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北溟のアナバシス  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第三章 日ソ開戦編

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46 開戦直後の閣議

 日本政府がソ連による対日宣戦布告を知ったのは、一九四四年八月九日の午前四時頃であった。

 ソ連のモスクワ放送とタス通信が、モロトフ外務人民委員が佐藤尚武駐ソ大使を招致し宣戦布告の文書を手渡した旨を発表したのを、外務省ラジオ室と同盟通信社川越受信所が捉えたのである。

 同盟通信社はただちに傍受したラジオ放送の内容を外相官邸に通報すると共に、満洲国通信社にも転電した。そして、満洲国通信社が関東軍司令部へと通報し、ようやく梅津総司令官以下関東軍首脳部は、ソ連が正式に対日宣戦布告をしたことを知ったのである。

 それを受け、満洲国全土に一斉にラジオ放送が発信された。


「三時三十分関東軍発表。ソ連軍は零時十六分より不法にも我が方に対し東部正面において地上攻撃を開始すると共に各少数機をもって満内要地爆撃を開始せり。モロトフ外務人民委員は、佐藤大使を招致し、日本と戦争状態に入った旨、通告せり。日本時間九日午前四時」






 一方、東京では九日午前十時から閣僚たちが首相官邸に集まって臨時の閣議を開始していた。


「吉田外相、これはいったい、どういうことですか?」


 険しい顔で外相の吉田茂に詰め寄っていたのは、陸相の東條英機であった。


「外務省から陸軍に対して、ソ連が宣戦布告してきたという報告は今に至るまで受けていない。これは外務省側の怠慢ではないのですか?」


「私もモスクワの大使館から何も報告を受けていないのだから、仕方がない」


 陸相から詰め寄られた吉田は、不愉快そうに葉巻をふかしていた。


「モスクワの佐藤大使からは未だ何もない。こちらからの通信も繋がらない。私もソ連のラジオ放送で、初めて宣戦布告を知ったのだ。ソ連の大使館にも問い合わせたが、“本国に確認する”の一点張りだ」


「馬鹿な。ソ連の放送では、モロトフ外相は佐藤大使に宣戦布告の文書を渡したと発表しているのですぞ」


「要するに、ソ連側がモスクワの大使館からの通信を妨害したのだろう」


 海相の堀悌吉が、そう言った。


「モスクワからの通信は、すべてモスクワの電信局を通してソ連当局による統制を受けている。つまりソ連は、宣戦布告なしに攻撃を仕掛けたという汚名を着ることなく、我が国に奇襲攻撃を仕掛けることが出来るというわけです」


「何とも、アカどものやりそうなことですな。外交特権も何も、あったものではない」


 吉田が吐き捨てるように言う。

 確かに、ソ連は正式に宣戦布告を行った上で対日攻撃に踏み切っている。この点だけを切り取ってみれば、ソ連はハーグ開戦条約に違反していない(ソ連はロシア帝国時代の一九〇九年に開戦条約に批准している)。

 しかし、外交特権の一部である通信の不可侵という国際慣習に、明確に違反しているのである(ただし、実際に外交特権が国際法として明文化されるのは、一九六一年のウィーン条約を待たなければならない)。


「かくなる上は、ソ連による侵攻に立ち向かうしかあるまい」


 山梨勝之進首相が、宣言するように言った。

 このまま宣戦布告の正統性の問題を外相・陸相・海相の間で論じていても、現にソ連の侵攻が始まってしまっている以上、時間の浪費でしかない。

 宣戦布告に関するソ連の不当性は後ほど内外に喧伝するとして、今は戦時体制への移行を急がなくてはならなかった。


「まずは陛下に開戦に関する詔書を渙発していただき、帝国軍民の奮起を促していただかねばなるまい。その上で、英国や米国に対し、日ソ講和のための外交的斡旋を依頼するのだ」


 山梨は、そう政府としての方針を示す。


「しかし、日ソ講和と言いましても、向こうが侵略の意思を示してきている以上、すぐにソ連側が応じるとは思えませんな」


 だが、外相である吉田は開戦当初の段階での日ソ講和構想に懐疑的であった。


「左様。陸軍といたしましても、ソ連軍に対し痛撃を与えない限り、講和の実現は困難であると考えます」


 東條英機も、吉田茂の意見に同意する。


「だとしても、今の段階で対米、対英工作をすることの意味はあろう」


 そう言ったのは、堀悌吉であった。


「特に米国に対しては、我が国に対して好意的中立を維持してもらわねばならない。ルーズベルト政権がソ連に宥和的姿勢をとっている以上、今次戦争においてソ連を支援するような態度に出ることは断乎として阻止しなければなりません」


 アメリカの中立法は第二次欧州大戦期の改正によって、戦争当事国であっても自前の輸送船を用いれば米国から軍需物資を輸入することが可能となっている。

 当然、日本だけでなくソ連も、自国の船舶を用いれば戦時中であってもアメリカからの軍需物資の輸入が可能なのだ。ここでさらにルーズベルト政権がソ連に借款供与を行い、自国からの軍需物資の買い付けを促進させるような措置をとらないとも限らない。

 実際、第二次欧州大戦時には、ルーズベルト政権内で“レンドリース法”なる法案が検討されたと言われている。

 イギリスからの情報によれば、レンドリース法以前、アメリカはイギリス政府に対してカリブ海などの大西洋西岸の英軍事基地の租借権と引き換えに旧式駆逐艦五〇隻を提供することを持ちかけたことがあるという。いわゆる“駆逐艦・基地交換協定”と呼ばれるこの協定案は、英米間で合意に達する以前に第二次欧州大戦が終結してしまったために実現しなかった。

 しかし堀は、現在のルーズベルト政権のソ連に対する宥和的な姿勢から、こうした“駆逐艦・基地交換協定”や“レンドリース法”などの措置を取らないかと警戒していたのである。

 こうした協定や法とは関係なく、すでにアメリカは旧式艦艇の一部をソ連に売却していた。

 そうしたことがルーズベルト政権の政策としてさらに拡大されれば、アメリカとの戦争状態に至らずとも事実上、日本は米ソと戦うに等しいことになってしまう。

 だからこそ、日ソ戦争においてアメリカが日本側に対して好意的な中立を保ってくれることは重要であった。


「あとは、今年は大統領選挙の年ですからな。ルーズベルト大統領の対立候補との繋がりも、太くしておいた方がいいでしょう」


 堀の発言に、吉田が付け加える。吉田としては日ソ講和構想には懐疑的でありつつも、英米の態度を日本側に有利なものにしておく必要性については認めているようであった。

 現在、八月となったのでアメリカ合衆国では十一月の大統領選挙に備えた民主党・共和党の党大会が実施されようとしている。すでに各党とも候補者を一本化するための予備選挙を終わらせ、民主党は現大統領であるルーズベルトを、共和党はニューヨーク州知事のトマス・E・デューイを、それぞれ候補者として指名していた。


「イギリスに関しては、すでに満洲国への多額の投資をしておりますから、まあ、今次戦争に対する好意的な対応は引き出せるでしょう。ただ問題は、欧州情勢次第という部分が大きいことですが」


 吉田の欧州情勢次第という言葉に、山梨や堀、東條は険しい表情を浮かべる。

 第二次欧州大戦が実質的なイギリスの敗北に終わったとはいえ、ドイツによって英本土が占領されてしまったわけではない。

 一九四〇年七月の英独講和後も、両国は対立を続けているのだ。

 イギリスは、欧州大陸に自国に敵対的な勢力が存在することを良しとしない。

 そして欧州大陸を征服し海軍力を増強させつつあるドイツ第三帝国にとっても、海軍力の健在なイギリスは自国の大西洋進出の障害となる国家でもあった。

 独ソ間では東欧の分割を巡って依然として軋轢があるといわれているが、少なくともドイツのヒトラー総統は、演説などを分析する限りではイギリスの打倒を第一に考えているようである。

 仮に英独が再び開戦すれば、イギリスが日本を政治的・外交的・軍事的に支援することは困難となるだろう。

 確かに、独ソ開戦の噂はあるもののソ連があえて東方に兵力を集中させて対日戦に踏み切ったということは、かつての独ソ不可侵条約における東欧分割のように、ヒトラーとスターリンとの間でまた何らかの密約が交されている可能性も考えられた。

 イギリス打倒後における中東分割など、可能性はいくつも挙げられる。

 そう考えれば、かつての日露戦争と違い、日本は一切、他国からの支援・後援を受けることなくソ連と対峙し、場合によってはドイツ第三帝国からも自国の中東権益を守り抜かねばならなくなるかもしれないのである。

 この先、国際情勢がどう変転するのかは誰にも判らない。

 しかし、この戦いが厳しいものとなるであろうことは、この場に集まった誰もが覚悟せざるを得なかったのである。

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