99 二律背反の軍令部
霞ヶ関の軍令部では、まさにその問題を議論しているところであった。
「北太平洋小艦隊を撃滅したとはいえ、依然として極東海域に展開するソ連海軍兵力は強大です」
軍令部第一部では、第一課長(作戦課長)の山本親雄大佐が第一部長の中澤佑少将に向かってそう言っていた。
「たった五隻の艦隊に、我が帝国海軍がこれだけ翻弄されたのです。かくなる上は、根本的に問題を解決する必要があるでしょう」
「やはり、GF主力の日本海回航は避けられんか」
山本の言葉に、中澤は腕を組んで唸った。
軍令部としても、ソ連太平洋艦隊の撃滅は対ソ戦を有利に進めるためにも必須であると考えている。
日ソ開戦前から公海上で日本船舶に臨検を行い、船長などを不当に抑留してきたソ連海軍を、断乎として膺懲しなければ帝国海軍は鼎の軽重を問われることになるだろう。
そして、帝国海軍がソ連太平洋艦隊との決戦を避けるような姿勢を見せ続ければ、アメリカに対して帝国海軍与し易しとの印象を与えることになり、さらなる対日圧迫策に出てこないとも限らないのだ。
すでに東朝鮮沖海戦やアバチャ湾で帝国海軍はその実力の一端を示しているといえど、ソ連の宣伝効果もあってかえってアメリカの対日世論の硬化を招いている状況である。それはつまり、米国民たちが帝国海軍を侮っているからこその態度であろうと、中澤らは考えていた。
だからこそ、ここでソ連太平洋艦隊を完膚なきまでに壊滅させることが、アメリカに対する牽制にもなる。
しかし一方で、ソ連海軍撃滅のために連合艦隊主力が大きな損害をこうむれば、かえってアメリカに対する抑止力を失うことにも繋がりかねない危険性があった。
この二律背反によって、軍令部は未だ逡巡を捨てきれずにいたといえよう。
軍令部が連合艦隊に求めているのは、かつての日本海海戦のような完璧な勝利なのだ。間違っても、戦艦初瀬、八島を一挙に失うことになった旅順港閉塞作戦のような戦いではない。
日本海海戦での鮮やかな勝利の記憶と、貴重な戦艦を一度に二隻も失った苦い記憶。その二つの記憶が彼らの中にあるからこそ、海軍が第一の仮想敵国と定める米国と対峙する前に戦力を失うかもしれない可能性を恐れているのである。
「陸軍から沿海州上陸作戦の支援を要請されている以上、遅かれ早かれソ連太平洋艦隊との決戦は避けられません。ソ連海軍を撃滅し、対ソ戦を早期に終結させることが出来れば、GF主力はソ連艦隊の動向を気にすることなく、行動の自由を確保出来ましょう」
「私も、作戦課長の意見に同意いたします」
そう言ったのは、戦争指導担当の藤井茂大佐であった。
「その上で付け加えるのならば、ソ連艦隊の撃滅はなるべく早期に行うべきでありましょう」
「それはどういうことだ?」
藤井の言葉に、中澤部長が問い返す。
「十一月には米国で大統領選挙があります。つまりその間は、ルーズベルト政権は国内のことにかかり切りにならざるを得ないでしょう。選挙後、どのような政権が誕生するのかを完全に予測することは困難ですが、仮にルーズベルト政権が存続した場合、米国内世論の影響もあって、帝国に対する対外姿勢はより強硬なものとなっていくでしょう。その時、その対日圧迫策を跳ね返すのは、我が帝国海軍の実力に他なりません。それを世界に示すためにも、米大統領選挙以前のソ連太平洋艦隊の撃滅と、新大統領が就任する来年初頭までの損傷艦艇の修理完了を狙う必要があると考えます」
「なるほど。我が国としても、米大統領選挙の結果は重大な関心事項だ」
藤井の言葉に、中澤が頷いた。
「参謀本部も、出来れば九月中、遅くとも十月初旬までの沿海州上陸作戦を敢行したい肚のようだからな。冬の日本海は風浪が激しい。その前に、沿海州を取ってしまおうということだろう。その意味では、藤井くんの言う米大統領選挙前のソ連艦隊撃滅は狙えよう」
「ただ、今現在の問題もあります」
作戦班長(甲部員)の榎尾義男大佐が口を開く。
「先ほど山本課長もおっしゃられた通り、五隻のソ連艦隊に我が帝国海軍が翻弄された事実は無視出来ません。今回は幸いにもベロルシア撃沈に成功しましたが、一方でこのために第七艦隊は朝鮮と樺太という離れた海域で分断されてしまっております」
現在、第七艦隊は二つの部隊に分かれている。朝鮮方面には第六戦隊(青葉、衣笠、古鷹、加古)を中心とする田中頼三少将率いる艦隊があり、一方の樺太・北海道方面には第三戦隊(伊勢、日向)を中核とする五藤存知司令長官直率部隊があった。
ソ連軍が朝鮮および樺太への上陸作戦を試みたため、第七艦隊は艦隊兵力を分散させざるを得なくなっていたのである。
「依然としてウラジオの敵艦隊は脅威であり、特に朝鮮半島東岸の港湾施設や工業地帯を第六戦隊と若干の艦艇のみで守り切るには、なお不安なしとしません。実際、GF司令部には六戦隊の田中少将から最低でも一個水雷戦隊を増強してくれるよう、具申があったとのことです」
北鮮三港と言われる雄基・羅津・清津はすべて朝鮮半島東岸に位置し、清津には日本製鉄や三菱の製鉄所が、城津には日本高周波鋼業株式会社の特殊鋼製造工場が存在している。
この地域は日本海を経由した満洲国への最短経路であると共に、日本の戦争遂行能力を支える重要な工業地帯でもあったのだ。
そうした戦略的に重要な地域が、常にソ連太平洋艦隊による艦砲射撃の危険性に晒されていることは、確かに由々しきことであった。東朝鮮沖海戦で一度はソ連艦隊を退けたとはいえ、依然としてソヴィエツキー・ソユーズを初めとする敵戦艦部隊は健在なのだ。
「北鮮航路は現在、満洲東部からの避難民引き揚げ、そして陸軍の増援部隊を送り込むために重要な航路です。実際、六戦隊だけでなく、参謀本部からもこの航路の護衛に万全を期して欲しい旨、要請が来ておりますからな。常陸丸事件の二の舞は、避けねばなりません」
「しかし、陸軍からの要請にすべて応えていては切りがない」
中澤は悩ましげに言った。
「我々は我々で、カムチャッカへの上陸作戦の準備を進めておる。そこにウラジオ上陸作戦の支援と北鮮航路の護衛強化、ここ数日は空母部隊の遼東湾派遣の要請も来ておる。参謀本部の連中は、我々が艦隊を無尽蔵に出せる玉手箱でも持っていると思っているのか?」
ウラジオストク上陸作戦の支援と北鮮航路の護衛強化は、極論してしまえばソ連太平洋艦隊を撃滅してしまえば解決する問題である。しかし、そのためには連合艦隊主力を投じなければならない。
海軍独自のカムチャッカ半島上陸作戦にも相応の兵力を割かねばならないことを考えると、艦隊兵力をどの方面に、どれだけ投入するかというのは難しい問題であった。
さらにここで軍令部を悩ませていたが、参謀本部からの空母部隊(第三艦隊)の遼東湾派遣要請であった。
これは、中国の内蒙古地域を突破して満洲国南部に侵攻しようとするソ連軍を、海軍の航空兵力で阻止することを狙ったものであった。
ドイツ軍のように、ソ連軍が本来は中立であるはずの国家の領土を堂々と横切って侵攻しようとする事態は、参謀本部や関東軍にとって想定外のことであったようだ。
中国の領土を侵すことは、中国問題に敏感なアメリカを刺激しかねない。ルーズベルト大統領が日本に比べてソ連に好意的である以上、スターリンを始めとするソ連指導者層たちはいたずらにアメリカを刺激するようなことはないだろうと参謀本部や関東軍司令部は考えていたのであろう。
北満油田や遼河油田に重大な関心を持っている海軍も、ソ連軍の中国領侵犯の報に接するまではそうした可能性をほとんど考慮していなかった。だからこそ、油田を防衛する陸戦隊は満ソ国境に近い哈爾浜に配置していたのである。
しかし、そうした開戦前の想定は崩れている。
このまま中国領を横切って南満を目指しているソ連軍の存在を座視していては、遼河油田は危機に晒される。それだけでなく、遼東半島と新京方面との連絡が遮断され、日本からの増援部隊を満洲に派遣することすら困難となるのだ。
そのような事態となれば、関東軍は満州国内で包囲・殲滅されることになるだろう。
ソ連軍は中国領を侵犯して一挙に南満を突くことで、満洲に巨大な包囲網を形成しようとしているのだ。
その意味で、参謀本部の要請している空母部隊の遼東湾派遣は、妥当なものといえた。
「とはいえ、本日は満洲西部戦線において海陸両軍による航空総攻撃が実施される日です」
山本大佐が指摘する。
「第三艦隊には出撃準備を整えさせつつ、本日の航空総攻撃の戦果を確認してから判断すればよろしいのではないでしょうか?」
すでに海軍は、哈爾浜特別陸戦隊の他、第十一、第十二航空艦隊を満洲・朝鮮方面に派遣している。
本八月二十日を期して、西部戦線において海陸共同による航空総攻撃を実施すると、すでに現地の第十二航空艦隊司令長官・戸塚道太郎中将から伝えられている。
第十二航空艦隊は、約一〇〇〇機の航空兵力を持つ有力な基地航空隊である。
朝鮮半島を中心に展開する第十一航空艦隊も、同程度の戦力を有する基地航空隊であった。
これら強大な基地航空隊をすでに満洲・朝鮮方面に派遣している以上、さらに第三艦隊まで満洲方面に派遣することに、軍令部の者たちは懐疑的であった。第三艦隊は、第一、第二艦隊とともにソ連太平洋艦隊撃滅の任に充てるべきというのが、中澤らの本音なのだ。
だからこそ、複数の方面に艦隊の派遣を要請してくる参謀本部に対し、不満を抱いていたのである。
「では、ひとまず第三艦隊を佐世保に回航。戦況の見極めがつくまでは、東シナ海での演習に従事させることとしよう」
第一部長の中澤は、そう決定した。少なくとも第三艦隊を佐世保に回航すれば、遼東湾方面にもウラジオストク方面にも、迅速に派遣することが可能である。
軍令部は対ソ戦において海軍の果たすべき役割について理解していたとはいえ、依然として戦力を極力温存する姿勢を変えていなかったのであった。




