが、伊集院は突撃は時期尚早であると判断して、頭を振った。
「このまま単縦陣を維持しつつ、適度な距離を取りつつ射撃を継続。なおも敵魚雷艇の出現には留意せよ」
彼は、依然としてソ連海軍の魚雷艇の出現を警戒していた。海岸線の影から不意に襲撃を仕掛けてくることはなかったものの、こちらがソ連海軍水雷戦隊(と、日本側は誤認していた)との戦闘している最中に、その高速を活かして回り込んでくるかもしれない。
川内は、なおも敵一番艦への射撃を継続していた。
「アゴーン!」
撃て、という号令と共にキーロフの艦首に備えられた一〇二ミリ砲が射撃を開始する。
射撃時の衝撃が、かすかに艦橋を振動させた。
だが、キーロフは機関を最大限にまで稼働させているにもかかわらず、二十ノットの速力しか発揮出来ない。依然として、彼女の周囲には敵弾が降り注ぎ続けている。
一〇二ミリ砲の照準は、敵の発砲炎を目標にしていた。
レーダーを装備していないキーロフは、夜間における訓練の不足もあって、依然として敵艦の姿を明確に視認出来ていなかったのである。発砲炎によって浮かび上がる敵影を頼りに、照準を合わせるしかなかった。
一方、こちらの姿は暗い海面を照らし出す照明弾によって暴露されている。周囲に立ち上る水柱は、確実にキーロフの船体を捉えつつあった。
ポノマリョフ大佐はもどかしい思いを抱きながら、自艦の砲撃を見守っているしかない。
そして、キーロフが五度目の射撃を行おうとした刹那、それはやって来た。
爆炎と共に、床から突き上げるような衝撃が襲ってきたのである。一一〇〇トンの船体が軋みを上げ、ポノマリョフ以下艦橋にいた者たちがよろめく。
「被害は、被害はどうなっている!?」
羅針盤に掴まって転倒を防いだ艦長が、狼狽も露わに叫んでいた。
この時、川内の放った十四センチ砲弾二発が、キーロフの船体を捉えていたのである。一発は後部檣楼を吹き飛ばし、もう一発は煙突付近に命中、そのまま機関室にまで貫通した後に信管を作動させて彼女の船体を艦底部から揺るがしていた。
これにより、キーロフは機関を損傷すると共に、艦中央部に火災を発生させてしまう。
「消火、急げ!」
この暗い海上で火災が発生することは、自艦の姿をくっきりと照らし出してしまうことに他ならない。NKVD出身の乗員たちが、急ぎ消火に取りかかろうとする。
「……」
それを、ポノマリョフ大佐はほとんど自失の体で眺めていた。
再びの被弾の衝撃が、キーロフを襲う。そしてその直後、さらに巨大な爆発が発生した。
ポノマリョフ大佐を含めて艦橋にいた者たち全員が、艦橋の床に引き倒される。
「な、何事だ!?」
ポノマリョフ大佐は、床に手をつきながらそう叫ぶしかなかった。艦は、艦首を持ち上げるように急速に傾斜を深めつつあったのである。
二度目の被弾によって、キーロフの搭載していた爆雷が誘爆したのだ。三〇個の爆雷が次々と誘爆し、彼女の艦尾を完全に破壊した。
そこから流入した海水が、一気に艦内に流れ込んだのである。
そして直後、機関部に流入した海水が水蒸気爆発を発生させた。爆発によってキーロフの船体が引き裂かれた結果、船体が破断。彼女は艦首と艦尾を持ち上げながら急速にカムチャッカ沖の海底へと引きずり込まれていった。
轟沈であった。
当然というべきか、生存者の中にドミトリー・ポノマリョフ大佐の名前は含まれていない。
◇◇◇
「掃討隊より、湾口の敵艦隊を撃滅したとのことです」
十二日〇〇二〇時、大和戦闘指揮所には三水戦司令部よりの報告がもたらされていた。
アバチャ湾を出撃したソ連艦隊は、一時間と経たずに第三水雷戦隊によって撃滅されてしまったのである。
「敵魚雷艇との衝突により天霧が艦首に軽微な損傷を負った他、被害らしきものはないとのこと」
「魚雷艇は、やはり出てきたか」
「はい。しかし、その掃討も完了したとのことです」
小柳参謀長の言葉に、戦闘指揮所付きの通信手が答える。
ポノマリョフ大佐の迎撃作戦通りソ連海軍の魚雷艇は掃討隊への突撃を仕掛けたのであるが、その全艇が撃退されていた。この内、第二十駆逐隊旗艦天霧が突撃してきた魚雷艇と衝突し、これを撃沈している。
天霧は、艦首に軽微な損傷を受けたものの戦闘航行に支障は生じていなかった。
ソ連海軍魚雷艇の挙げた戦果は、これが唯一のものであった。
「では、アバチャ湾への砲撃は予定通り敢行する」
角田覚治中将は、宣言するようにそう命じた。
その上の夜戦艦橋では、森下信衛艦長以下の者たちが射撃に向けた準備を進めていた。
砲撃にあたっては、海岸線との距離は一万七〇〇〇メートル、速力十八ノット、針路は四十五度に固定したまま直進。その後、取り舵に反転して針路二五五度で再度の砲撃を行う。
そして、そのまま千島方面に向けて離脱する。
つまり、アバチャ湾への艦砲射撃は一往復しか行わない計画だったのである。
海岸線から一万七〇〇〇メートルというのも、陸上砲台などからの砲撃や湾口に仕掛けられているであろう機雷への警戒からであった。
そのため、ソ連海軍の潜水艦基地があるとされるアバチャ湾ルイバチーの港湾施設までの距離は三万三〇〇〇メートル程度と見積もられていた。
大和型戦艦にとっても、かなりの遠距離砲撃である。しかし、あまり海岸線に近付くのも危険であった。
角田中将としても、開戦劈頭で大和型戦艦を不用意な危険に晒すつもりはなかったのである。
多少、砲撃の成果が不徹底であろうとも、開戦劈頭に大和型戦艦がソ連海軍基地を砲撃したという心理的効果の方を重視していたといえよう。
やがて弾着観測のために発進した零式水上観測機が照明弾を投下し、ルイバチーのソ連海軍潜水艦基地を照らし出す。弾着観測機による測定と照明弾の明かりを元に、第一戦隊は射撃諸元を整えていく。
そして十二日〇〇三五時。
単縦陣を組んだ大和、武蔵、信濃は主砲全門を左舷に向けて号令を待っていた。
「射撃用意よし!」
大和砲術長・能村次郎中佐の報告が、夜戦艦橋に届けられる。そして、艦橋下部の戦闘指揮所から射撃開始を命ずる艦内電話が入った。
刹那、森下艦長は腹に力を込めてその命令を下した。
「撃ち方始め!」
「てっー!」
裂帛の号令と共に、大和の左舷が朱に染められる。砲口から飛び出した炎が艦影を照らし出し、衝撃波と熱波が海面に霧を立てる。
交互撃ち方によって放たれた三発の零式通常弾は、砲口初速秒速七八〇メートルでルイバチーのソ連海軍基地へと大気を破って突き進んでいく。
四十六センチ零式通常弾の重量は、一三六〇キロ。
三隻の大和型戦艦から放たれた九発の零式通常弾は、三万三〇〇〇メートルの距離を飛翔した後、カムチャッカ半島の大地へと着弾した。
轟音と共に、爆炎が噴き上がる。
まるで、カムチャッカの火山が噴火したかのような光景であった。
三隻の大和型は、針路を四十五度に保ったまま射撃を続けていく。そのたびに、カムチャッカの大地は震え、夜空を焦がす炎を噴き上げていた。
これが、八月九日午前零時にソ連軍の侵攻が始まって以来、日本側が初めてソ連領内に対して行った反撃であった。
世界最大の戦艦の初陣としてはいささか地味ではあったが、それでも大和による砲撃は、ソ連に対する反撃の号砲となったといえよう。




