30 南樺太防衛
「また満洲とは随分と趣の異なる場所だな、樺太とは」
南樺太・大泊の港に降り立った池田末男中佐は、周囲を見回しながらそう言った。
以前まで教官を務めていた四平陸軍戦車学校の周辺の地域は、広大な平野が地平線にまで続いているような場所であった。
一方、池田の降り立った大泊は、市街地の中にも起伏があり、その北方には山々が連なっている。植生もまた、満洲とは違っていた。
街並みも、素朴な日本家屋が多い。
ここが準内地であることを感じさせる風景であった。
「さて、ここからさらに北へ向かわねばならんわけか」
池田は、港に停泊する輸送船を振り返った。輸送船の揚貨装置が三式中戦車チヌを吊り上げ、それを港に降ろしている。
それらの戦車は、池田が四平陸軍戦車学校教官から新たに連隊長となった戦車第十一連隊の装備であった。
日ソ関係の悪化と共にその防衛が必要となったのは、何も満洲だけではない。
南樺太、千島列島もまた、対ソ戦の場合、最前線となる。そのため、防衛のための戦力を増強すべく、戦車第十一連隊が樺太へと配備されることとなったのである。
戦車第十一連隊は、戦車第十連隊と共に戦車第四旅団を編制していた部隊である。しかし、戦車第四旅団は三式中戦車への装備更新に伴い、満洲から内地へと引き揚げていた。
代わりに内地で装備更新と訓練を終えた戦車第三師団(戦車第五旅団および戦車第六旅団基幹)が、満洲へと派遣されている。
このため、装備の更新を終えた戦車第十一連隊は、樺太防衛に充てられることとなったのである。
そもそも、樺太防衛が本格的に検討されるようになったのは、一九三九(昭和十四)年からのことであった。それまで、樺太にはわずかな警備隊と在郷軍人会で構成される後備歩兵一個中隊程度の兵力しか存在していなかったのである。
しかし、北樺太におけるソ連軍兵力の増強に鑑み、一九三九年五月十一日付を以て、陸軍は樺太混成旅団を編制した。これは一九四四年四月現在、歩兵、山砲兵、工兵各一個連隊からなる四〇〇〇人規模の部隊であった。
樺太混成旅団はその司令部を日ソ国境線(北緯五〇度線)に近い敷香に置き、内路―恵須取以北の地域の防衛を担当する。それ以南の地域に関しては、北海道旭川に司令部を置く第七師団の管轄地域であった。
そして、北海道・樺太・千島の防衛を担当する第五方面軍(司令官:樋口季一郎中将)が一九四四年二月十八日に設置されると、内地で装備の更新と訓練を行っていた戦車第四旅団がその指揮下に組み込まれることとなったのである。
結果、第十連隊が千島列島へ、そして池田率いる第十一連隊が樺太へと配備されることとなったのである。
この他、北海道へのソ連軍の直接上陸を警戒して、本土防衛用に習志野で編制された戦車第四師団の一部である戦車第八旅団も第五方面軍の指揮下に組み込まれていた。
また、後備第七師団である留守第七師団の動員も、徐々に進められていた(これは、後の第七十七師団となる)。
千島列島では幌筵島を中心に北千島要塞が築かれ、それまで北の台飛行場(幌筵島)程度しか存在していなかった陸軍の飛行場の設営も急速に進められていた。
三好野飛行場(占守島)、得撫飛行場(得撫島)の二ヶ所はすでに完成し、また海軍が幌筵、松輪、天寧(択捉島)に築いた飛行場も、陸軍が利用出来るように拡張されていた。
一方、樺太では要塞の建設は行われていなかったが、飛行場の建設は千島列島以上に進められていた。
敷香、落合、内路、気屯、豊原(樺太庁の所在地)、初問、小能登呂、名寄、塔路の九ヶ所で、飛行場の整備が行われている。特に小能登呂の飛行場は重爆の発着が可能な大規模なものとして建設が行われた。
陸軍の第五方面軍とは別に、この地域には海軍の千島根拠地隊約五〇〇〇名も存在している。
また、樺太や千島は満洲と違い海に面しているため、海軍艦艇からの支援も期待出来た。この海域には第五艦隊が存在し、第五方面軍司令官・樋口季一郎中将と第五艦隊司令長官・志摩清英中将との間には「北太平洋方面作戦陸海軍指揮官間ノ協定」が締結されていたのである。
ただし樺太・千島方面における陸軍の対ソ作戦計画も、やはり満洲と同じように従来は攻勢重視のものであった。開戦劈頭、北樺太を占領し、その後はカムチャッカ半島要地および樺太対岸の沿海州地域要所を占領するというのが、従来の対ソ作戦計画だったのである。
しかし、満洲における対ソ作戦計画が持久作戦に転換されたことに伴い、樺太・千島方面における陸軍の対ソ作戦計画も、やはり持久作戦へと転換されていた。
特にソ連海軍太平洋艦隊の増強により、樺太や北海道に対する大規模な上陸作戦の可能性が危惧されるようになった結果、北海道の第七師団は道西地方の防備を固める必要に迫られていた。留守第七師団の動員が進められているのも、手薄になってしまった道東地方の防衛を担わせるためである。
樺太にしても、北部国境地帯からのソ連軍の南下だけでなく、南部への上陸作戦を警戒しなければならない情勢となっていた。このため、日本領である南樺太南部地域の警戒態勢の強化を目的として、第三十警備隊が新たに編成されていた。
池田率いる戦車第十一連隊も含めて、樺太に駐屯する兵力は「樺太兵団」として樺太混成旅団の指揮下に置かれる予定となっている。
樺太防衛上、新たな課題として浮上しているのが、ソ連軍の北海道直接侵攻であった。これにより樺太の部隊が孤立するだけでなく、北海道に上陸したソ連軍を撃退するために第七師団が樺太へ増援を送り込むことが不可能と見做されたのである。
つまり現状では、樺太防衛は樺太駐屯部隊のみで遂行することが求められていた。
このため樺太混成旅団では、北部国境地帯での陣地の構築を進めていた。旅団主力は国境線から約十一キロの地点に八方山陣地を築き、第三十警備隊は南部の能登呂半島の防備強化を行っている。
池田率いる戦車第十一連隊は、装備と兵員の揚陸が終わり次第、旅団の衛戍地である敷香に向かうこととなっている。
敷香のある幌内平野は、樺太全土を見ても最大級の平野であった。しかし、ツンドラ地帯であるために融解期には深さ一メートルから四メートルもの低湿地帯となるという難点を抱えている。当然、戦車の機動には適さない。
しかし、この地域には敷香―古屯を経て日ソ国境地帯に向かう中央軍道と呼ばれる道路が敷設されていた。この中央軍道とその西側に存在する森林地帯は、十分に南下を目指すソ連軍が通行可能であると考えられていたのである。
一方、中央軍道に西側は西樺太山脈が存在し、やはり針葉樹林が広がっている。ただし、幌見峠から半田国境地帯にかけての幅約十キロの地域には障害となる樹木は少なく、こちらもまたソ連軍による通行が可能であると見做されていた。
つまり、南下するソ連軍は地形などの問題から中央軍道を中心とした地域に主力部隊を投入してくる可能性が高かった。この一帯が、日ソ国境地帯で唯一、大部隊の通行に適した地形であったからだ。
そのため、戦車第十一連隊を敷香に配備するという決定を、樺太混成旅団は下したといえる。
「とはいえ、港湾施設や鉄道は満洲ほどには発達しておらんようだな」
輸送船からの揚陸作業を見守りつつ、池田はそう呟いた。
戦車第十一連隊が向かうべき敷香も港町ではあったのだが、港湾能力が低いため戦車第十一連隊を乗せた輸送船は大泊に入港せざるを得なかったのである。
南樺太において、三〇〇〇トン級の船舶が入港出来るのは、この大泊港と西岸の真岡港の二ヶ所しかなかったのである。
樺太攻防戦となれば、鉄道や船舶を用いた迅速な兵員・物資の輸送には困難を来さざるを得ないだろう。
池田はそう思い、起こり得るかもしれない日ソ戦に向けていっそう気を引き締めるのであった。




