23 アメリカの目
ルーズベルト政権は、日本の内閣交代を注視していた。
アメリカ側から日本の内閣交代を見れば、それは民主主義政権から軍閥政権への転換であったからだ。
一九四四年四月十日(現地時間)、ホワイトハウスで行われたルーズベルト大統領・ハル国務長官と野村大使・山本特使との会談では、真っ先にアメリカ側は日本の内閣交代を話題に出した。
「日本に新首相が誕生したとのこと。まずは山梨総理に対し合衆国を代表してその就任を祝すと申し伝え下さい」
ルーズベルト大統領は、表面上は友好的な態度でそう切り出した。
「山梨総理は第一次内閣時に軍部大臣文官制を導入した、非常に自由主義的な軍人でありますから、合衆国としてもアドミラル・山梨が再び首相の座に就いたことは、米日関係の前途に明るいものを感じております」
「大統領閣下のお言葉、必ずや本国に伝えましょう」
野村吉三郎大使も、慇懃な態度をもって応じる。
「大統領閣下も海軍次官を務めたご経験があり、英国首相チャーチル氏もまた海軍出身。これで三大海軍国の政権を海軍出身者が担うことになり、本使としてもこれを機に日米英三ヶ国の相互理解が進むことを願うものです」
「ええ、そうありたいものです」
「そこでなのですが、いずれかの早い時期に山梨総理と大統領閣下との間で首脳会談を開き、両国間の懸案事項に対する忌憚のない意見交換をすべきかと存じます。また、帝国はすでに英国との間に不可侵条約を結んでおり、これに貴国も加わっていただくことが太平洋の平和と安定に資するものであると本使は愚考しております」
「野村大使」
ここで、ハル国務長官が口を挟んだ。その表情には、野村への懐疑的な感情が浮かんでいた。
「米日首脳会談については、米日間に何らかの事前合意がなされていない状況で行う価値があるのかどうか疑問です。これまで我が国は貴国に対し、領土主権の尊重、機会均等、内政不干渉、太平洋の現状維持の四原則が我が国の対日外交の大前提であるとたびたび申し上げてきた。にもかかわらず、貴国はそうした点に関して、これまで明確な回答を行ってこなかった。まずは私が何度も申し上げている四原則に貴国が回答し、それを土台にして首脳会談を行うのが筋でありましょう」
「それについては、本使もたびたび、太平洋の平和と安定は我が国も望むところである旨、国務長官閣下に申し上げてきたはずです。そうした意味で、首脳会談の実施は太平洋の緊張緩和を両国国民に示す絶好の機会であると考えます」
「貴国の言われる“太平洋の緊張緩和”とは、フィリピン以東のものであるように見受けられます。現在行われている貴国の南シナ海スプラトリー諸島の基地化問題、そして中国大陸における領土保全と機会均等の侵害など、こうした問題が解決されない限り、太平洋における緊張緩和はあり得ません。四原則は、それ自体が表裏一体のものなのです」
「貴国にとって中南米問題が重要であるのと同様、我が国にとっても近隣諸国である支那および満洲問題は重要なのです。地理的に近い国家・地域同士には特殊の関係が生じることを、貴国も十分に理解しておられるはず」
「我が国は中南米諸国に対する過去の干渉主義を否定し、善隣主義をとっております。貴国の如き、武力で近隣諸国の領土を脅かすようなことを、すでに改めているのです。歴史を繰り返すのみでは、人類の進歩はない。貴国もこの点について十分に思い致すべきでしょう」
実際、ハルは国務長官としてそれまで米国の伝統的外交政策であった中南米諸国への干渉主義を否定し、駐留米軍の撤兵などを実現させていた。
また、一九三四年には互恵通商協定法を成立させてている。この法は、それまで高関税の国として有名であったアメリカに低関税を導入したという点で画期的なものであった。互恵通商協定法は、大統領に現行関税率を半分にまで引き下げる権限を与えたものであり、これにより主に中南米諸国を中心に互恵通商協定を締結することに成功している。
こうした実績がハルにとって自己の理論の正しさを支える根拠となっていたのだが、一方で互恵通商協定法で大統領に関税を引き下げる権限を与えられた商品の数は限られており、必ずしもハルの目論見通りの成果を挙げられているとは言い難い面があったのもの事実であった。
「国務長官閣下。閣下はたびたび我が国が貴国の在支権益を脅かしていると言われるが、我が国の権益はあくまで満洲地域に限定されており、華北以南の地域にある貴国の権益を脅かしたという事実はありません」
野村は、強い口調でそう断言した。
そもそも、アメリカは中国大陸への進出が他の列強諸国に遅れ、すでに鉄道権益やそれに付随する鉱山などの権益は日本や英国などが独占している状況であった。
そうした点からアメリカは中国市場の門戸開放を唱えてきたのであるが、実際のところアメリカは一九三〇年代以降、中国における航空航路権益や通信権益を獲得することに成功している。これにより、アメリカの航空輸送会社が中国の航空輸送事業に参入し、また未発達な中国全土に通信網を敷設する事業にもアメリカ企業が積極的に関わっていた。
「野村大使。私が問題としているのは、将来にわたって日本が中国の一部地域の権益を独占し続けることです。現在、貴国が我が国の在華権益を脅かしているか否かは問題にしていない。満洲事変とその後の満洲国建国、貴国のこうした振る舞いは、九ヵ国条約で定められた中国の領土保全と機会均等の理念に真っ向から反している」
「ですから、その点については我が国と支那・満洲とは特殊な関係もあるのだと申し上げてきました。また、貴国もかつて石井・ランシング協定で我が国の満洲における特殊地位を承認されたはずです。現在、支那では国民党と共産党による内戦が継続しており、満洲は支那大陸において唯一、安定した地域となっております。日本としては、共産主義の脅威からせめて満洲だけも守ることが、東亜の安定に繋がるものであると確信しております」
「野村大使」
今度は、ルーズベルト大統領が口を開いた。
「貴国は皇帝を頂く国家であるためであろうが、いささか共産主義への過剰な警戒が見られますな。中国における内戦は確かに憂慮すべき問題ではありますが、中国共産党による活動はあくまで啓蒙運動に過ぎないと私は考えております」
「それは実際に赤化の脅威に直接遭遇されたことがないから、そうお考えになるのでしょう。現に、ソビエト連邦は我が国と中立条約を結んでいるにもかかわらず、たびたびそれに違反する行動を行い、我が国や満洲国を脅かしております。貴国がナチス・ドイツの全体主義を警戒するのと同様に、我が国はソ連や中国の共産主義を警戒しているのです。これについては、英国のチャーチル首相も意見を同じくしております」
「だとしても、貴国が満洲に駐兵し、その権益を独占する正当な理由にはなりますまい」
今度は、ハル長官が指摘する。
「大統領閣下、国務長官閣下」
ここで、山本五十六が口を開いた。
「例えばの話をいたしましょう。仮に、貴国にほど近いキューバなどカリブ海諸国にナチス・ドイツが海軍基地や飛行場を造ったとしたら、貴国はそれを座視することが出来ますかな? 私は航空機については一家言持っておりましてな、ここ十年ほどで航空機は驚くほどその性能を進化させております。沿海州だけでなく支那東北部すべてがソビエトの勢力圏となれば、我が国の国民は常にソビエトによる頭上からの恐怖に晒され続けることになるのです。これは、支那が赤化した場合でも同様です」
「キューバにナチス・ドイツの基地、というのはいささか飛躍した想定ではないですかな?」
ハル長官は、山本の発言に渋面を浮かべた。
「そうですかな? ドイツの戦艦ビスマルクが一九四一年、第二次欧州大戦終結一周年を期にラプラタ沖で自沈したアドミラル・グラーフ・シュペー乗員の慰霊および南米諸国への親善訪問を行った記憶が私にはあるのですが?」
その指摘に、ルーズベルトもハルも苦い表情を浮かべた。
合衆国にとって裏庭ともいえるカリブ海諸国や中南米諸国であるが、実は一部でナチス・ドイツが影響力を拡大しつつあったのである。その中でもドイツ系移民が多いブラジルとアルゼンチンは親独傾向が強く、特にアルゼンチンでは親独的な政府高官であるフアン・ペロンが政権内での存在感を増しつつあるなど、南米情勢には不穏なものがあった。
ドイツ戦艦ビスマルクの南米諸国訪問は、そうした傾向をより加速させる影響をもたらしていた。
アメリカがソ連だけでなく南米諸国にも旧式艦艇を売却したのには、自国の南米諸国への影響力を維持し続けたいという思惑があったのである。
「貴国はたびたびナチス・ドイツの掲げる全体主義の脅威を主張し、実際に両洋艦隊法を制定して我が帝国海軍を上回る艦隊を整備されようとなさっている。にもかかわらず、我が国に対しては共産主義は脅威ではないと説かれる。共産主義も全体主義も、独裁という点では違いありますまい。要は、ナチス党が政権を担っているか、共産党が政権を担っているかの違いでしょう。全体主義は脅威で、共産主義は啓蒙的であるという貴国の認識には、私は賛同いたしかねます」
「……アドミラル・山本、イデオロギーに関する話題は今回の会談の主題ではない」
ハルは、話題を変えにかかった。
「我が国が問題としているのは、あくまでも中国と太平洋の問題です」
「どうやらこの点に関して、我が国と貴国との間での意見の隔たりは依然として大きいようですな」
山本は、何食わぬ顔で言った。彼は、一時的にでも会話の主導権を握れたことは大きな成果であると感じていた。
「ただ、一点、連合艦隊司令長官を務めた者の立場から言わせてもらいますが、太平洋の緊張緩和は私としても望ましいと感じております。日米間の緊張関係が長く続くことは、両国にとって決して好ましい影響は与えませんからな。大和も武蔵も、錆びて朽ちゆくことが帝国にとって最も望ましい未来なのです」
「我が国も、アイオワやニュージャージーがいずれスクラップとして民需の役に立つ未来を希望していることに変わりはありません。海軍出身者の発言としては、問題でしょうがな」
ルーズベルトは皮肉そうに、山本にそう返した。
結局、両国の会談は平行線のまま、この日も終わったのだった。




