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北溟のアナバシス  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第二章 北方の赤い影編

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32 参謀本部の未練

 満洲における対ソ作戦構想を守勢・持久へと転換した陸軍ではあったが、だからといってシベリア・沿海州地域に対する攻勢作戦を完全に断念したかといえば、そうではない。

 満洲での持久作戦は確かに侵攻するソ連軍の兵力を消耗させることは出来るだろうが、それで対ソ戦争を終結に導けるとは考えていなかったのである。

 どこかでソ連に対し、満洲侵攻を断念させるだけの決定打を与える必要がある。それが、参謀本部の認識であった。

 そのため参謀本部では、沿海州地域への進攻作戦を依然として検討し続けていた。

 一九四四年四月現在、参謀総長を務めるのは天皇の信頼あつい畑俊六大将で、次長は東條英機と陸士・陸大同期の友人である後宮(うしろく)(じゅん)大将であった。

 その下で作戦立案を担う第一部部長は、尉官時代にシベリア出兵を経験し、その後もポーランドやソ連に武官として駐在した経験を持つ土井明夫少将であった。土井はノモンハン事件当時、ちょうどモスクワからシベリア鉄道経由で帰国の途上にあり、そこで見たソ連軍の動向を関東軍司令部に警告したものの作戦参謀の服部卓四郎や辻政信に握り潰された経験を持つ。

 作戦課長は、土井の陸士二期後輩の真田穣一郎少将。そして、作戦班長は土井と同じく情報分析を重視する杉田一次(いちじ)中佐であった。

 特に土井と杉田は、満洲国からの沿海州攻勢は困難という関東軍司令部からの上申を受けて、対ソ作戦計画の転換を決断した人物であった。

 ただし、作戦課の中にあって兵站班長の高山信武中佐などは対ソ強硬論者であり、彼は日本が対ソ戦において優位に立つには先制攻撃しかないと主張してやまなかった。

 とはいえ、満洲での守勢・持久作戦への転換を決断した土井や杉田も、それだけでは対ソ戦における決定打に欠くことは自覚していた。

 だからこそ、参謀本部は対ソ戦全般の観点から攻勢作戦に未練を残していたのである。


「問題は、攻勢作戦を行おうにも兵力が不足していることであろうな」


 新たな対ソ作戦計画を立案する中で、土井部長はそう言った。


「現在、我が軍の兵力は歩兵三十個師団に戦車師団や独立混成旅団などいくつかの機械化された部隊があるだけだ。戦時になれば動員をかけて歩兵五十個師団にまで増強する計画ではあるが、関東軍に対する予備兵力、そして内地を守るための兵力を確保しなければならないことを考えると、攻勢作戦に投入出来るのは三個から五個師団程度であろう」


 作戦課の者たちと東アジアの地図を囲みながら、土井は続ける。


「そして、それを輸送するための船舶も確保しなければならない。第一次世界大戦やシベリア出兵、昭和七年の上海事変の戦訓を考えても、これは大変なことだぞ」


 実際、外征のための準備は相当の労力を要するものであった。兵員を輸送する船舶の徴傭から始まり、徴傭船の整備や改装、検疫、兵員や装備の乗船区分計画の作成など、その作業は多岐にわたる。商船を兵員輸送船に改装するための作業項目だけでも、二十四項目にも及ぶのだ。

 これらの作業にかかる日数は、輸送船一隻に対して四十五日と規定されている。つまり、上陸作戦を行うための輸送船の手配だけでも、一ヶ月半はかかる計算になるのだ。


「しかし、ソ連領内の要地攻略なくして対ソ戦を終結に導くことは不可能でありましょう」


 そう強気に攻勢作戦の必要性を主張するのは、高山兵站班長であった。


「我ら参謀本部が消極退嬰(たいえい)に堕しては、ソ連軍の侵攻を一手に引き受けることになるだろう関東軍に対して面目が立ちません」


「だが実際のところ、部長の言われるように、兵力や輸送手段の観点から攻勢作戦にはおのずと限界が生じよう」


 第一部の中で実質的な緩衝材となっている真田作戦課長が言う。作戦班長の杉田が高山に対して反論する前に、先手を打った形である。


「作戦班長としての意見はどうだ?」


 そして、その上で真田は杉田に意見を述べるよう求めた。


「多少の攻勢作戦は必要でしょうが、私としてはシベリア・極東地域への直接進攻よりも航空攻撃による在シベリア・極東ソ連軍の継戦能力の破壊こそが対ソ戦を終結に導く最大の策であると考えます」


 杉田作戦班長は、きっぱりとした口調で答える。その発言内容が攻勢作戦の否定ではなかったことから、高山が杉田に食って掛かるような事態にはならなかった。


「ソ連軍の兵力は確かに恐ろしいものではありますが、シベリア・極東地域は兵站上の弱点を抱えております」


 杉田は指揮棒を以て、地図を指し示す。


「日露戦争時代と違い、シベリア鉄道はスターリン首相の指示の下、昭和十二(一九三七)年に複線化を完了させています」


 指揮棒の先が、シベリア鉄道を示す線をなぞる。


「しかし、依然として鉄橋部分については単線の箇所が多く、そうした点から申しまして、シベリア鉄道は極東地域に対してはか細い補給線と評さざるを得ません。第二シベリア鉄道、通称バム鉄道の建設は依然として途上にあり、たとえ開戦となった場合でもその役割は限定的でしょう」


 そして杉田の持つ指揮棒が、ある一点を指した。

 満洲国黒河省(かつての黒龍江省の一部)の北側に位置するソ連のアムール州。そこに、ウルシャという川と、その名を冠した街が存在する。満ソ国境から、五〇キロ程度しか離れていない。


「たとえばこのウルシャ川には、一〇〇メートル超の鉄橋が存在し、街にはシベリア鉄道の操車場が置かれています」


 杉田はさらに指揮棒を東へと動かす。今度は、満ソ国境の街・黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクの北方を指した。


「このゼヤ川に架かる鉄橋も、シベリア鉄道にとって重要です」


 ゼヤ川は黒龍江(アムール川)の支流の一つで、黒河付近で黒龍江に合流する。


「ゼヤ川周辺には整備された道路網は存在せず、事実上、このゼヤ川鉄橋が両岸を結ぶほぼ唯一の橋となっています。これら鉄橋や操車場を爆撃によって徹底的に破壊することで、沿海州方面への補給路を遮断することが可能です。また、チタなどは斉斉哈爾の航空基地からなら片道約一〇〇〇キロ。十分に連山による爆撃可能圏内です」


 敵国家に対する空爆という戦術構想は、すでに一九二一年、イタリアの軍人ジュリオ・ドゥーエによって唱えられていた。特にドゥーエは、民間人に対する空襲はその心理的効果も大きいとして都市部への無差別爆撃こそが戦争を終結させる要因になると説いている。

 こうした一九二〇年代における戦術思想の変化もあり、日本陸軍は沿海州に展開するソ連軍爆撃機による本土空襲を恐れていたといえよう。

 杉田はそうした敵国に対する大規模な空爆作戦を、日本側も実施すべきだと主張しているのである。


「しかし、ウルシャの鉄橋や操車場、ゼヤ川鉄橋への攻撃はともかく、チタへの航空攻撃は必然的に無差別爆撃にならざるを得まい」


 だが、杉田作戦班長の提示する航空作戦案に、真田課長が渋面を作る。


「無差別爆撃の事例はすでにスペイン内戦におけるゲルニカ空襲や第二次欧州大戦で見られているが、軍事目標以外への攻撃を禁じたハーグ陸戦条約に違反する。そうなれば、アメリカによる経済制裁の口実を与えかねん。その点をどう考えているのだ?」


「はい。その点は私も懸念しております」杉田は答えた。「ですが、我が軍がチタを爆撃出来る姿勢を見せることは、ソ連に対する圧力にもなります。何も落とすのは爆弾でなくとも良いでしょう。伝単(ビラ)などを使い、ソ連国民に空襲の恐怖を感じさせることで、精神的な継戦能力を挫くという方法も考えられます」


「まあ、伝単を散布してロシア人どもが現在のソビエトによる共産主義体制を打倒しようと考えるかは置いておくとしても、徹底的な空襲によるシベリア・沿海州地域におけるソ連軍の継戦能力の破壊というのは構想としては悪くはなかろう。しかし、現状では関東軍とソ連軍との航空戦力には倍近い差がある。この差を埋めるには、内地の陸軍航空隊だけでなく、内地の海軍航空隊の協力を仰がねばならんだろう」


「そうした点については、私から軍令部の中澤第一部長に協議を申し入れるとしよう」


 真田の言葉に、土井部長が応じた。

 少なくとも、現在、満洲に配備されている航空戦力だけでは、シベリア・沿海州地域に展開するソ連軍航空戦力に対抗出来ないだろうというのが、参謀本部の判断であった。

 すでに海軍も満洲・朝鮮地域に約一〇〇〇機の基地航空隊を展開させていたが、それと在満陸軍航空隊を合計しても、ソ連の航空戦力に及ばない。だからこそ、内地の陸軍航空隊だけでなく、内地の海軍航空隊の戦力をも対ソ戦に投入すべきだと真田は主張していたのである。

 もちろん、対米戦を想定している海軍側が太平洋側に展開させている航空部隊や空母を対ソ戦に投入することを快諾してくれるかは怪しい部分があったが、海軍としても北満油田に陸戦隊を配備している以上、一切の協力を拒否するようなことはないだろう。

 少なくとも、参謀本部は対ソ戦における海軍の協力をある程度、当てにしている部分があったのである。

 本話において高山信武中佐が対ソ強硬論者として描かれておりますが、史実においても彼は戦後に至るまで南進より北進すべきであったと主張し続けています。

 たとえば、彼は回想録『参謀本部作戦課 作戦論争の実相と反省』(芙蓉書房、1978年)において次のように述べています。


(前略)

 筆者は今日においても、南進案よりも北進案をとるべきであったと確信している。南進が失敗した結果論から論ずるのではない。

 昭和十六年九月までは独ソ戦ではドイツが絶対優勢であった。ソ軍兵力殲滅の寸前にあった。日本が北攻を実施しておれば、ソ連の脱落は恐らく可能であったであろう。日本が北攻を中止するとともに、ヒットラーは作戦目標をソ連軍の撃滅からウクライナの土地占領へと大転換を行った。これによってソ連軍は立ち直る機会を得たのである。

 南進論者は終始主張した。「油がなくなるではないか」と、しかし、昭和十八年前半頃までの使用量は保有していた筈である。まして南部仏印進駐前に北攻しておれば、前述のようにさらに不安はなかったであろう。

 南進作戦により、三国同盟の本旨を逸脱し、ソ連各個撃破の好機を失したのみならず、未曾有の敗戦を喫して国民に多大の不幸をもたらした大本営の責任は、永遠に償う術はないのだ。

(中略)

 筆者があまりにも激しく北攻案を主張するので、ある参謀は筆者に反論した。

「日本はソ連と不可侵条約を締結したばかりだ。もし日本が対ソ攻撃を開始すれば、国際信義に反するではないか」

「そういう批判も出るであろう。しかし、従来からのソ連の態度をみると、われわれはいつも北方に脅威を感ずる。われわれが支那事変で全力展開しているとき、昭和十三年には張鼓峰事件、十四年にはノモンハン事件と、たえず日本軍の北辺を侵略しているではないか。明治以来、樺太、千島方面からする彼らの南進政策をみてもわかるように、ソ連はなんとしても陽の当たる南方に出たいのだ。今後の日本の戦況いかんによっては、いついかなる態度に出るかわからない。北辺の安全を期するのは、わが国の宿命のようなものだ。ドイツも恐らくわれわれと同じ心境で対ソ攻撃に出たのであろう。ましてこの度はドイツの要請があるのだ。三国同盟の誼みにこたえるのは、また日本として当然の義務であろう」

 このように筆者は答えたし、現在でもこの考えは変わらない。

(高山信武『参謀本部作戦課 作戦論争の実相と反省』芙蓉書房、1978年、322頁~324頁)

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 兵站屋さんが積極攻勢を主張するのは珍しいですね。ソ連を殴ったほうが、後の世の中は絶対良くなったでしょうけど、果たして目論見通りアメリカとの貿易が維持できたのか甚だ疑わしいですね……
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