54.聖浄石の指輪
正直に言えば、自分でも驚いている。
これまでの己の立場とやってきたこと。
白蛇族の人たちとの付き合い、対人関係。
ここだけに限らず、動物や獣の特徴を持つ、人間たちとも、これからもたくさん付き合いがあるのだろう。
いまいち何者なのか計りかねている、神蛇カテナ様。
怖い家畜たち。最近ちょっと可愛い邪悪なヤギ。
神々しい残影が焼き付いている空を飛ぶ蜥蜴。脂分の少ない濃い鶏肉の味がして美味しかった。
地霊なんてものも見た。
空を見上げれば、時々何かよくわからないものが飛んでいたりもする――西の彼方へ行く死者の魂だと言われているが、本当にそうなのかは確かめようがない。
空に落ちる水なんて不可解で謎の塊のような場所もある。
――こういう、私の中でさえ結論が出ていない神秘を感じさせるものと、どう向き合っていくのか。
漠然と考えていたのだ。
たった半年の生活で、馴染むと同時に、理解できないことも多々あった。
よくわからないそれらと、どう付き合っていけばいいのか。
そして、アーレ・エ・ラジャと結婚して、どうなるのか。どうしたいのか。
私はどう振る舞えばいいのか。
――この時、ジータと話すことで、ようやく私の中でちゃんと形になった。言葉にすることができた。
いや、本気で覚悟が決まった瞬間だったのかもしれない。
私が彼に言ったことは、結局、私が集落にやってきた初期にアーレ・エ・ラジャが言った「家のことは任せる。外のことは任せろ」の言葉通りだと思うから。
彼女は族長として動く。
私は彼女を支え、彼女の家を守る。
その形が、私たちにはきっと、ぴったり合うと思う。
「私はアーレと結婚する」
私の胸倉を掴んだまま固まっているジータに、私の意思をちゃんと伝える。
「半年、ここで馴染めるかどうか様子を見る時間を貰った。
そして結論が出た。
私は予定通り、アーレと結婚する。ここに来た目的を果たす」
どれくらい睨み合っていただろう。
長かったような気もするし、そうでもなかったかもしれない。
「……」
ジータはゆっくりと目を伏せ、掴んでいた手から力が抜けていく。
「……わかった。わかったよ。よくわかった」
噛み締めるように言う、と――
「いてっ!」
顔面を殴られた。
「殴らないって言っただろう!?」
不意の痛み、不意の拳によろめいた私は抗議の声を上げる。
手加減していたのはすぐにわかった。
白蛇族の戦士に本気で殴られたら、よろめくだけじゃ済まない。
「俺もいてえ」
と、本当に痛そうに渋面を作るジータは、添え木している右腕を左手で抑えている。何をしているんだこいつは。折った腕で殴ったのか。何をしているんだ。
「でも一発くらいいいだろ。俺なりのけじめだ。これで終わりにするからよ」
……くっ。そんなこと言われたら何も言えないだろ……
「アーレは俺の大事な人だ。俺にはできねぇから、おまえが幸せにしてやってくれ。……おまえなら大丈夫か。おまえは俺みたいな馬鹿じゃねぇからな」
言われなくてもそうする、と言いたいところだが。
できることなら、私も彼女に幸せにして貰いたいと思っている。片方だけの幸せでは、きっとバランスが悪いと思うから。
入り婿と、普通の夫婦の体験談を聞いた結論である。
ただでさえ夫婦のパワーバランスは入り婿が弱すぎるくらいだから、うまいこと釣り合いが取れる家庭が築ければいいのだが。
でもまあ、夫婦の形なんて夫婦の数だけあると思うが。
「――あ、ジータ」
去ろうとする彼に呼びかける。
「余計なお世話かもしれないけど、言わせてほしい」
「なんだよ。俺ぁこれから酒呑んで泣いて暴れて潰れる予定だ。頭使うようなややこしい話すんじゃねぇぞ」
失恋の後の過ごし方は、森のこちら側でも似たようなものらしい。
「あなたの今の嫁に優しくしてあげてほしい」
「……あ?」
「どんな縁でそうなったのかは知らないが、多かれ少なかれ彼女たちはあなたを慕っているんじゃないのか?
きっとあなたがアーレの話をするたびに傷ついている。嫁の前で、他の女が欲しいなんて話はしてはいけない。
そんな彼女たちを捨てることができるだなんて、二度と言わないでくれ」
「――おまえ!」
え……え!? 何!? なんだ!?
ジータは、今朝の会話では見せなかった怒りを露わにした。正直予想外の反応だった。
「おまえ! おまえ!!」
飛びつくようにジータが再び私の胸倉を掴み上げる、と――
「……おまえ……!」
怒りながら、顔を歪めた。
「もっと早く……言えよ……っ! 俺は馬鹿だから! そういうのわかんねぇんだよ……!」
…………
「すまない。もっと早く言えばよかったな」
そんなことを言えるほどの付き合いがないとか、最近まで知らなかったとか。
ジータの嫁に会ったことがなかったとか。
そんな言葉を言う気にもなれず、私は素直に謝った。
――今目の前で、ジータが泣くほど傷ついているから。
これまでの自分の言動を振り返り、死にたくなるような後悔が襲ってきているのだろう。
ならば、大丈夫だろう。
彼は彼なりに、嫁のことも大事にしていた。その証拠だ。そうじゃないなら後悔も何もないだろうから。
彼は気づいた。
気づかされた。
自分が無意識に、どれだけ嫁を傷つけてきたのか。
アーレ・エ・ラジャと同じように、嫁も傷つけてきたのか。
…………
ジータが特別じゃないのかもな。
だから白蛇族の集落は、男女で割れたのではなかろうか。
アーレ・エ・ラジャが族長になるために立ち上がり、集落の女性は、女性の立場を向上させるために彼女を後押しするようになったのではなかろうか。
「――帰る!」
ジータは走っていった。アクションの切り替えが激しい奴だ。
……きっと自分の嫁の下へ行ったのだろう。
夫婦にはいろんな形がある。
一概に「正しい形」だの「理想の家庭」というものは、一律で全員同じとは限らない。
何せ一夫多妻制の体験談や経験談は、聞いたことがないからな。
どんな形になるかはわからないが、願わくば、彼の家庭も幸せであってほしい。
「治った」
「えっ?」
ジータと別れ、アーレ・エ・ラジャの看病に戻り。
何事もなかったように陽が昇り、迎えた今。
「治ったと言っている」
目の前でひょいと立ち上がった彼女は、コキコキと首を鳴らしていた。
「さすがだな、レイン。あれだけの怪我をしたのに一晩で治るとは思わなかった」
いやいや待つんだ!
「私の針にそんな力はないよ!」
確かに白蛇族は怪我の治りは早い。
いや、こちらの住人は皆早い。
戦牛族なんて三日で骨折を治すほどに自然治癒力が高い。
でも、これは異常だ。
「私の見立てでは一週間は絶対安静だ!」
「そうか? しかし我は全然平気だぞ。……あ、いや、骨折はまだ治ってないな」
そりゃそうだろうとも!
戦牛族でも三日は掛かったのだから!
「ほら、おまえが縫った傷なんて痕も残っていない」
「えぇっ……」
ぐいっと見せつけてくるアーレ・エ・ラジャの腕は、……確かに縫った糸こそ残っているが、そこにあるはずの傷がなくなっている。
いや、よく見たら、うっすら傷跡になっている。……治ってるな、確かに。抜糸しないと。
いや抜糸どころじゃない。
「何があった? なぜこんなに早く治るんだ?」
「我に言われても……レインがしたんじゃないか」
した覚えはない! 私の針に……指先にそんな力はない!
…………
いや……したのか?
この大地には、私には理解の及ばないことなど数えきれないほど存在する。その中の何かが私に作用したのか? しているのか?
……要実験だな。
しかし、今はそれはいいとして。
「アーレ嬢」
「なんだ」
「傷の治りが早いのは認めるから、せめて今日一日は安静にしてくれないか? 骨折は治っていないんだろう? 恐らく明日か明後日には治ると思うから」
座ったまま見上げる私と、立ったままのアーレ・エ・ラジャ。
数秒ほど見詰め合った後、彼女は言った。
「レイン」
「うん」
「今夜も、おまえが傍にいてくれるか?」
「……いるよ。ずっと一緒にいる」
私は手を伸ばし、彼女の手を取り優しく、何しろ骨折しているので痛くないよう優しく引っ張って、私の傍に座らせた。
「アーレ」
「…! ……な、なんだ?」
「私はこれからもずっと、あなたと一緒にいたい」
――今度こそ。
春。
ササラの花が舞い散る下で、あるいはキレの花が舞い散る下で。
あの時言えず、また、渡せなかった指輪は、今ここにある。
ジータと話して、私の中で覚悟が決まったついさっきから、ポケットに入れている。
覚悟はできた。
これからは肌身離さず持ち歩き、隙を見て渡すつもりだった。
――だが、今こそ。
彼女は最初からそのつもりで私に会いに来て、私もそのつもりで出会った。
こちらの生活に馴染めるかどうか、という温情で、様子を見るための半年の猶予を貰った。
理由はどうあれ、結局、半年も待たせているのだ。
もう待たせる必要も理由もない。
「アーレ」
驚き、少し怯えているようにも見える金色の瞳に、語り掛ける。
取ったままの左手を、両手で包み込むようにして、指輪の入った箱を渡す。
「な、なんだ? これはなんだ?」
若干腰が、身体が引きつつあるが、逃がす気はない。
彼女たちが……彼女が言ったが、私だって同じだ。
逃がすつもりはないし、誰にも渡さない。
「私の国の風習でね、結婚相手には指輪を送る文化があるんだ。だから用意してきた。半年も待たせて済まなかった」
彼女の手の上で、箱の蓋を開ける。
ビロードの台座の上には、光沢のある青一色のリングが鎮座している。
聖浄石という、フロンサードで出土した宝石の原石に祝福を与え、独自に加工した一品だ。
「私の瞳の色を選んだ。
身につけると、あなたの体温で淡く色合いが変わるんだ。
『私はあなたの色に染まるから、あなたも私の色に染まってくれ』という意味がある」
まあ、交換した場合は、だが。
今回は一方的に渡すアレだから……まあ、厳密な意味なんてどうでもいいか。
箱を置き、リングを手に取り、かすかに震える彼女の左指に通す。
「アーレ。私と結婚してください」




