43 北満油田防空戦
八月九日より始まったソ連軍の空襲は、夜が明けるに従って本格化していった。
特に満洲西部の海拉爾、東部の牡丹江は激しい爆撃に晒されることとなった。この両都市は旧中東鉄道沿線に存在し、ここの鉄道を奪取すれば哈爾浜への道が開かれることになる。
海拉爾も牡丹江も、北満における東西の要衝だったのだ。
そして、大日本帝国が北満において最も重要視していた場所が、哈爾浜と斉斉哈爾の中間に位置する北満油田であった。
一九三八年の油田発見以来、北満油田は関連施設を拡張し続けていた。
北満油田は重油成分が多くガソリンとして取り出せる量が限られているとはいえ、パラフィン基原油のため満洲の重工業化を目指した満洲産業開発五ヶ年計画やその後の第二次五ヶ年計画で存在感を確立していた。
北満油田は、機械を稼働させるのに欠かせない潤滑油を満洲全土に提供したのである。
そして、量は少なく質は悪いながらも戦車、自動車用燃料としては利用出来たので、北満油田から産出される燃料は平時の訓練や自動車による交通網の確立に欠かせない存在となりつつあった。
発見から六年、徐々に生産量が拡大し製油施設も拡張されていく中で、日ソ開戦を迎えたのである。
そんな北満油田を防衛するために海軍が創設したのが哈爾浜特別陸戦隊であり、また対ソ戦の際に油田を防空する役目を担わされたのが第三四三航空隊(通称「剣部隊」)や第三八一航空隊といった局地戦闘機部隊であった。
日付が九日に変わった直後、北部国境の街・黒河の見張所から国籍不明機多数が越境したとの報告が入ると、哈爾浜近郊にある綏化、拉林の飛行場では即座に未明の出撃に備え整備員たちが機体に取り付いた。
海軍第三四三空と三八一空が装備する主要な戦闘機は、局地戦闘機「紫電改」であった。この他に、陸軍の疾風も哈爾浜と北満油田防空のために綏化、拉林に展開している。
まず滑走路から飛び立ったのは、三四三空の夜間戦闘機「月光」であった。
時刻は、九日〇四〇〇時。
このとき飛行場を発進した月光は、機上電探である空二号電波探信儀(玉3号)を搭載した機体であった。三四三空では偵察部隊として偵察第四飛行隊が編成されており、機上電探搭載の月光は夜間戦闘機というよりも敵編隊の早期発見のための哨戒飛行用に配備されていた機体であった。
この他、偵察第四飛行隊は艦上偵察機「彩雲」を装備している。
飛行場を飛び立った月光は、まず哈爾浜の鉄道操車場を爆撃したソ連軍爆撃機を捕捉したのであるが、これは爆撃を終えて帰投しようとする機体であった。
九日へと日付が変わった直後に実施されたソ連軍の満州各地への奇襲的な空襲は、哈爾浜でも行われていたのである。
三四三空司令・源田実大佐は明け方にさらなる空襲があると判断し、上空の月光に対しさらなる哨戒飛行を続けるように命じた。
また、源田司令は満洲北部に設置された陸上電探基地などとの連絡をとり、ソ連軍機の侵入状況を即座に把握出来るよう体制を整えた。
一九四四年現在、大日本帝国は電探や見張所からの情報を集約して敵爆撃機に対する迎撃を管制する体制を構築することに成功していたのである。
もともと、ソ連による沿海州からの本土空襲を恐れていた陸軍は敵爆撃機に対する迎撃体制の構築に熱心であり、電探開発も対空警戒用のものを優先していたほどであった。一九四一年に陸海軍技術運用委員会が設置されると、海軍も陸軍の電探を用いた迎撃体制構想に興味を抱き、陸海軍合同での迎撃管制体制の実用化が加速されることとなった。
海軍は、迎撃管制が艦隊の防空体制の構築にも応用出来ると気付いたのである。
さらに源田自身は一九四〇年、駐英大使館付海軍武官補として一時、イギリスに滞在していたことがあった。その際、イギリス側が英仏海峡沿いに構築したレーダー監視システムを視察。
英独間の航空決戦が本格化する前に第二次欧州大戦が終結してしまったため、イギリスの構築したレーダー網とそれによる迎撃システムの真価を見ることは叶わなかったが、源田はイギリスの戦訓などを日本に持ち帰ることに成功していた。
こうした情報が、日本における電探を用いた防空体制の構築促進に繋がったのである。
ある意味で源田はこの日、自らも構築に携わった防空体制を、自らの手で試そうとしていたといえよう。
満洲北部の監視哨や電探基地、そして上空で哨戒に当たっていた月光が敵爆撃機と思しき大編隊を捉えたのは、〇六五〇時のことであった。
その数、およそ二〇〇機。
源田は即座に、麾下の紫電改隊に対し全機発進を命じた。
戦闘三〇一飛行隊長の菅野直大尉、戦闘四〇一飛行隊長の林喜重大尉、そしてその二人を率いる戦闘七〇一飛行隊長の鴛淵孝大尉、帝国海軍が誇る精鋭戦闘機乗りたちで構成された航空隊が、満洲の空へと飛び上がっていった。
◇◇◇
三四三空の三個戦闘飛行隊は、各隊三十六機および補用十二機の計四十八機を定数としている。つまり、合計で一四四機の紫電改が三四三空の保有すべき機数であった。
しかし、紫電改の生産数の問題から現状では各隊ともに定数を満たしていないかった。
このとき、三四三空が発進させることが出来た紫電改の数は七十二機であった。その内、三機が発動機の不調や主脚が引き込まなかったといった理由で飛行場に引き返している。
紫電改搭乗員たちは、上昇を続けつつカウルフラップを全開し、プロペラピッチを「低」、OPL照準器を点灯、自動空戦フラップレバーを「空戦」にするなど、各種操作を行って空戦の準備を整えていく。
三式空一型無線電話機からは、地上の指揮所が電探監視哨、哨戒に出ている月光、その他各所から集められた情報が流れていた。
その情報に基づいて、総指揮官である鴛淵大尉が各戦闘飛行隊を敵編隊と遭遇出来る針路へと誘導していった。
帝国海軍の最新鋭局地戦闘機は、見事な編隊を組みつつ誉発動機の轟音を響かせていく。目指すのは、敵編隊よりも高い高度である。
彼らは皆、編隊空戦の技術を叩き込まれていた。四機で区隊を編成し、一番機と三番機、二番機と四番機がそれぞれ一組となって空戦を行うのである。
鴛淵は、紫電改隊を昇り始めた太陽を背にするように編隊を導いていく。
「敵機発見!」
やがて、眼下にごま粒のような敵機の影が見えてきた。鴛淵は無線電話を通して各機に報せる。
彼の率いている三四三空の紫電改隊は、敵編隊より高い高度を取っている。鴛淵はさらに、敵編隊の後方に回り込むように慎重に操縦桿を操った。
さっと背後を確認すれば、依然として六十八機の紫電改は一糸乱れぬ編隊を組みながら総指揮官機に付いてきている。
鴛淵は、自分たちが十分に優位な位置を占めたと確信した瞬間、無線電話に叫んだ。
「全機、突撃せよ!」
刹那、彼自身もまた操縦桿を倒していた。
この時、黒河方面から南下を続けていたのは、ソ連空軍(厳密な呼称は「赤色空軍」)のTu-2爆撃機を中心とする編隊であった。
Tu-2は、最高速度時速五四七キロ、最大爆弾搭載量三〇〇〇キロ、航続距離二一〇〇キロという、双発爆撃機である。
堅牢な設計で防御力も高いこの双発爆撃機は、ソ連の主力爆撃機の一つであった。ソ連には四発爆撃機であるペトリャコフPe-8という機体が存在していたが、こちらは航続距離三七〇〇キロとこの時期のソ連軍爆撃機中最大の航続距離を誇っていたものの、最高速度が時速四四三キロと低い上に発動機の信頼性も低く、主力の座を占めるには至っていなかった。
ペトリャコフPe-8は満ソ国境から離れている新京夜間爆撃に投入された程度で、北満油田爆撃には参加していない。
北満油田爆撃作戦に参加したのはTu-2およびソ連軍主力戦闘機Yak-9の長距離護衛戦闘機型であるYak-9DDであった。
これら二〇〇機近い編隊に、三四三空は挑みかかったのである。




