22 挙国一致内閣
戦艦信濃が横須賀にて竣工引渡式を執り行っているのと同じ一九四四年四月七日、町田忠治内閣が総辞職した。
町田内閣の総辞職によって問題となったのは、後継首班を誰にするのか、ということであった。
憲政の常道という考え方からすれば、野党第一党である立憲政友会が政府与党となり、その総裁である三土忠造に大命が下るのが本来の政党政治の在り方であった。
しかし、一九三二(昭和七)年の五・一五事件によって一時途絶えていた政党政治は、まだ完全に復活したとは言えなかった。
当初は中間内閣と考えられていた斎藤実内閣、岡田啓介内閣の後も、一九三六(昭和十一)年の二・二六事件の影響により政党出身者でない者が首相や国務大臣を務める事態が長く続いていたからである。
二・二六事件後、事件の収拾と軍部の綱紀粛正、そして国内の安定化を担うべく誕生したのが、山梨勝之進内閣であった。
岡田啓介内閣で海相を務め、天皇の信頼も厚かったこの海軍軍人が総理大臣時代に行った最大の功績は、軍部大臣文官制の導入であった。加藤友三郎海相の頃に海軍内部で一時的に論じられていた軍部大臣文官制を、山梨は天皇からの信任の下に断行したのである。
山梨内閣の下で海軍大臣を務めることになった寺島健大将もこれに協力し、陸軍大臣・寺内寿一大将も天皇の威光に半ば押し切られる形で文官制の導入に同意した。なお、陸軍次官として二・二六事件後の粛軍人事を断行した梅津美治郎は文官制導入に前向きであり、そうしたことも軍部大臣文官制導入が断行出来た要因であった。
とはいえ、その後も軍部大臣はそれぞれ陸海軍出身者が務め、一九四四年現在、未だ純粋な文官が軍部大臣となった事例はない。
そして、山梨は軍部大臣文官制の導入によって自らの中間内閣としての役目を終えたと考え、議会で昭和十二年度予算が協賛されるのを見届けると、首相の座に固執することなく辞職した。
こうした潔い態度がますます天皇の信頼を厚くしたのか、首相退任後の山梨は軍事参議官兼任のまま学習院院長に就任している(軍事参議官兼任のまま学習院院長に就任した事例には、乃木希典がいる)。これは、皇太子の学習院入学が一九四〇年に控えていたため、そのための準備を山梨に任せようとしたためであると言われている。
しかし、自らの役割を終えたと山梨が考えて辞任した後も、政党内閣の復活はなかった。この当時、唯一生き残っていた元老・西園寺公望は依然として軍部勢力の復権を懸念しており、国民もまた政党政治への不信が甚だしかったのである。
結果、山梨の後を継いで内閣を担ったのは、陸軍出身ながら政党政治に協力的な姿勢を示していた宇垣一成であった(ただし、昭和天皇の宇垣への信頼は低かった)。
同時期、近衛文麿が無産政党として議席を伸ばしつつあった社会大衆党への接近を強めていた。
社会大衆党は革新を唱える無産政党ながら親陸軍的な政党であり、特に陸軍が主張する反資本主義的な統制経済を支持していた。一九三四(昭和九)年十月に陸軍省新聞班が発行したパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』を評価し、社会改革のためには軍と無産階級との結合が必要であると説く者まで現れているほどであった。
ある意味で、ファシズム的な政党へと社会大衆党は変容しつつあったのである。
そして当然ながら、社大党の中には立憲政友会や立憲民政党を降して衆議院第一党になりたいと考える者たちもいた。
この結果、一九三八年八月、社大党書記長であった麻生久や亀井貫一郎、そして立憲政友会を抜け近衛への接近を強めていた久原房之助らを中心とした人物たちが近衛文麿の下に集まり、近衛の私的な政策研究団体・昭和研究会の者たちも取り込んで、全体主義的な色彩を強く放つ新政党「大日本党」が結成された。
特に結党の少し前まで亀井貫一郎はヨーロッパ視察に出掛け、そこでナチスにひどく感銘を受けたと言われているから、なおさら大日本党は全体主義を強く標榜する政党となった。
しかし、政友会と民政党には辟易としていた国民は、未だ若いといえる近衛に対する期待もあり、この新党を歓迎した。
一方、政友会、民政党は、二・二六事件直後の中間内閣である山梨勝之進内閣が事件の処理を終えると再び政党内閣の時代が来ると期待したものの、宇垣内閣の成立でその期待が外れたことで、議会における宇垣内閣への協力に消極的であった。
これに対抗した宇垣は、親軍的な近衛の大日本党の支持を得るために衆議院解散に打って出、結果として近衛への国民の期待もあって大日本党が躍進を遂げたものの、それは宇垣と近衛による政権の座を巡る新たな権力闘争の始まりでもあった。
一九三九年九月に勃発した第二次欧州大戦は、国際情勢の緊張化の中で一時的に宇垣内閣と政党との協調をもたらしたものの、翌四〇年七月に大戦が終結すると再び両者の関係は悪化した。
宇垣はなおも政権にしがみつく姿勢を見せていたものの、政友会、民政党、そして親軍的なはずの大日本党の非協力的な態度もあって政権運営は困難となり、第二次欧州大戦の終結からしばらくして、総辞職を余儀なくされた。
この結果、七月二十二日、近衛文麿に大命が降下し、いささか歪な形ながらも政党内閣が復活することとなったのである。
しかし、近衛内閣は外相に就任した松岡洋右のある意味で奔放ともいえる外交方針に振り回された感があり、第二次欧州大戦終結の結果、実現が望まれていた日ソ中立条約を成立させるなどの成果があったものの、近衛と松岡の間で政権運営に対する溝が深まり、嫌気が差した近衛が内閣を投げ出したことで崩壊した。
結果、「憲政の常道」の理論に基づき、野党第二党であった立憲民政党が政権を担うことになった。第二次若槻礼次郎内閣以来、約十年ぶりに民政党系内閣が成立することとなったのである。
首相に就任すると、町田忠治は憲政の常道にとっておなじみともいえる就任直後の衆議院解散を行い、立憲民政党が第一党となることに成功してその政権基盤を安定化させた。
その町田内閣が総辞職したのだから、野党第一党である立憲政友会が次の政権を担うはずであった。
ちなみに、近衛新党であった大日本党は、近衛が党首すら投げ出したことで内部抗争が始まって、いくつかの小政党に分裂してしまっている。
しかし、この国際情勢が困難な時期に政党内閣を選ぶべきなのかという不安は、天皇や国民の間にもあり、また政友会総裁・三土忠造もこの時期に内閣を引き受けることを、ある種の貧乏くじのように感じていた。
結果、天皇の諮問もあり、次の内閣を選出するための重臣会議が開かれることになった。これは、西園寺公望の死去によって不在となった元老に代わるものであり、会議は枢密院議長や首相経験者などから構成されている。
重臣会議では、現下の国際情勢に対処するには挙国一致内閣が最も望ましいと結論を出し、その首班として山梨勝之進を推奏した。
この時、学習院院長となっていた山梨は、天皇から特に請われたこともあり、一九四四年四月七日、再び首相の座に就くこととなったのである。
第二次山梨勝之進内閣の主要閣僚は、次の通りである。
内閣総理大臣:山梨勝之進(予備役海軍大将)
外務大臣:吉田茂(外務官僚。第一次山梨内閣時の外相)
大蔵大臣:賀屋興宣(大蔵官僚。貴族院勅選議員)
陸軍大臣:東條英機(陸軍大将)
海軍大臣:堀悌吉(海軍大将)
内務大臣:山崎巌(警視総監)
文部大臣:三土忠造(立憲政友会総裁)
司法大臣:林頼三郎(中央大学学長。元検事総長)
商工大臣:岸信介(商工官僚。満洲国官僚)
農林大臣:石黒忠篤(元農林官僚。貴族院勅選議員)
逓信大臣:田尻昌次(陸軍大将)
鉄道大臣:櫻内幸雄(立憲民政党新総裁)
拓務大臣:小日山直登(満鉄総裁)
厚生大臣:小泉親彦(陸軍軍医中将)
閣僚の顔ぶれを見ると、戦時色の強い、特に対ソ戦を意識した陣容となっていることが判る。
蔵相の賀屋興宣は大蔵官僚として主計局長を務め、陸海軍との予算折衝の最前線に立っていた経験もあり戦時財政にも適性があると見做されていた。
内相の山崎巌は内務三役(内務次官、警視総監、警保局長)を歴任し、治安維持法を擁護する反共産主義思想の持ち主でもあった。
司法相の林頼三郎も、検事として実際に治安維持法の運用に携わった経験を持つ。一方で中央大学の学長を務めていることからも判るように教育振興に力を入れているという一面もあり、こうした点が自らも学習院院長を務め、また玉川学園の創立者である小原國芳を支援している山梨の目に留まったのである。
商工大臣の岸信介は満洲国官僚として満洲産業開発五ヶ年計画を推進して計画経済・統制経済で実績を挙げた人物であった。
逓信大臣となった田尻昌次陸軍大将は、陸軍運輸本部長、第一船舶輸送司令官を務めるなど「船舶の神様」の異名を取る兵站の専門家である。
また、拓務大臣の小日山直登は東京帝大卒業後に満鉄に入社、それまで時の政権によって外部から就任してきた総裁(時期によっては「社長」という呼称になる)と違い、社員からの叩き上げの総裁であった。総裁に就任するまでの間、昭和製鋼所社長など歴任し、満洲の交通・産業問題などに詳しいと見込まれて、拓務大臣に抜擢されたのである(鉄道相での入閣とならなかったのは、山梨が挙国一致内閣を目指したために、鉄道事業や電気事業に携わっていた立憲民政党新総裁の櫻内幸雄に鉄道相の地位を割り当てたため)。
ただし、かつて拓務省は植民地の国策会社である満鉄の業務監督権を持っていたものの、一九三四年の対満事務局の設置によって満鉄の業務監督権がそちらに移管されていた。
対満事務局は内閣総理大臣直属ではあったが、その歴代総裁は代々陸軍軍人が担うなど、陸軍主導の組織であった。
現在の総裁も、東條陸相が兼任で担っている。
山梨勝之進は小日山の入閣に際して、東條に対満事務局総裁の地位を小日山に譲るよう説得したというが、東條が対ソ戦の観点からそれを拒絶した。そのため、小日山の拓相・対満事務局総裁の兼任という、彼の能力を最大限に活かせるだろう配置にすることが出来なかったという経緯がある。
そのため、小日山が拓相として満鉄総裁時代の経験や知識をどこまで活かすことが出来るのかは、かなり怪しい部分があったのである。
首相である山梨としては、閣議の席で東條と小日山との連携を図らせるしかないと考えていた。
第二次山梨勝之進内閣はそうした対満政策の分裂を修復出来ないままに、懸案となっている日ソ関係の調整に奔走することを運命付けられた内閣であったといえよう。




