48 ソ連の対日作戦計画
同じころ、映画鑑賞中のスターリンに電話を掛けていた者がいた。
スターリンの長年の友人である、クリメント・ヴォロシーロフ元帥であった。彼はこの時、沿海州のハバロフスクの司令部にいた。
対日侵攻作戦の、総指揮を執るためである。
現地時間で一九四四年八月八日午後十一時過ぎ、ヴォロシーロフ元帥は対日侵攻作戦のすべての準備が整ったことを、スターリンに報告しようとしたのだ。
『同志ヴォロシーロフ、同志スターリンはただ今映画をご覧になっておられます。あと二、三十分後にお掛け直し下さい』
「うむ、ではそうさせてもらおう」
ヴォロシーロフもスターリンの映画好きはよく知っているので、特に驚くことなく電話を切った。
ハバロフスクの時計は、あと一時間と経たずに九日午前零時を差すことになる。
対日侵攻作戦は、総兵力一五〇万以上を以て行われる大作戦である。これだけの兵力をスターリンから任されていることを名誉に思うと同時に、ヴォロシーロフは重圧も感じていた。
そもそも、ヴォロシーロフは正規の将校教育を受けた軍人ではない。ロシア革命後の内戦で軍の指揮を執ったことはあるものの、ソ連邦元帥の地位にまで上り詰めた大きな要因は軍人としての功績よりもスターリンの友人としての立場であると言えた。
ヴォロシーロフはソ連邦元帥の称号を最初に得た五人の内の一人であったが、彼だけが正規の将校教育を受けていなかったのである(残りの四人はトハチェフスキー、ブジョンヌイ、ブリュヘル、エゴロフで、大粛清を生き残ったのはヴォロシーロフとブジョンヌイのみ)。
一九三九年に勃発したフィンランドとの戦争「冬戦争」ではヴォロシーロフは国防人民委員(国防相)の地位にあったが、赤軍の苦戦が原因でその地位を追われている(後任となったのが、現在の国防人民委員であるチモシェンコ)。
しかしその後も国防委員会議長という形でスターリンの側近として重用され続け、今回の対日侵攻作戦では極東軍総司令官に任じられていたのである。
そして、ヴォロシーロフの指揮する極東軍の編成は、次のようになっていた。
極東軍総司令官:クリメント・ヴォロシーロフ元帥
第一極東正面軍 司令官:アレクサンドル・ヴァシレフスキー上級大将
第一軍(六個狙撃師団)
第五軍(十二個狙撃師団)
第二十五軍(四個狙撃師団)
第三十五軍(三個狙撃師団)
第九航空軍
沿海州防空軍
正面軍直轄(四個狙撃師団、一個騎兵師団、一個機械化軍団)
第二極東正面軍 司令官:マクシム・プルカエフ上級大将
第二軍(三個狙撃師団)
第十五軍(三個狙撃師団)
第十六軍(一個狙撃師団)
第十航空軍
正面軍直轄(二個狙撃師団、カムチャッカ防衛地区隊)
ザバイカル正面軍 司令官:ロディオン・マリノフスキー上級大将
第十七軍(三個狙撃師団)
第三十六軍(七個狙撃師団)
第三十九軍(九個狙撃師団、一個戦車師団)
第五十三軍(七個狙撃師団)
第五戦車軍(一個戦車師団、二個機械化軍団、二個自動車化狙撃師団)
ソビエト・モンゴル騎兵機械化軍団
第十二航空軍
ザバイカル防空軍
正面軍直轄(二個狙撃師団、一個戦車師団)
兵員数一五七万、戦車・自走砲五五〇〇両、火砲二万六〇〇〇門、空軍機三八〇〇機という、強大な兵力であった(この他、太平洋艦隊や海軍航空隊などの海軍兵力が存在する)。
対する日本側の関東軍はソ連側の見積もりでは七十万程度と考えられていたから、ヴォロシーロフの手元にはその二倍以上の兵力が与えられているということになる。
もし日本軍に満洲国軍の兵力が加われば、二倍以上というソ連側の優位も多少は揺らぐかもしれないが、それでも一・五倍以上の兵力差は維持出来ると、国防人民委員のチモシェンコ、そして赤軍参謀総長であるジューコフは考えていた。
もちろん、攻守三倍の原則を考えればなお日本側が優位であるとも考えられたが、満洲国の長大な国境線すべてを守るには七十万という兵力では明らかに不足しているとソ連側は見ていた。
また、満ソ国境地帯には確かに山岳や森林、湿地帯などが存在して天然の要害を形成しているが、だからこそ日本側には油断もあるだろうというのがチモシェンコやジューコフの考えであった。
二人が対日侵攻作戦を策定するにあたって参考にしたのは、ドイツ第三帝国による西方電撃戦であった。
一九四〇年五月に開始されたドイツ軍によるフランス侵攻作戦は、フランス側が天然の要害と考えていたアルデンヌの森を機甲部隊で突破することによって奇襲的効果を発揮して成功を収めている。これをソ連軍は、満洲の地で再現しようとしたのだ。
まず、満洲西正面を担当するのは、ザバイカル正面軍であった。マリノフスキー上級大将に率いられたこの正面軍は、大興安嶺山脈の南端部である内モンゴル方面から満洲国の中枢である新京や奉天などの都市群を目指す。山岳地帯の突破には困難があると予想されたため、比較的なだらかな地形の続く内モンゴル方面からの突破が目指されたのである。
一方、第一極東正面軍が担当するのは、満洲国東正面であった。この地域には日本側に対ソ攻勢作戦を諦めさせた森林地帯が広がっているのであるが、ソ連軍は工兵を先頭にして森林を伐採しつつ進撃するという作戦を計画していた。ドイツ軍のアルデンヌ突破と同様の奇襲効果を狙っていたのである。
そして、第二極東正面軍については満洲国北東部から侵攻する作戦となっていた。また、第二極東正面軍は南樺太および千島列島の攻略も担当することとなっている。
全般の作戦方針では、関東軍の分断と包囲殲滅を目指す速度重視のものとなっている。
これは、将来の対独戦を見据えたスターリンの意向を受けてのものであった。
仮に関東軍の包囲殲滅に失敗すれば、日本側は満洲の地形的障害やその広大な満洲国領土を利用して、南部へと遅滞戦闘を開始するだろう。日本本土からの増援も、到着してしまうかもしれない。
そうなれば対日戦争は確実に長期化し、スターリンが危惧するヒトラーのソ連侵攻を許しかねない事態となる。
ソ連東方における日本の脅威を完全に排除して、万全の態勢でドイツと対峙するというのがスターリンの対外戦略である以上、赤軍がそれに従うのは当然であった。
だからこそ、ソ連はドイツの電撃戦に倣った対日侵攻計画を策定したのである。つまり、ドイツ軍がダンケルクで英軍を包囲殲滅したのと同様に、ソ連軍は満洲で日本軍を包囲殲滅することで日本を屈服させようとしていたのである。
そのため、ソ連軍は対日侵攻作戦における補給をも重視することになった。迅速な進撃を行うということは、補給部隊もまた前線部隊の進撃速度に合わせなくてはならない。このためソ連軍は、補給においては空輸作戦に重きを置いた。
空挺部隊を用いて満洲の要地や飛行場を確保し、そこに補給物資を積んだ輸送機を送り込むのである。
対日侵攻作戦はシベリア鉄道というか細い補給線に頼らざるを得ないものであるため、シベリア・極東地域にはあらかじめ大量の物資が集積されていた。
たとえ日本軍の空襲によってシベリア鉄道が破壊されるような事態となろうとも、作戦は継続可能であった。
作戦期間は、おおむね三ヶ月を予定している。
本格的な冬が訪れる前に、満洲全土の占領を成し遂げるという計画であったのだ。ドイツはフランスを一ヶ月で降伏に追い込み、そしてダンケルクで英軍四十万を包囲殲滅した。
その先例に倣い、そして満洲の地の広大さを考慮に入れれば、三ヶ月での対日戦勝利は十分に可能であると、ソ連は判断していたのだ。
そうした判断は、一九三九年のハルハ河戦争(日本側呼称、ノモンハン事件)でソ連側が優位に戦闘を進めた経験にも基づいたものであった。
ただ、ヴォロシーロフが一つだけ気がかりな部分があった。
それは、彼が体験した冬戦争での苦い経験に基づくものであった。
あの戦争から四年、ソ連赤軍はどこまで成長したのだろうか。ヴォロシーロフにはそれが疑問であった。
ソ連軍の中には、冬戦争でのフィンランド軍に比べればハルハ河戦争での日本の作戦指揮ははるかに稚拙であったと評価する者もいる(実際にハルハ河戦争を指揮したジューコフ将軍は、そこまで日本軍を侮っていないようであったが)。
かつてヴォロシーロフはスターリンに、冬戦争での戦争指導を痛罵された経験がある。その時には、思わず苦戦の原因はスターリンによる大粛清があったからだと怒鳴りつけてしまったものの、赤軍に対する粛清はその後も継続していた。
一時期ほどの大量粛清は収まっていたものの、日本軍のスパイとして極東方面軍司令官であったアパナセンコ上級大将が処刑され、冬戦争で活躍したメレツコフ上級大将もやはりNKVDの手によって粛清されている。
また、スターリンやその支持を受ける砲兵総監グレゴリー・クリークと砲の生産方針を巡って対立した兵器生産人民員ボリス・ヴァンニコフなど、ソ連の兵器生産に貢献していた人物たちも一九四〇年代初頭に次々と粛清されていた。
ヴォロシーロフ自身も大粛清に関わっていたので、彼自身にも赤軍弱体化の責任はあるのであるが、それでもやはり冬戦争での戦争指導経験から来る一抹の不安が、この古参ボリシェヴィキの将軍の胸の内にあったのである。
【スターリンを怒鳴りつけたヴォロシーロフ】
食事の席上、冬戦争における戦争指導をスターリンから痛罵されたヴォロシーロフは、「責任はすべて君自身にある。わが軍の有能な古参幹部を粛清したのは君ではないか。優秀な将軍たちを君が処刑してしまったのだ」と反論し、怒りのあまり皿をテーブルに叩き付けて粉々にしてしまったと言います。
(サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、染谷徹訳『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』上巻、白水社、2010年、584頁)
【スターリン、クリークとヴァンニコフの対立】
スターリンとクリークは第一次世界大戦やロシア内戦で活躍した一〇七ミリ榴弾砲の生産に集中し、その他の火砲の生産はすべて停止すべしと主張し、それに兵器生産人民委員のボリス・ヴァンニコフが反対して、最終的にヴァンニコフは「サボタージュ」容疑で逮捕されました。
史実では逮捕直後に独ソ戦が勃発したためヴァンニコフは釈放され、その後はソ連の原爆開発に携わります。
しかし、作中の世界線では独ソ戦が発生していませんので、そのまま粛清されてしまいました。




