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北溟のアナバシス  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第二章 北方の赤い影編

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25 対ソ戦への備え

「ならば、満ソ国境付近に入植した者たちの満洲南部への疎開、ないし内地ヘの引き揚げを検討すべきと考えるが?」


 そう言ったのは、今まで大臣たちからの情勢判断を聞いていた山梨勝之進首相であった。彼のこの発言は、かなり踏み込んだものであった。

 満洲事変以来、日本は多数の移民を満洲国に送り込んでいた。一九三二年十月三日、第一次試験移民が満洲国三江省(旧黒竜江省)省都・佳木斯(ジャムス)の地に入植して以降、現在までに約十五万人もの日本人が満蒙に渡っている。

 山梨の発言は、国策としての満蒙移民政策の否定であった。自らの組織の面子を重んじて誰も言い出せないことを、彼は首相の立場として真っ先に言ったのである。

 もっとも、満蒙移民政策は当初から躓きがちであった。もともとは国内の農村の人口過剰問題を解消するために国策化された満蒙移民政策であったが、一九二〇年代以来続く日本国内の重工業化によって、農村人口が工場へと流れ込む現象が生じていたからである。

 満蒙移民政策は、日本の産業構造が第一次産業から第二次産業へと比重を移していく時代に、真っ向から逆行するものだったのである。

 それでも満蒙移民政策が推進されたのは、ソ連と国境を接する北満地域を急速に日本の勢力圏下に組み込みたいという陸軍、特に関東軍の意向と、農村問題の解決を他の産業も含めた総合的な形で行うだけの政治的展望を描けなかった農林省の存在が大きな要因となっている。もちろん、移民政策である以上、拓務省も関わっている。

 各政治集団の組織利益が複雑に絡み合った結果が、満蒙移民という政策だったのである。

 一九三六年、第一次山梨内閣の際には「一〇〇万戸移住計画」が持ち上がっていたが、あまりにも非現実的ということで、第一次山梨内閣ではこれを採用しなかった経緯がある。その後の宇垣内閣で一〇〇万戸移住計画は承認されたが、計画通りの移民送り出しは未だかつて実現されたことがなかった。


「しかし、北満の開拓団を南満に疎開させるにしても、内地に引き揚げさせるにしても、彼らの職はどうするつもりですかな?」


 案の定、農林大臣である石黒忠篤は控え目ながら満蒙開拓団の疎開、引き揚げに反対の意思を表明する。石黒は農林省退官後、農村更生協会の理事として農林省経済更生部長の小平(こだいら)権一(ごんいち)らと共に農林省の立場で満蒙移民政策を推進してきた人間である。

 彼が第二次山梨勝之進内閣に閣僚として迎え入れられたのも、究極的には満蒙移民問題に精通した人物であると見做されていたからである。

 石黒は、共に満蒙移民政策の主体となった陸軍の出方をうかがうように、東條の方に視線を遣った。

 陸軍、特に関東軍の北満開発への意思は強く、一九三九年には満洲国に対し「北辺振興計画」を承認させている。これは、三九年から三年間にわたって国境地帯七省(東安省、北安省、牡丹江省、三江省、黒河省、間島省、興安北省)の総合開発を行うという計画で、これと連動するように「移民根本国策基本要綱」が日満移民関係者の間で策定されている。そして、この移民根本国策基本要綱にも、関東軍と石黒は共に関わっていた。

 この満蒙移民政策と北辺振興計画、そして岸信介らが主導した満洲産業開発五ヶ年計画が、満洲国における三大国策となっていた。


「陸軍としては、老幼婦女子の疎開ないし引き揚げには賛成する」


 だが、石黒が頼みとしていた東條の言葉は、事務的なものであった。

 実際のところ、陸軍も海軍が出師準備を開始した昨年十二月頃から対ソ戦を現実のものと考え、満蒙開拓民の扱いをどうすべきか、陸軍省、参謀本部、そして現地の関東軍の間で協議を続けていたのである。

 そして一九四四年二月頃には、北満地域に入植した老幼婦女子は疎開ないし内地ヘ引き揚げさせ、十七歳から四十五歳までの男性は関東軍の後方支援要員として動員するという方針を固めていたのである。ただし、疎開や動員の実施はソ連を刺激するとして、あくまで陸軍内部での検討に留まっていた。

 東條は陸軍として初めて、閣議の場で満蒙移民の引き揚げについて言及したのである。


「しかし、避難民の引受先は如何されるおつもりか? 内地で開墾できる土地はあらかた開墾し尽くされておりますぞ? あとに残るのは、そもそも開墾に向かないか、開墾のために相当の努力を有する土地だけです」


「農村が引き受けられないそうした人口は、工業に吸収させてしまえばよろしい」


 なおも食い下がる石黒にそう言ったのは、商工相・岸信介であった。


「我が帝国は一九二〇年代、第一次大戦の戦後不況からいち早く抜け出し、以後、重工業化への道を歩み続けてきた。特に三七年より始まった重要産業五ヶ年計画は、満蒙移民として送り出されるはずの人口を国内の工業分野に吸収することに成功している。今さら、満蒙移民に固執したところで、かえって国内の産業振興の阻害要因となるだけだ」


 どこか傲岸不遜にも聞こえる自信に満ちた声で、岸は言う。彼には、それだけの実績があったのだ。

 満蒙移民政策、北辺振興計画、満洲産業開発五ヶ年計画、これら満洲国三大国策の内、最も成功していたのが満洲産業開発五ヶ年計画であった。

 主に鉱工業を中心に一九三七年から四一年の五年間で二十五億八〇〇〇万円の予算を投入して行われた満洲国における工業振興政策は、三四年から始まった満洲におけるイギリスとの経済提携とそれに伴う資本や技術の導入、そして北満と遼河で相次いで油田が発見されたことで、当初の計画以上の成功を収めていた(もちろん、計画通りにいかなかった部門もあるが、総合的に見れば成功していた)。

 岸信介はこの計画を、満洲国総務庁次長として主導したのである。

 日本国内における重要産業五ヶ年計画は、満洲における五ヶ年計画と軌を一にする形で一九三七年、当時参謀本部作戦部長であった石原莞爾の構想の下に策定されたもので、三七年五月、陸軍省より正式に宇垣内閣に請議され閣議決定、こちらも概ね成功裏に終わっている。

 特に、一九四〇(昭和十五)年に東京で夏季オリンピック、札幌で冬季オリンピックが予定されていたことが、日本の経済成長を後押しした。オリンピックの開催に備え、特に国内のインフラ設備の整備が急がれたからだ。

 東京―下関間の弾丸列車構想も、この過程で実行に移されることになっている。

 特に一九四〇年は皇紀二六〇〇年でもあったから、本来であれば大日本帝国にとって華々しい祝祭の年となるはずであった(戦艦大和の進水式公開も、こうした国威発揚の一環として行われた)。

 しかし、オリンピックは第二次欧州大戦の影響で中止され、皇紀二六〇〇年奉祝式典に合せて開催される予定であった万国博覧会(国際博覧会条約上、前回の開催から二年以上空けないと開催出来ないのであるが、「特殊博覧会」として開催が認められた)も取り止めとなり、結局、皇紀二六〇〇年の奉祝記念行事だけが行われたに過ぎなかった。

 とはいえ、年々増大する貨物輸送により国内の交通網の強化が叫ばれていたのは事実であるから、重要産業五ヶ年計画は、この頃の日本にとって当を得た経済国策であったといえよう。

 なお、これらの五ヶ年計画を実行するに当たって最大の問題となったのは原材料の輸入よる貿易赤字であったが、この計画が実施される以前からすでに始まっていた日本産業の重化学工業化は船舶や自動車などの日本製品の輸出促進を加速させており、貿易収支は辛うじて均衡を維持することに成功している。

 特に中国における第二次国共内戦、欧州におけるスペイン内戦、そして第二次欧州大戦は日本の造船業や自動車産業にとって追い風となり、こうした一九三〇年代後半に世界各地で紛争が相次いだことも、日本経済を支える要因となった。

 そうした国内の重化学工業化の進展は、必然的に労働人口を農村から吸収することにも繋がった。

 岸は、日本国内ですでに発生し、そして満洲国でも進みつつある経済構造の変化を自覚していたのである。


「北満から開拓民を引き揚げさせるとして、その時期はいつにいたしますか?」


 そう発言したのは、逓信相・田尻昌次である。

 すでに議論が満蒙開拓団の引き揚げという方向に進みつつあるのを見て、内地に引き揚げさせるための船舶や鉄道をどう確保するのかという点から、彼は言葉を発したのである。

 彼は陸軍内部で「船舶の神様」とまで称されるように、船舶輸送を中心とする兵站の専門家であった。

 いざ対ソ開戦ということになれば、満洲・朝鮮への軍事輸送と開拓団引き揚げは競合する。もちろん、往路で兵員や軍需物資を運び、復路で避難民を乗せるという方法もあるが、それでは避難が遅れ徒に戦火に晒される開拓民も出てしまう。また、傷病兵などを内地ヘ後送する際にも、開拓民との競合関係が生じる恐れがあった。

 また、満洲の鉄鉱石や石炭、石油を日本国内に輸送するという観点からも、復路で開拓団を避難させるというのは、戦時における船舶輸送を圧迫させかねない要因となり得た。

 だからこそ満蒙開拓団の引き揚げはなるべく早い時期に行うべきと言うのが、田尻の主張であった。


「皆さん、満蒙移民の避難問題も重要でしょうが、まずはイギリス人技術者など満洲国内に滞在する外国人の退避を優先させなければ、帝国は鼎の軽重を問われることになりますぞ?」


 議論に釘を刺すように、吉田茂が言った。満洲における日英の経済提携が進み、特に油田開発が進むに従って満洲に在住するイギリス人の数は増えていた。また、母国がナチス・ドイツに占領されたために帰国出来なくなったフランス人なども、満州国内に在住している。満洲が戦場になる可能性を考えれば、彼らに事前に避難を促すことも重要であった。

 だが、吉田の指摘に東條が苦い声で反論した。


「とはいえ、我が国の方からイギリス人の満洲国外への退避を勧告するとなりますと、まるで我が国の方からソ連に戦争を仕掛けようとしているが如き印象を与えることになりましょう。出来れば、イギリス政府の側から、満洲国在住のイギリス人に対して退避を促すのが望ましいでしょう」


「それは我々外交官の仕事ですが故、ご心配なく」


 陸相が外務省に指図するような物言いに聞こえたからか、吉田は皮肉っぽく応じた。

 満蒙開拓団を満ソ国境地帯から退避させるという閣議の流れに、ついに石黒も抗えなくなり、最終的に北満地域の満蒙開拓団の引き揚げ・疎開および満蒙開拓団送り出しの“一時中止”が閣議決定されることとなった(一時中止というところに、各組織が面子を保とうとする意図が見え隠れしている)。

 石黒が粘れば閣内不一致で第二次山梨内閣が総辞職する可能性もあったのであるが、陸軍にすら半ば切り捨てられるような形となった彼に、そこまでして満蒙移民政策に固執するだけの理由を見出せなかったのである。

 結局、満蒙移民政策を推進した一人である石黒は、農林相の立場で自らの進めた政策の後始末に奔走するという皮肉な立場になったと言える。また、それこそが山梨が彼に求めていた役割でもあった。

 ただし、満蒙開拓団の疎開・引き揚げの閣議決定は、徒にソ連を刺激しないために公表されることはなかった。

 まだ、日本には対ソ戦を戦い抜くだけの自信を持ち得ていなかったのである。

 1940年に日本で夏冬オリンピックが開催され、東京で万国博覧会が催され、8月に戦艦大和の進水式が公開され、11月に紀元二千六百年式典が行われた、そんな夢のような世界線の日本が見てみたいです。

 しかし、作中では日中戦争は発生していませんが第二次欧州大戦は勃発してしまっていましたので、筆者としても泣く泣くオリンピックと万博は中止という設定にせざるを得ませんでした。

 すべてが実現していれば、まさしく「御民我(みたみわれ) 生ける(しるし)あり 天地(あめつち)の 栄ゆる時に あへらく思へば」という海犬養岡麻呂の歌の通りの日本になったでしょう。


【小平権一】(1884年~1976年)

 農林官僚。農本主義者。

 「農政の大御所」と呼ばれた石黒忠篤の腹心として、自作農創設・小作立法・小作調停という農地対策の立法化に取り組む。

 東京帝国大学農科大学出身で、後に満蒙移民を推進することになる橋本傳左衞門や農政学者である有馬頼寧とは同期。一期後輩に、やはり満蒙移民を推進する加藤完治がいる。

 1932年の時局匡救会議を通して実施されることになった農山漁村更生計画に伴い農林省に設置された経済更生部においては、部長を務めた。

 1936年、経済更生部長のまま関東軍顧問となり、満洲国の農業政策や満蒙移民政策の策定に関わっていく。

 1939年、農林省を退官後、満洲糧穀株式会社理事長、興農合作社中央会理事長を兼任、1941年3月に満洲国経済顧問となり、8月には満洲国参議となる。この間、満洲国農政の中心的存在であった。

 1942年2月、長野県三区から衆議院議員に立候補し、当選。

 戦後は農林中央金庫監事、協同組合短期大学教授などを務める。

 伝記資料に『小平権一と近代農政』(日本評論社、1985年)がある。

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