29 満洲での持久作戦
しかし一方で、対ソ戦をどのように終結に導くのかという大戦略の部分に関しては、依然として曖昧な部分を多く残していた。
少なくとも、関東軍は満洲国内での長期持久作戦を行い、侵攻するソ連軍に消耗を強いるという方針は参謀本部・関東軍間の協議によってほぼ確定している。だが、そこから先の展望を参謀本部も関東軍も、もっと言えば日本政府も描けてはいなかった。
満洲国内での長期持久は、満洲産業五ヶ年計画やその後の第二次五ヶ年計画による鉱工業の発展、北満油田・遼河油田の存在などによってある程度は可能であると見込まれていた。
満鮮国境に近い大東港には大規模な工業地帯が形成され、満洲自動車製造株式会社やロールス・ロイスなどの自動車製造会社の他、満洲軽金属製造株式会社(マグネシウム、アルミニウム製造)、東洋人繊株式会社(人造絹糸)、安東セメント、満洲鉱業開発株式会社、満洲大豆化学工業株式会社など多様な工場が存在している。
この大東工業地帯は満洲国のほぼ最南端に存在していることもあり、シベリアや沿海州方面からのソ連軍による地上侵攻や空襲から最も安全な位置にあると見られていた。
また、満洲飛行機製造株式会社は、本工場を哈爾浜に置き、奉天でも工場を稼働させている。これら工場では特に戦闘機が多く生産され、陸軍の最新鋭戦闘機である四式戦闘機「疾風」もライセンス生産が行われている。この満洲飛行機製造株式会社は、日本の航空会社の中でも第八位の生産能力を誇っていた。
満洲飛行機製造株式会社だけでなく、日本の航空会社はイギリスからシャドウ・スキーム(Shadow Scheme)方式を学び、一九四〇年以降、飛躍的にその生産力を高めていた。
シャドウ・スキーム方式とは、イギリスにおいて空軍省が主導して行った航空機の集団生産方式である。これは、航空機製造会社が中核となり、これを支える他の工学企業群(Shadow……裾野)が一体となって航空機生産を行い、その調整・計画(Scheme……計画)を空軍省が主導するという方式であった。
一九三五年のドイツの再軍備宣言を脅威と見たイギリスが、空軍力の増強を目指して行ったのがこのシャドウ・スキーム方式であった。イギリスが第二次欧州大戦が勃発する以前にこうした生産方式を採用出来た理由には、独立した空軍が存在していたという制度的要因が大きい。
一九三〇年代からイギリスとの経済的提携を強めていた日本が一九四〇年代になってようやくイギリスに倣った行政主導の航空機生産方式に移行出来たのは、第二次欧州大戦の勃発や陸海技術運用委員会の設置(一九四一年)があったからであった。航空機の開発・生産を巡って陸軍省と海軍省が互いに予算を奪い合うような政治的状況では、日本でシャドウ・スキーム方式を取り入れるのは困難だったろう。
その意味では、特に原爆製造計画である「二号研究」が陸海軍の技術的統合を促進させる要因となったともいえる。航空機生産におけるシャドウ・スキーム方式の導入は、原爆製造計画の副産物であると見ることも出来たのである。
また、一九二〇年代以降、日本の自動車産業が急速に発達していたことも、航空機生産能力の拡充に繋がっていた。航空機の発動機を生産するには高い技術力が求められ、それに応えられるだけの技術力を持っていたのが、自動車産業だったのである。
実際、イギリスでシャドウ・スキーム方式が大きな成果を挙げた要因の一つには、下請け企業としての自動車産業が発達していたことが挙げられた。
その意味では、満洲に満洲自動車製造株式会社やロールス・ロイスなどの自動車企業が存在していることは、満洲国における航空機生産にも多大な貢献をしているといえたのである。
そして、満洲の鉱工業の中でも特に重きをなしているのが、鞍山に存在する昭和製鋼所であった。かつては満鉄の鞍山製鉄所であった昭和製鋼所は、今は満洲重工業開発株式会社の子会社となっている。
満洲の鉄鋼業は、この昭和製鋼所、本渓湖煤鉄公司、東辺道開発会社の三会社によって担われている。
昭和製鋼所は銑鋼一貫生産体制であり、昨年度である昭和十八年度(一九四三年四月~一九四四年三月)の実績は銑鉄一五〇万トン、鉄塊九十万トンであった。昭和製鋼所は銑鉄二〇〇万トン、鉄塊一五〇万トンの生産設備を持つため、このまま平時が続けばさらなる増産が見込まれるだろう。
鉄鋼業に欠かせない石炭については、満洲国は年間約二五〇〇万トン前後を産出している。これに華北からの輸入炭を加えることで、満洲の製鉄を担っていた。
また、北満油田・遼河油田の存在も満洲での持久作戦を考える上では欠かせない。発見以来の油田施設の拡充により両油田の生産量は年々上昇を続けていたからだ。
特に産油量の多い北満油田は重油成分が多いため、航空燃料として用いるにはいささか向かないものの、それでも平時における自動車用燃料としては重宝した。この油田の存在が、一九四〇年代になって満洲国のモータリゼーションを加速させ、満洲国内の自動車産業をさらに活性化させる要因ともなっている。
ただしもちろん、航空燃料に向かないという欠点は戦時における制約となる。
日本は一九三八年九月に、アメリカから一〇〇オクタン燃料製造技術であるフードリー法のライセンス権を獲得していた。それに基づいて内地では一〇〇オクタン燃料の製造設備が整えられ、一九四一年後半あたりから実際に設備を稼働させての生産が始まっていた。
しかし、満洲では原油の質の問題から未だフードリー法に基づいた製造設備が整えられていなかった。必然的に、航空燃料については内地からの輸送に頼らなければならない部分が大きかったのである。
とはいえ、戦時において関東軍はその兵站を一定程度、満洲国に依存することが可能であった。そうしたことも、持久作戦への対ソ作戦計画の転換に繋がった要因であった。
この他、満洲と地続きである朝鮮も、資源や工業製品の供給源という意味で重要であった。
日本の植民地である朝鮮の開発は、第一次世界大戦の本格参戦の対価としてフランスが財政援助を申し出たため、一九二〇年代から三〇年代にかけて加速していた。
朝鮮各地で鉱山の開発や製鉄所の開設などが進んだのである。
特に朝鮮北部には東アジア屈指の鉄山・茂山鉄山が存在し、四〇年代に入ると年間一〇〇万トンもの産出量を誇るに至っている。この茂山鉄山の鉄鉱石を用いた製鉄所が、日本製鉄清津製鉄所、三菱鉱業清津製錬所であった。
また、同じく城津には日本高周波重工業株式会社の工場があった。こちらは日本では数少ない特殊鋼の製造を担う会社であり、フェロタングステンの生産量では日本有数の規模を誇る。
また、城津工場は三〇年代まで輸入に頼る割合の多かった軸受鋼(クローム鋼)の生産も担っていた。
軍需工場も、平壌兵器製造所、陸軍仁川兵器廠、朝鮮窒素火薬興南工場など多数が存在する。
朝鮮では鉛、亜鉛、ニッケル、コバルト、タングステンなどの鉱床が存在し、戦略資源という点でも日本の勢力圏内では有望な地域であった。日本の原爆開発に必要なウランも、朝鮮北部から産出する。
こうした満洲・朝鮮での産業の発展が、関東軍に対ソ戦における持久戦を選択させた要因といえよう。
「だが、満洲で持久作戦をとるだけでは対ソ講和は望めまい」
だが梅津は、満洲での持久作戦は攻勢作戦よりも勝算があるとは見込んでいたものの、それがソ連との講和に持ち込めるだけの決定的な打撃を与えるものになるとは考えていなかった。
関東軍総司令官という立場故に原爆の存在を知らされていないため、なおさら対ソ開戦となった場合の戦争終末構想に疑念を抱いてしまう。
「航空攻撃によってシベリア鉄道を寸断し、ウラジオストクやコムソモリスク・ナ・アムーレの軍需工場などを破壊して、シベリア・極東地域におけるソ連の継戦能力を奪わない限り、講和の道は開けないであろうな」
その航空殲滅戦構想も、機数において日本側が劣勢に立たされている以上、どこまで実現可能なのかは不明確であった。
梅津は、自軍が劣勢に置かれているという情勢下で、満洲防衛という難問に今後も立ち向かっていかなければならなかったのである。




