44 紫電改の剣
ソ連の爆撃機編隊に真っ先に襲いかかったのは、戦闘三〇一飛行隊であった。
「我、菅野一番、突撃す!」
そう無線に叫んだのは、戦闘三〇一隊長・菅野直大尉である。操縦席の中で歯を剥いた獰猛な笑みを浮かべて、彼は僚機を引き連れ急降下を開始した。
発動機のスロットルを、一杯にまで開く。
二〇〇〇馬力級発動機である誉が、吠えるように轟音を上げる。
帝国海軍の最新鋭局地戦闘機である紫電改の最高速度は、時速六五三キロにも達する。それが急降下を掛けたのだから、菅野機の速度は瞬く間に時速七〇〇キロを超えた。
ぐっと操縦席の背もたれに体が押し付けられるような圧迫に耐えながら、菅野は敵編隊の姿を見据える。
敵編隊の数は、明らかにこちらよりも多い。ざっと、二倍か三倍はいるだろう。
だが、菅野は怯まなかった。
自分たちは、日本がその勢力圏内に持つ最大の油田の防空を任されるべく、猛訓練を潜り抜けてきた者たちである。その自信と彼の激しい闘魂が、心に怯懦が生まれる隙を与えない。
風防から見える敵の爆撃機と戦闘機の影は、どんどん大きくなっていく。
菅野が真っ先に目標にしたのは、敵の護衛戦闘機であった。こいつらを平らげてしまえば、残りの爆撃機はどうとでも始末出来る。
それに、自分たちの背後には同じく北満油田防空を担う第三八一航空隊が控えているのだ。連中の仕事を少しでも減らしてやろうと、菅野は機銃の発射レバーに手を掛ける。
敵編隊は、こちらが急降下を仕掛けた段階でようやく紫電改の存在に気付いたらしい。背後上空からの銃撃を避けるべく、機体を左右に横転させ始める。
だが、降下速度七〇〇キロを超えている紫電改にとって、その行動は遅すぎた。
四式射爆照準器の環の中に、菅野は目標とした敵機を正確に捉えた。発射レバーを、静かに絞る。
その瞬間、両翼に搭載された四門の二十ミリ機銃が火を噴く。発射炎がほとばしり、四本の火箭が横転を行おうとした敵機の胴体に命中した。
途端、敵機から部品らしき物体が飛び散り、被弾箇所から炎が噴き出した。そのまま、そのソ連軍戦闘機は錐揉み状態となって満洲の大地へと落ちていく。
菅野だけでなく、彼の率いる戦闘三〇一飛行隊は上空からの一撃離脱戦法で多数の敵機を仕留めることに成功していた。
ある敵機は翼をもぎ取られ、別の敵機は操縦席を二十ミリ機銃弾に直撃され、さらに別の機体は発動機を撃ち抜かれていた。
被弾して漏れ出した燃料が発火し、機体全体が炎に包まれながら墜落していく敵機の姿もある。
二十ミリ機銃四門という紫電改の重武装が、その戦果を可能としていた。
紫電改の装備する九九式二十粍機銃二号四型は、砲口初速七五〇メートル毎秒で機銃弾を撃ち出し、命中精度と貫通力に優れた機銃である。唯一の欠点は射撃速度が毎分四八〇発とやや遅いことであったが、それでも四門の二十ミリ機銃を装備する紫電改の火力は強力であった。
菅野は先ほどの敵機の最期を確認することなく、即座に操縦桿を引いた。
七〇〇キロ超の速度で降下していた機体が、今度は上昇を開始しようとして菅野の体に強烈な遠心力をかける。自動空戦フラップが作動し、紫電改は急上昇へと転じた。
降下によって得た加速を活かして、再び敵機よりも高い位置を占めようとしているのだ。
この時期にしては貴重な満洲の蒼穹が、再び菅野の眼前に現れる。
菅野がちらりとバックミラーを確認すれば、僚機である清水俊信一飛曹機はしっかりと自身の後に付いてきていた。
菅野は風防の外を確認し、瞬時に彼我の状況を把握する。
ソ連軍機の大編隊は、すでに崩れていた。
Tu-2を守るべく、護衛のYak-9DDの一部が紫電改隊に応戦しようとしている。Tu-2自身は、なおも北満油田の爆撃を敢行しようと速度を上げて南下を続けていた。
無線電話からは、総指揮官である鴛淵隊長から敵戦闘機の排除を優先して構わないとの指示が流れていた。鴛淵隊長もまた、自分たち三四三空がここで敵戦闘機を排除し、残る敵爆撃機の対処は三八一空に任せるつもりなのだろう。
だから菅野は、遠慮なく次の目標を見定めた。
先制攻撃を仕掛けた自分たちの優位が失われない内に、一機でも多くの敵を墜とすつもりであった。時間が経てば、ソ連軍搭乗員も動揺から立ち直り、態勢を立て直そうとするだろう。
菅野は素早く一機のYak-9DDに目を付けた。
その敵機は、急降下から急上昇へと転じようとする紫電改の間隙を狙おうとしている様子であった。こうした立ち直りの早い敵搭乗員は、早めに始末しておきたい。
急降下から一転して急上昇をかけた菅野機であったが、まだ速度は六〇〇キロを超えていた。即座に、標的とした敵機に接近する。
Yak-9のD系統の機体の最高速度は、時速五九一キロ。
最高速度六五三キロを誇る紫電改は、ソ連軍戦闘機に対して六〇キロ以上も優速だった。
敵機は菅野機の存在に気付いたらしい。咄嗟に機体を半横転させて照準から逃れようとする。
だが、紫電改の速度と菅野の戦闘機乗りとしての技量は、そのYak-9DDを逃さない。自重四トンを超える紫電改は一撃離脱戦法に優れた機体であったが、自動空戦フラップによって格闘戦をも行えるほどの優秀な操縦性能を誇っている。
数瞬で距離を詰めた菅野は、敵機を過たず照準器の中に収めた。液冷発動機を搭載する機体特有の、尖った機首を持つ敵戦闘機。
再び、二十ミリ機銃の発射レバーを絞る。
操縦桿に伝わる反動とともに、太い火箭が敵機の翼に吸い込まれ根本から吹き飛ばした。
『菅野隊長! 後方より敵機です!』
と、僚機である清水一飛曹からの警告が飛ぶ。
菅野は即座に操縦桿を倒し、フットバーを踏み込んだ。紫電改の機体が、素早く横転する。バックミラーを確認すれば、別のYak-9DDが背後から迫ろうとしているところであった。
清水一飛曹は僚機として、長機の背後を警戒するという役目を忠実に果たしたのであった。
菅野は横転した機体を捻り、旋回させる。風防の上部から、先程まで自機のいた空間を飛び去っていく敵戦闘機が見えた。
横方向に旋回した菅野の紫電改は、その敵機の背後に出る。菅野機に追従している清水機は、はぐれることなく背後を守っていた。
だが、菅野はそのYak-9DDを追撃することを諦めた。別の敵機が、さらに菅野機と清水機に迫っていたからだ。
目の前の敵機にだけ意識を囚われていると、即座に命取りとなるのが空戦というものだ。二人は、それを十分に理解していた。
菅野は、即座にその場から離脱する。直後、菅野機の存在していた空間を二列の曳光弾が引き裂いた。
Yak-9DDは二十ミリ機銃一門、十二・七ミリ機銃一門を搭載している。速力・火力では紫電改が圧倒し、防弾装備もそれなりにあるとはいえ、やはり直撃を受ければ危うい。
すでに三四三空の先制攻撃による優位はなくなっており、北満の空は日ソの航空機が入り乱れる激しい空戦の場と化していた。
誉発動機とクリーモフM105エンジンの轟音が交錯し、紫電改の四本の火箭とYak-9DDの二本の火箭が入り乱れている。
菅野はそのような混戦の中で紫電改を果敢に、そして巧みに駆った。
目敏く獲物を発見しては襲いかかり、逆に敵機に迫られれば素早くその照準を躱した。操縦桿を前後左右にせわしなく動かし、左右のフットバーも旋回方向に合せて踏み込む。
両翼の二十ミリ機銃が火を噴き、翼下から空薬莢が虚空へと吐き出される。火箭の直撃を受けたYak-9DDが黒煙を引いて墜ちていき、満洲の大地へと吸い込まれていく。
彼我の機体が入り乱れる中を、菅野の紫電改は縦横無尽に駆け抜けていった。
この日、彼ら三四三空「剣部隊」と、その後方で爆撃機を待ち構えていた三八一空は、北満油田に来襲したソ連軍機一三〇機以上(戦闘機八十機以上、爆撃機五十機以上)の撃墜を報じている。
来襲したソ連軍機の内、北満油田にまで辿り着けたのは三十機ほどであったという。
結果、北満油田周辺地域には二十トン近い爆弾が降り注いだものの、地上からの対空砲火による妨害もあり、ほとんどが油田施設から外れたことで北満油田の産油・製油能力が損なわれることはなかった。
戦後の調査などで実際にはソ連側はYak-9DD三十七機、Tu-2二十九機を空戦で失ったことが判明しているので(その他、不時着や修理不能と判断されて失われた機体も多数)、紫電改搭乗員たちの報告した戦果は過大ではあったものの、彼らは与えられた任務を十全に果たしたのである。




