36 クレムリンの赤い皇帝
ソビエト社会主義共和国連邦の首都モスクワを流れるモスクワ川に面して、その建物は存在していた。
クレムリン。
正面に赤の広場が存在する、帝政ロシア時代の宮殿とそれに付随する城壁や大聖堂によって構成された、ソビエト連邦の国家中枢であった。
クレムリンとは、「城塞」を意味する言葉である。モスクワは、ピョートル大帝が自らと同じ名の聖人にあやかってペテルブルクと名付けた都市に遷都するまでロシアの中心都市であった。この都市がかつての地位を取り戻したのは、二〇世紀に入ってからである。ウラジーミル・レーニンと名乗る一人の革命家が、帝政とはまた違った形態の専制政治体制を確立した後のことであった。
そして、ロシアの地を統べる主が変わったことを象徴するかのように、クレムリンの塔の上にはロマノフ朝を象徴する双頭の鷲ではなく、共産主義を象徴する赤い星がその存在を主張していた。
現在、クレムリン宮殿の主となっている人物の名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシュヴィリという。後世に至るまで、レーニンと同じく筆名であるヨシフ・スターリンの方が人口に膾炙しているグルジア人の男である。
一九四四年六月、世界初の社会主義国家を統べるこの赤い皇帝は、クレムリン宮殿の執務室で自らの廷臣たちからの報告を受けていた。
「シベリア・極東地域への物資の集積は、概ね七月までには完了する見込みです」
まず報告したのは、国防人民委員セミョーン・チモシェンコ元帥であった。国防人民委員とは、ソ連における国防相に相当する地位である。
「また、ソヴィエツカヤ・ガヴァニ―コムソモリスク・ナ・アムーレ間の鉄道も開通し、これによりサハリン方面への兵員・物資の輸送も格段に容易となりましょう」
「日本側の動向はどうか?」
「依然として、我が国との緊張緩和を模索しているようですな」
スターリンの問いに答えたのは、内務人民委員(NKVD)ラヴレンチー・ベリヤであった。眼鏡の奥で妖しく瞳を輝かせるこの男は、ソ連における秘密警察の長官である。また、各国に設置した在外公館に諜報員を派遣して、ソ連の対外諜報網の一翼を担う人物でもあった。
「どうやら日本政府は、ソ日中立条約を我が国が来年まで遵守するのか、あるいはさらに五年間の延長を望むのか、知りたがっているとのこと」
「それは我が国にとって好都合であるな」スターリンは満足げに頷いた。「日本人どもの意識は、依然としてアメリカに向いているというわけか。同志モロトフ」
「はっ、同志スターリン」
外務人民委員(外相)のモロトフが応じる。
「決して日本側に我々の意図を悟らせるな。適当に、日本の外交官たちをあやしておけ」
「承知いたしました、同志スターリン」
「また、アメリカを決して日本側の陣営に付けぬよう、外交努力を続けよ」
「ルーズベルト政権は我がソ連に好意的であり、同志のご懸念には及ばぬものと存じます」
「それは結構。であるならば同志ベリヤ」
スターリンは鋭い口調で秘密警察長官の名を呼ぶ。
「はっ」
「今年十一月の大統領選挙では、是が非でもルーズベルト大統領には勝利してもらわねばなるまいな」
「承知いたしました。選挙戦がルーズベルト大統領に有利に働くよう、工作を行います」
「うむ、それでよろしい」
スターリンはベリヤに重々しく頷いて見せた。そして、執務室の全員を見回して口を開く。
「かつてのツァーリと同じ轍を、我々は踏むわけには行かぬ。日本の孤立化とアメリカの取り込み、これは我が国がかつての戦争で日本に奪われた土地を奪還するための戦争において、必ず達成しなければならないものなのだ」
スターリンは険しい口調でそう言った。かつて日露戦争では、アメリカは日本の戦費調達に協力している。
「承知しております、同志スターリン」
モロトフが慇懃に答えるのを確認して、スターリンはチモシェンコ元帥に視線を向けた。
「同志チモシェンコ」
「はっ、同志スターリン」
「先ほど同志は、七月までに物資の集積を完了すると報告していたな?」
「その通りであります、同志スターリン」
「では、八月には対日戦争の準備が完了すると見てよいな?」
「はい、その通りであります。同志スターリン」
いよいよ対日戦争が実行されるというスターリンの意思が示され、執務室には緊張した空気が走る。
それは、戦争そのものへの緊張というよりも、戦争が当初の作戦通りに進まなかった場合にこの赤い独裁者がどのような反応を示すのかという点についての、緊張であった。
スターリンが対日戦争への決断をいつ決めたのか、側近たちにもよく判らない部分があった。しかし、スターリンも含めたソ連首脳部が日本からの攻撃を恐れていたことは事実である。
その要因は、満洲事変にあった。
一九三一年の満洲事変とその後の満洲国の建国によって日本の勢力が北満にまで及ぶと、ソ連は極東の防衛体制を急いで構築する必要に迫られた。北満という緩衝地帯が、消滅してしまったからである。
極東防衛のために極東軍の増強に加え、特別集団農場軍団という名でシベリア・極東地域に大量の入植者を送り込んでいる。また、シベリア鉄道の複線化、第二シベリア鉄道(バム鉄道)の敷設、コムソモリスク・ナ・アムーレという新都市の建設など、シベリア・極東地域における輸送・生産能力の向上、有事の際の予備兵力の増強のための政策を急速に進めていた。
赤軍参謀本部情報総局(GRU)やNKVDからの報告を元にしたソ連首脳部の対日認識は、日本は一貫して対ソ攻撃を目論んでいるというものであった。こうした対日認識は、一九三四年の日英不可侵条約、そしてその後の満洲国における日英経済提携の進展などによってより一層、強化されていった。
つまり、日本は日露戦争と同じように英国と手を組みソ連侵攻を目論んでいる、というものである。
一九四一年、日本の特別高等警察によって検挙されたソ連諜報員リヒャルト・ゾルゲなどは日本が対ソ戦に踏み切る可能性は低いと報告していたのだが、それを信じる者はソ連首脳部にはいなかった(そもそも、ゾルゲはドイツ人ということで日本側から警戒されており、そうしたゾルゲを取り巻く状況がより彼からの報告をソ連側が軽視する要因となった)。
日英不可侵条約は、新たな日英同盟の萌芽的存在とソ連は見做していたのである。イギリスの現首相であるチャーチルが反共主義者であり、日英同盟を目論んでいるとなれば、なおさらであった。
この不可侵条約は十年の期限を迎える一年前である昨四三年、さらなる五年間の延長が日英間で合意されている。つまり、日英不可侵条約は一九四九年まで有効となったのである。
こうした日本の外交的な動きが、さらにソ連の警戒心を呼び起こしていた。
特にスターリンの中で、日英不可侵条約の更新は日本のソ連攻撃の前触れではないかという猜疑心が膨れ上がっていたのである。
それと同時に、彼の心の中では一種の焦りが存在していた。
それは、ソ連西方に存在するドイツの存在である。現在、ソ独間には十年期限の不可侵条約が結ばれている。条約が締結されたのが一九三九年であるから、四九年までは有効であった。
一方、一九四一年に締結された日ソ中立条約の期限は五年間。こちらは、四六年に期限を迎えることになる。
もともと、スターリンが日ソ中立条約を締結する決断を下したのは、ドイツを警戒していたからである。
一九四一年といえばそれまで日本海軍が固執していた艦艇保有比率対米七割を維持出来なくなる時期と重なっていたから、日本側もアメリカに対する警戒心から北方の安全確保に神経質になっていたようである。
こうしてスターリンは、自国と日本の利害は一致していると見て、条約の締結に踏み切ったのである。
少なくとも、四一年時点では、スターリンの目はドイツに向けられていた。
西ヨーロッパを制覇し実質的にイギリスを降したヒトラーの目がソ連に向けられないか、この赤い独裁者は懸念を抱いていたのである。イギリスとの戦争が依然として続いているのであれば、ヒトラーは対英戦に集中しなければならないとして、スターリンも楽観視することが出来ただろう。
しかし、ドイツが第二次欧州大戦に勝利してしまったために、スターリンは日独に東西から挟撃されるという悪夢に苛まれることとなったのである。
ヒトラーがダンケルク殲滅戦で消耗した陸軍を再編次第、ソ連に攻め込むのではないかとスターリンは恐れた。だからこそ、日ソ中立条約を結び、せめて東方の安全だけは確保しようとしたのである。
だが意外なことに、ヒトラーはソ連に侵攻する意図はないようであった。確かにソ連とドイツの間では東欧の分割問題を抱え依然として外交的な軋轢が存在しているものの、どうやらヒトラーの目は引き続きイギリスに向いているらしい。
ダンケルクでイギリス陸軍四十万を殲滅したとはいえ、ドイツはイギリス海軍まで壊滅させたわけではない。
ドイツは第一次世界大戦でイギリスの海上封鎖を受け、深刻な食糧不足に陥った経験がある。それを、ヒトラーは恐れていると考えられた。
依然としてドイツは穀物の輸入をソ連などに頼っている現状から考えると、ヒトラーの目がソ連に向くのは英海軍を打倒してからであると、スターリンは判断するようになった。
だからこそなおさら、日本に対する警戒心は強まっていた。
独ソ不可侵条約は一九四九年に期限を迎え、日ソ中立条約は四六年に期限を迎える。
スターリンは、ソ連とドイツが衝突するのは独ソ不可侵条約の期限が切れる一年前あたりが危ないのではないかと考えていた。この赤い皇帝は、そこまでヒトラーを信用していない。
そして、仮に日ソ中立条約の期限が満了するとともに対日開戦をして東方の脅威を取り除こうとした場合、対日戦で消耗した陸軍の再編と西部国境への兵力移動、物資の集積が一九四八年に間に合わない可能性があった。
だからこそ、スターリンは焦燥を募らせることになった。
最新鋭戦艦ソヴィエツキー・ソユーズ、ソビエツカヤ・ウクライナの極東回航は、そうしたスターリンの対独楽観論、対日警戒論の現れであった(そもそもソヴィエツキー・ソユーズ型はソ連における海軍拡張計画の中で、太平洋艦隊に配備することを前提とした「A」分類で計画・建造された艦である)。
しかし当然、猜疑心の強いスターリンは日本に対して軍事的圧力を加えるだけでは満足出来なかった。東方の脅威を、徹底的に取り除く必要があると考えたのである。
日本が依然としてソ連侵攻を企んでいるというスターリンの認識は変わっていなかったが、少なくとも現状の日本はアメリカ海軍の増強という要因によって一時的にアメリカの方を向いていると判断していた。
日ソ中立条約について日本側がしきりに確認を求めてくるのも、日米関係の緊張かが続き、ソ連と対決するだけの条件が整っていないからだとスターリンは考えていたのである。
この好機を、スターリンは逃したくなかった。
一九四三年九月、彼は明確な形で赤軍参謀総長ゲオルギー・ジューコフ元帥に対して、一年以内の対日開戦を検討するように命じたのである。
そして今、ソ連の対日開戦の準備は着々と整いつつある。
日露戦争で奪われた領土、失われた不凍港の利権、そして満洲国建国によって手放さざるを得なかった中東鉄道、それら日本によって奪われたとスターリンが感じているものすべてを取り戻し、東方の脅威を取り除くことこそが、対日戦争の目的であった。
日本との中立条約など、彼は最初から遵守する気がなかった。それどころか、北樺太油田の返還交渉を引き伸ばしていた日本の方こそ、中立条約を守る気がないのだと考えていた。
「同志諸君、今年はちょうど四十年前にこの母なるロシアが東洋の蛮族から受けた屈辱を晴らす、記念すべき年となるだろう。同志諸君らの一層の党と国家への献身を期待する」
「ダー! 同志!」
一同からの応えに、スターリンは満足げに頷くのだった。




