26 満鉄の苦悩
満鉄総裁であった小日山直登の拓務大臣就任に伴い、山崎元幹は副総裁から総裁へと昇格した。
そんな彼は、小日山前総裁との引き継ぎ事務などを済ませた後、またしても新京の関東軍司令部から呼び出されることとなった。
再び、山崎は大連から新京へと夜行列車で向かう。夕刻発で翌朝着の列車である。新京駅に到着すると、駅前にはすでに関東軍司令部の回した公用車が待機していた。
それに乗り、山崎は関東軍司令部へと向かう。
四月も下旬へと差し掛かり、満洲国の首都・新京は短い春が過ぎ去ろうとしていた。日によっては三〇度を超える日もあり、暑い夏の訪れを感じる季節になりつつある。
そして、大同大街を往く人々も、以前、新京を訪れた時と同じように日常を日常として過ごしているようであった。
やがて車は特徴的な帝冠様式の建物へと到着する。山崎は司令部付き従兵の案内に従って、建物の中へと案内された。
「山崎さん、まずはこの度の総裁就任、関東軍総司令官としてお祝いを述べさせて頂く」
総司令官公室では、梅津美治郎大将がそう言って山崎を迎え入れた。部屋には、総参謀長の笠原幸雄中将も控えていた。
「恐縮です」山崎は、慇懃に頭を下げた。「総裁としてまだまだ至らぬ点があるかと思いますが、これから何卒、よろしくお願いいたします」
「ああ、我が軍も満鉄には何かと便宜を図ってもらっている。こちらも引き続き、よろしく頼むよ」
梅津はそう言い、山崎に応接椅子を勧めた。総司令官付の従兵が、すぐに茶菓と煙草を運んでくる。
「さて、単に山崎総裁に祝辞を述べるだけならばこちらとしても気が楽だったのだが、そうも言ってられん状況でな」
梅津は応接机の上に、満洲の地図を広げた。
「先日、第二次山梨内閣で初の閣議があった。そこで北満にいる満蒙開拓団の南満への疎開、あるいは内地への引き揚げが閣議決定されてな」
梅津総司令官からの言葉に、山崎は怪訝な表情を浮かべた。
「そのような話、新聞には一切出ておりませんでしたが?」
「当然だ。公表すれば、徒にソ連を刺激することにもなりかねんし、こちらから対ソ戦を仕掛けようとしているかのような印象を与える。対米関係を考えた場合、こちらから対ソ戦を仕掛けるのは米国の対日経済制裁を誘発しかねないとして、閣議でも主に海相が懸念を示していたそうだ。もちろん、我が帝国陸軍としても、積極的に対ソ戦を仕掛けようとは思っていないがね」
張作霖爆殺事件や満洲事変など、関東軍の独走を満鉄社員として見てきた山崎に疑念を持たれないよう、梅津はそう説明した。
当時、満鉄では会社首脳部よりも特に現場の社員の方が関東軍の者たちとの繋がりが深く、表沙汰には出来ない情報が満鉄側に流れてくることがあった。張作霖爆殺事件は表向き“犯人不明”、満洲事変の切っ掛けとなった柳条湖事件は表向き“中国軍の仕業”であったが、満鉄社員の間では関東軍による謀略であると薄々勘付いている者も多かった。
満鉄という会社は、国策会社であるがために総裁・副総裁(社長・副社長)や理事といった首脳部が時の政権の選出した人間たちで占められる傾向にあり、だからこそ会社首脳部と一般社員との間に断絶が生まれるという弊害があった。一九三〇年頃には世界恐慌の影響による満鉄の経営悪化の影響を受け、社員の大量解雇が行われていたから、そうした両者の断絶は最高潮に達していた。
それが満蒙問題の解決を求める一部社員の急進化を促し、関東軍への接近、最終的には満洲事変での鉄道輸送への積極的協力という形となって現れたのである。
梅津の発言は、そうした関東軍と満鉄との過去のいきさつを踏まえてのものだった。
「そういう事情であるから、北満に居住する開拓民の疎開や引き揚げについては、当面の間、表立って行うことは出来ない。しかし、今以上に日ソ関係が緊張化した場合には、満鉄に対して避難民の輸送を要請する可能性がある」
「なお、有事の際には民間の自動車の徴発も起こりうるため、なおさら鉄道による避難民の輸送は重要となってくる」
梅津の発言にそう付け加えたのは、笠原であった。
「梅津閣下、おっしゃりたいことは判りますが、有事になれば鉄道輸送は確実に混乱します。そうした中で円滑な避難民の疎開は、難しいと申し上げざるを得ません」
関東軍からの要請について色々と言いたいことはあったが、ひとまず山崎はそう訴えた。
そもそもの問題として、満蒙開拓団の北満への入植は、その当初の段階から関東軍と満鉄との間で意見を異にしていたのである。
満鉄としては、北満奥地に鉄道を敷設し、その鉄道を順調に経営するためには日本人だけでなく一〇〇万人程度の漢人を移民させることが必要でであるとたびたび主張してきた。
実際、満洲国成立以前から、中国東北地方には山東半島からの漢人移民が大勢、流入していた。かの張作霖も、祖父の代に河北省から満洲へと移民してきた人間であった。満洲国の産業を発展させる上でも、大量の漢人移民は重要な存在であった。
しかし、対ソ戦略の観点から関東軍は北満への移民は日本人を優先し、漢人移民を制限していたのである。
そのため満鉄は、経営上の観点から北部国境へと伸びる路線の敷設に消極的であり、現在までに開通しているのは北部国境の街・黒河と哈爾浜、そして斉斉哈爾を結ぶ二路線のみであった。この路線ですら、今後十年の間に三〇〇万円の赤字が発生すると見込まれている路線なのである。
そのように今まで満鉄の意見を無視し対ソ戦略という観点だけで満蒙開拓団を北満奥地に送り込んできた関東軍に対し、山崎はまだまだ言い足りない思いであった。
しかし立場上、真っ向から関東軍を批判するわけにもいかなかった。それに、北満奥地への日本人移住政策は梅津が関東軍司令官に着任する以前から進められていたものでもあった。
梅津一人に不満をぶつけたところで、八つ当たりに近いものになってしまうと、山崎は思い止まったのである。
「満鉄としては、平時からの段階的な疎開・引き揚げが必要であると考えます」
ひとまず、山崎は満鉄総裁としての意見を述べることにした。
「山崎総裁、それが出来れば誰も苦労はせんのだよ」
だが、梅津は否定的に首を振った。心なしか、疲労を滲ませた表情であった。
「現在の段階で、対ソ戦が確定したわけではない。また、先ほども言ったが対ソ関係、対米関係を考えても平時段階での開拓団の疎開は行えない」
要するに、開拓団の命よりも政治、そして組織としての面子が優先ということであった。
「加えて、対ソ戦を考えた場合、開拓村は我が軍の補給拠点としても機能することになる。早急な開拓村の放棄は、対ソ戦における我が軍の行動を阻害することにもなりかねんのだ」
「しかし、それでは国境付近の開拓団の避難は確実に遅れます。北部国境まで伸びる鉄道は、北黒線(北安―黒河間)と寧黒線(寧年―黒河間)のみであり、到底、短時間での避難は不可能です」
「そこは、軍を信頼していただくより他にない」
梅津は、山崎のそれ以上の言葉を封じるように言った。ただし、高圧的な口調ではなかった。一方で、安心させるような口調でもない。
梅津自身が置かれた立場を表わすような、苦悩が滲む声であった。
「我が軍としても、開拓団を避難させる重要性は理解している。しかし、現時点では我々としても動きようがないのだ」
梅津の声は、関東軍もまた陸軍としての面子、国内の政治情勢、そして日本を取り巻く国際情勢に挟まれて身動きが取れなくなりつつあることを如実に表わしていた。
そして、軍を信頼するように言われてしまっては、山崎としてもそれ以上、満蒙開拓団についての方針に意見することは憚られてしまった。




