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北溟のアナバシス  作者: 三笠 陣@第5回一二三書房WEB小説大賞銀賞受賞
第二章 北方の赤い影編

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24 第二次山梨勝之進内閣

 一九四四年四月十六日、組閣を終えた第二次山梨勝之進内閣は最初の閣議を開いた。

 議題は、日米・日ソ関係の緊張緩和であった。


「まず、外務大臣の立場として言わせもらいますが」


 閣議の口火を切ったのは、外相となった吉田茂であった。まるで首相のようなふてぶてしい態度で、葉巻をくゆらしている。


「日米関係は依然として緊張状態にありますが、まあ、米国の側から戦争を仕掛けてくるようなことはないでしょう」


 吉田は特に誰かを見て言ったわけではなかったが、その発言がアメリカを仮想敵国とする海軍に対して釘を刺そうとするものであることは、この場の誰もが判っていた。

 この新外相は、そもそも海軍に対して良い感情を抱いていない。

 一九三〇(昭和五)年にロンドン海軍軍縮会議が開催された時期、吉田は幣原喜重郎外相の下で外務次官を務めていた。幣原外相、そして世界恐慌の影響などから緊縮財政を目指す浜口雄幸内閣としては、補助艦の保有比率は海軍の主張する対米七割ではなく、六割が望ましいと考えていたのである。

 戦艦十二隻を保有する海軍の経常予算は、第一次世界大戦の戦後不況からいち早く脱し、重工業の発展に伴って経済成長を続けている日本にとっても重荷であったのだ。

 また、アメリカ側はワシントン海軍軍縮条約で定められた日本の主力艦保有比率対米七十二・五パーセントを過大であると認識しており、その意味でも日米関係の改善、太平洋上の緊張緩和という観点からすれば、ロンドン会議では補助艦六割で我慢すべきというのが幣原や吉田、そして浜口の意見であった。

 しかし、ワシントン海軍軍縮会議で望外な結果を手にした海軍は、今回も七割を主張して譲らなかった。特に当時の軍令部長・加藤寛治(ひろはる)大将、次長・末次信正中将は七割を主張する強硬派であり、皇族軍人であり海軍長老でもあった伏見宮博恭(ひろやす)王も彼らを支持していた。

 今、吉田の目の前にいる山梨勝之進首相、そして堀悌吉海相は、それぞれロンドン海軍軍縮会議当時の海軍次官、海軍省軍務局長である。そして彼らも、国際協調の観点から条約を妥結させることの重要性は理解していたが、最初から日本側が六割を主張する必要性もないと感じていた。

 ワシントン海軍軍縮会議における海軍の成功体験は、ロンドン海軍軍縮会議における交渉姿勢にも影響を及ぼしていたのである。

 こうした浜口内閣・外務省と海軍との意見の相違が、今も吉田が海軍に悪印象を抱いている原因であった。

 さらに浜口内閣は、海軍が七割を主張しているにもかかわらず六割に甘んじようとする姿勢を政友会の鳩山一郎や犬養毅から統帥権の干犯であると攻撃され、それに感化された右翼青年・佐郷屋留雄に浜口首相が銃撃されるという憂き目にも遭っている。

 その意味でも、吉田の海軍に対する心象は悪かった。

 それでも、かつての第一次山梨勝之進内閣で外相に就任することになったのは、岳父である重臣・牧野伸顕(のぶあき)から特に請われたからであった(吉田の最初の妻・雪子は牧野の娘)。

 とはいえ、吉田にとってみれば海軍内部で国際協調派などと言われる山梨や堀も、本質的には加藤寛治や末次信正と変わらないという認識であった。だから必然的に、彼らに対する態度は不遜で横柄なものになってしまう。

 天皇から外交大権を預かる外相という立場が、なおさら吉田のそうした態度を強めていた。


「海軍としても、外相の意見には同意します」


 とはいえ、吉田のそうした人間的な欠陥にいちいち腹を立てるほど、堀も人の上に立つ者としての鷹揚さに欠けているわけではない。

 再び首相となった山梨も、第一次内閣の頃から吉田の性格は知悉しているので、微苦笑を浮かべてその発言を見守っているだけだった。


「米国大統領ルーズベルトは海軍出身であり、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の経緯から我が帝国海軍に対して面白からざる感情を抱いていることは確かでしょうが、日米戦に自ら踏み切ろうとするほどの決断を下そうとするとは思えません。こちらから軍事的な挑発行為を行わない限り、米国に経済制裁や開戦の口実を与えることはないでしょう」


「それに、今年は大統領選挙の年ですからな」


 堀の冷静な対応に、いささか面白くなさそうな表情をしている吉田が返した。


「かの大統領は、我が帝国やドイツの政治体制や外交政策を批判しつつも、米国民に対し自分から戦端を開く意思はないことを事あるごとに明言しています。選挙を控えている最中に、そうした外交的・軍事的冒険に出てくることはありますまい」


「そうなりますと、やはり懸案は日ソ関係ですな」


 文相として入閣した立憲政友会総裁・三土忠造が指摘する。

 憲政の常道に基づけば本来の首相は彼であったはずなのだが、首相の座への未練はまったく見せていない。むしろ、挙国一致内閣の名の下に入閣しなければならなかったことを、若干迷惑にも感じているようであった。

 彼としては、内閣を総辞職に追い込むほど過敏な問題である対ソ外交を首相として担うことは、かえって自らの政治的失点を増やすだけになると考えている節があり、今の時期に首相になることは火中の栗を拾うも同然であると認識していた。

 出来れば閣外から政権を批判する気楽な立場でありたかったというのに、なまじ入閣してしまったために内閣に協力せざるを得ず、難しい立場に置かれてしまったのである。

 挙国一致内閣である以上、下手な入閣拒否や政権批判、あるいは政権への非協力的な態度は、政治的に命取りになりかねないのだ。

 とりあえず三土は対ソ外交の話題を振り、他の閣僚の様子を見ることにする。


「陸軍としては、日ソ関係の緊張緩和は非常に厳しいと意見せざるを得ません」


 対ソ外交という議題でまず口を開いたのは、堀と同じく前内閣から引き続き陸相を務める東條英機であった。


「現地関東軍が在極東ソ連軍の無線通信を傍受したところによりますと、昨年のスターリン首相の“侵略国”発言以来、無線通信の中に“プローチウニク・ヤポーニヤ”という表現が多用されていることです。これは、“敵国日本”という意味で、ソ連軍は明らかに中立条約に反し満洲ないし朝鮮への侵攻を企てているものと判断せざるを得ません」


 東條の声は険しかった。それに引き続いて発言したのは、海相の堀であった。


「三月末に日ソ漁業条約が更新されたにもかかわらず、千島列島およびカムチャッカ沖では本邦漁船に対するソ連官憲の不当な取り締り行為が相次いでおり、中にはソ連側警備艇からの銃撃を受けて死亡した漁船員もおります。正直、第五艦隊のみでは対応が難しくなりつつあるのが現状です」


「やはり、アカどもは信用ならんというわけでな」


 二人の軍部大臣の発言に便乗したのは、吉田茂であった。共産主義を嫌う吉田にとってみれば、ここ数年のソ連の対日姿勢は傲岸不遜なものに映っており、それがますます彼の共産主義への嫌悪を増大させていた。


「もちろん、こちらから手を出すようなことをするつもりはありません」


 他の者から懸念を持たれる前に、東條はそう言った。


「しかし、ソ連側が攻め寄せてくるとなれば、相応の対策は必要でしょう。最早日ソ関係は外交問題ではなく、軍事問題に移行しつつあるものと、私は考えます」


「しかし、ソ連とは先日、日ソ漁業条約の五年延長を合意したばかりではないか」


 ソ連の対日侵攻という可能性に否定的なのは、鉄道相・櫻内幸雄であった。彼は立憲民政党の新総裁に就任したということもあり、前総裁・町田忠治の外交成果を無に帰すようなソ連の対日侵攻という可能性を考えたくない、という心理が働いていた。

 それは、民政党の面子を潰しかねない問題であったからである。


「それに、日ソ中立条約の期限は昭和二十一年だ。そのような条約違反を犯せば、現在は比較的ソ連に宥和的なアメリカの態度を硬化させかねないのではないか?」


「どうにもルーズベルト大統領はアカどもに親近感を抱いているようですからな、どうでしょうなぁ?」


 そう皮肉たっぷりに櫻内に言ったのは、吉田茂であった。


「陸軍の立場としては、外交一本でソ連に相対する時期ではないと、はっきり申し上げておきます」


 対ソ関係を楽観視しようとする櫻内に釘を刺すように、東條も言う。


「この上は、和戦両面で臨むことが時局に最も適したものであると考えます」


 ソ連、そして共産主義の脅威に対抗するために成立した第二次山梨勝之進内閣において、櫻内の意見は孤立していた。

 すでに閣僚の多くはソ連の脅威を現実のものとして認識し、その前提の上に閣議を進めようとしていたのである。

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