27 満蒙開拓団という難問
「とはいえ、我々としても有事の際の避難民輸送をただ漠然と満鉄に要請するだけでは無責任に過ぎよう」
梅津はそう言うと、執務机の引き出しから資料を取り出した。それを、山崎に渡す。
資料の表紙には「極秘」の赤印が押され、「関東軍在満居留民処理計画」と印字されていた。
「有事における、関東軍としての在満日本人の避難計画方針だ」
「拝見いたします」
山崎は渡された資料の頁をめくり始める。内容を読んで、思わず眉をしかめてしまった。梅津総司令官は避難計画方針と言っていたが、内容は満蒙開拓団の動員方針と避難方針の双方から成っていたのだ。
特に動員については、十七歳から四十五歳までの男性をほとんど根こそぎ動員する計画となっており、そのあまりに物々しさに山崎は思わず内心で絶句してしまった。
しかし、これは満蒙移民政策の経緯を考えれば無理からぬことであった。
満蒙移民構想はそれこそ満鉄初代総裁の後藤新平の時代から存在しており、満蒙に日本人の勢力圏を築くには一〇〇万人単位の移民が必要であるという意見も一九一〇年代には後藤新平など一部の者たちの間で唱えられていた。
こうした満蒙移民構想が国策として大々的に推進されていくようになったのが、満洲事変とそれに伴う満洲国の成立であった。
第一次世界大戦後の戦後不況からいち早く立ち直った日本ではあったが、一九三〇年頃になると世界恐慌の影響で再び不況へと突入していたのである。一九二〇年代を通して日本の重化学工業化は著しい勢いで進展していたのであるが、世界恐慌はそうして都市部へと働きに出ていた工場労働者の大量解雇を招いていた。
第二次産業の発展は第一次産業の労働人口を吸収しながら行われていくのが常であったが、逆にこのために日本では世界恐慌によって故郷の農村へと帰る労働者が続出、農村も生糸輸出の不振などで不況の影響は深刻であったから、当時の農村は養い切れない人口を抱えることになってしまったのである。
依然として農村の土地制度改革が実施されないままに重化学工業化が進んでしまったという国内の矛盾が、世界恐慌によって一挙に表面化してしまった形であった。
こうした中で満蒙移民構想は、農本主義者の加藤完治らによって農村救済策の意味合いを帯び始めるようになる。
同時期、満洲事変を首謀した関東軍では、満洲を日本の勢力圏下に置くための満蒙移民構想が持ち上がっていた。表向きは独立国となる満洲国における日系人の立場を強めるには、より多くの日本人が満洲に居住する必要があったからである。
関東軍の中で満蒙移民構想を具体化させたのは、張作霖爆殺事件の実行犯とも言われる東宮鉄男であった。彼は、満洲国内での匪賊討伐や満ソ国境に永住駐屯する武装移民構想である“屯墾軍構想”を関東軍上層部に意見具申した。
これを受けた石原莞爾(当時、関東軍作戦課長)は、ちょうど渡満していた加藤完治に東宮鉄男を引き合わせ、東宮・加藤の邂逅によって満蒙移民計画が具体化したのである。
こうして、帝国在郷軍人会を中心に移民の募集・選定が行われ、一九三二年十月三日、第一次試験移民四二三名が満洲北東部の佳木斯へと渡った。
その後、満蒙移民は農林省の実施した農山漁村経済更生運動(農地政策・農産物価格政策・産業組合政策)と結びつき、農業移民へと移行していく。
農林省が経済更生運動を進めるにあたって最も障害となっていたのが、地主制に基づく農村の土地制度であった。この問題を解決しない限り、石黒忠篤、小平権一、那須皓、橋本傳左衞門などの農林省関係者・農本主義者らの目指していた自作農育成計画は実現しない。
しかし、国内の土地制度を根本的に変革するには、それこそ革命に等しい大変革を覚悟しなければならなかった。
そのため、経済更生運動の挫折を満蒙移民という形で補完するとなったのである。
一方、平時・有事の際の動員能力強化のための武装移民構想も引き続き政策として継続され、加藤完治・東宮鉄男の発案によって「満蒙開拓青少年義勇軍」として十六歳から十九歳までの青少年が移民として募集されることとなった。こうした二十歳にならない青少年の満蒙移民は、有事の際に関東軍が満洲国内で動員を掛けやすいという理由から推進されていったのである。
満蒙移民政策はそうした経緯を辿ってきたから、関東軍による「関東軍在満居留民処理計画」が男性移民の動員を含むものとなっていたのは当然といえよう。
ただ、関東軍側も移民団や移民村の避難にはある程度、配慮を示していたようで、団や村の幹部男性については召集を免除されていた。要するに、避難させる際に団や村の指導者が不在では円滑に進まないと考えたのだ。
そして山崎が気になったのは、北満の移民を疎開させる先であった。居留民処理計画では、内地ヘ引き揚げる形での避難計画が示されている他、疎開に際しては浜綏線(哈爾浜―綏芬河)以南の地域に向かうように定められていたのである。
より具体的に言うならば、かつて中東鉄道と呼ばれていた路線の南側かつ満鉄社線(大連―新京)・京浜線(新京―哈爾浜)の東側ということになる。
ちょうど鉄道路線と満鮮国境線で三角形が描ける区域であった。
つまり関東軍はこの三角地帯が対ソ線における最終防衛線、つまりそれ以外の地域を守る自信を持ち得ていないということになる。
だからこそ、山崎は計画書のこの部分が気になったのである。
もちろん、関東軍としても始めからこの三角地帯以外の地域を放棄しようとしているわけではないだろう。
何しろ、三角地帯の外側には満洲国の経済を支えている北満油田が存在している。それをみすみすソ連に明け渡すような真似は、流石にしないだろう。
しかし、それでも山崎は腹の内に重苦しいものが落ちてくるような感覚を禁じ得なかった。
「……この居留民処理計画に基づいて、満鉄は避難民の移送計画を立てればよいということですか?」
「つまりは、そういうことだ」
山崎の問いに、梅津は頷いた。満鉄総裁となった男は、さらに続ける。
「しかし、私はこうした計画が存在することを知らされましたから鉄道の運行計画は何とか立てる努力をいたしますが、計画をまるで知らされていない開拓団の者たちは、いきなり避難せよと言われても恐らく戸惑うことでしょう。そうなれば、いくら避難民の輸送を想定した運行計画がその通りにいったとしても、肝心の避難民の鉄道沿線への集結が円滑に行われるとは考えられません」
「満ソ国境情勢が悪化するようであれば、事前に国境地帯からの退避を勧告するつもりだ。満洲国開拓総局にも、事前に計画は伝達する」
なおも食い下がる山崎に対し、梅津は苦しい口調で応じる。この総司令官自身も、避難計画の不十分さを自覚してはいるようであった。
少なくとも、高圧的な態度で満鉄に指令を下すつもりはないらしい。ただ一方で、山崎の指摘を受けて計画を改める気配も感じられなかった。
何とかして現在の計画を山崎に納得させようと、苦悩しているように見えた。自分自身が不十分と考える計画を他者に納得させようとしているのだから、苦しい口調になるのも当然だろう。
「開拓団の避難は、軍事作戦と並行して行われるものと承知してよろしいでしょうか?」
「ああ、その理解で構わん」
梅津の回答を聞いて、満鉄社員として長年勤めてきた山崎はその困難さに眩暈がするような感覚に襲われた。
軍事輸送と避難民の疎開を並行させると言うのは、現在の満洲の路線状況を考えると相当な困難が予想されたからだ。対ソ戦となれば真っ先に戦場となるだろう国境地帯へ兵員や物資を輸送する列車と、逆に満洲南部へと向かう列車が、線路上で交錯することになる。
満鉄社線も含めた満洲国内の鉄道は、その総延長一万二四九二キロメートルという数字に比して複線化率が低かったのである。
北部国境の街・黒河へと至る二路線はどちらも単線であったし、西部国境の街・満洲里から斉斉哈爾に至る路線、東部国境の街・綏芬河から哈爾浜に至る路線もやはり単線であったのだ。
旧中東鉄道の路線の中で、複線化が行われているのは哈爾浜―斉斉哈爾間のみであった。これは、北満油田から大連・大東といった港湾への輸送能力強化を目的としたものであった。
山崎は今日以降、有事の際の避難民輸送計画に頭を悩まされるだろう日々が続くであろうことを覚悟せざるを得なかった。
【東宮鉄男】(1892年~1937年)
日本の陸軍軍人で、満蒙移民を推進した人物の一人。
1928年の張作霖爆殺事件では、河本大作大佐の指示の下、実際に爆破を実行した人物と言われている。
その後、内地の歩兵第十連隊中隊長となるが、満洲事変に伴い1932年4月、満洲国軍政顧問に就任。吉林省などで匪賊討伐に従事する。
1932年6月、関東軍作戦課長である石原莞爾に対して、在郷軍人を中心とした武装移民計画である「屯墾軍計画」を上申する。ただし近年、東宮鉄男関係文書の調査が進み、実際に屯墾軍計画を発案したのは石原であり、東宮独自の立案ではなかったという指摘もなされている。
同時期、満蒙移民推進者の一人である加藤完治が渡満しており、石原は加藤と東宮を引き合わせた。加藤の満蒙移民計画は、東宮が用地の確保に尽力することとなったことで実行に移されていく。
これにより実現したのが、1932年10月3日に佳木斯へと入植した第一次試験移民である。
しかし、準備不足と知識不足のまま入植したために移民団内での軋轢から横領事件や傷害事件が発生、退団者も続出し、匪賊による襲撃も受けた。
さらには準備不足から越冬のための食糧などにも事欠き、現地住民たちからの食糧の強奪、無銭飲食、強盗強姦が相次ぎ、日本人移民は匪賊よりも恐ろしいものと認識されるまでに至った。
こうした問題点は拓務省に報告されたものの、東宮は移民政策そのものに問題はないとして拓務省に激しく反発する。
その後、東宮は加藤の協力を得て15歳から22歳までの青少年を吉林省に入植させる。これを受けて加藤は「満蒙開拓青少年義勇軍」を立案、推進していくこととなるが、東宮自身は日中戦争に従軍し、1937年11月14日、戦死した。
死後、佳木斯には「東宮記念館」が建てられ、東宮大佐記念事業委員会が編纂した『東宮鉄男伝』(1940年)が刊行された。
なお、東宮家宗家は群馬県の老舗旅館「赤城温泉御宿総本家」を現在も経営しており、鉄男の姉の孫にあたる東宮春生氏は郷土史家として満蒙開拓団の歴史を今に伝える活動を行っている。




