大丈夫と、あなたに告げて
最後に聞いたのは、虚ろな眼で私を呼ぶ声だった。
あの時よりはっきりとしていて、あの時より若く聞こえるけれど、間違えるはずのないシドの声に振り返る。
後ろ姿だけだった。後ろ姿だけだったけど、厨房にいるゲルダさんへと駆けていくシドが確かに見えて。
その瞬間、後ろを歩いていたディーアが庇うように私の前に立ちはだかった。
「ディー……」
「静かに」
反射的に呼びかけた名前は、耳元で囁かれた声と口元を覆う手に塞がれ消えていく。
そのまま腹部にも腕が回って体が浮き、階段を上り切っていたクラヴィスさんへと抱き寄せられた。
まだ残っていた階段を一段、二段と飛び越えた足がこつんと小さな音を立てて床に着く。
抱き寄せる腕も、口元を覆う手も優しいけれど、私に拒否権は与えてくれないらしい。
身動き一つ、困惑の声一つ出せず、ただ促されるままクラヴィスさんの胸へと体を預ける。
少しだけ動かせる顔を上に向ければ、窓から射し込む夕陽を受けて影を作るクラヴィスさんの表情が僅かに強張っていた。
「……急に来て名乗りもしないくせに、客に会わせろ? 何言ってんだい」
いつになく鋭いゲルダさんの声が響く。
その声色に驚いたのは私だけではなくて、ディーアも微かに目を見開いている。
「宿ってのはね、客との信用あってのものなんだよ。
それを名前も名乗らないような奴に、ぺらぺら話すとでも思ってんの?」
「……失礼した、私は」
「そもそも! 今ウチにはアタシの友人しかいないんだ。
もうじき店に客が来る時間だし、さっさと帰っとくれ。アタシは忙しいんだ」
「ま、待ってください!」
シドに話す間も与えず冷たく突き放す声は、普段の世話焼きなゲルダさんからは想像できないものだ。
きっとゲルダさんは私達が聞いていることに気付いているんだろう。
気付いていて、姿を見せない私達に合わせ、隠そうとしてくれている。
もし相手が武力行使に出たら一番危ないのは自分なのに、それでも前に立ってくれている。
その優しさと強さが彼女の良さとはいえ、心配になってしまう守り方に身を固めてしまったのは私だけではなかった。
「私は王都から来た、シドと申します。
どうか魔導士殿に取り次いでいただけませんか……! 我々の大切な方かもしれないんです……!!」
大切な方――その言葉に、クラヴィスさんの手が少しだけ緩む。
そうだ。詳しくは聞いていなかったけれど、クラヴィスさんはこの時代、まだシドを信頼していない。
傍に居ることを許していたのはディーアだけで、無事を知らせることもしようとしなかった。
だからなのだろうか。
シドの必死な声に、黒曜の瞳がほんの少しだけ揺れて、迷うような視線を向けられたから。
私は笑ってその頬に手を伸ばした。
「……大丈夫ですよ」
戸惑い離れた大きな手をもう片方の手で繋ぎ留め、自由になった口で言葉を紡ぐ。
頬に触れて、指先で撫でて、もう一度大丈夫だと呟く。
「彼は、大丈夫です」
私の知る、家も地位も何もかも捨ててでもクラヴィスさんの傍に居続けたシドはまだいない。
でも、こうして僅かな手がかりを希望に貴方を探し出した今のシドと、貴方に振り回されても右腕で在り続けるあのシドは同じだと思うから。
確信をもって何度も大丈夫だと告げる私に、クラヴィスさんは何を思ったのだろうか。
強く抱きしめられ、深い呼吸が聞こえた後、ゆっくり腕が離れていく。
「……罠かもしれない。君は部屋にいてくれ」
「そんなことしないと思いますけどねぇ」
ひどく警戒しているらしいクラヴィスさんとは対照的に、私がくすくすと暢気に笑っていたからだろう。
ディーアが困った様子で私とクラヴィスさんの間で視線を彷徨わせていた。
どちらに同行すべきか、って悩んでくれてるのかな。
護衛としては悩む必要なんてない場面だろうに、悩んでくれる優しさが嬉しくて、またくすくす笑ってしまった。
「ディーアも行っておいで。心配でしょ?」
元の時代でシドと仲が良かったディーアは、この時代でもそれなりに交流があるのだろうか。
クラヴィスさんほど警戒はしていないようだが、それでも彼も罠の可能性は考えているらしい。
少し緊張した面持ちで頷くディーアに、大丈夫だと伝わるようにひらひらと手を振る。
「大丈夫だから、三人でしっかり話してきてくださいな」
何故私が大丈夫だと言い切れるのかわからないが、今確かめる時間はないと判断したのだろう。
若干呆れた様子で小さくため息を吐いたクラヴィスさんが、ディーアと目配せをして私から離れる。
二人が警戒するのも仕方のないことだとわかっている。
現王妃に命を狙われているクラヴィスさんにとって、自分に近付く人間なんてほとんど信用できない相手だ。
それは現状主を守る唯一の剣であるディーアも変わらなくて、シドに対して王妃の手先ではないかと警戒せざるを得ないのだろう。
なんだろうけど、私からするとあのシドが疑われるなんてって感じだからなぁ。
あれだね、シドに怒られるのが嫌でまだ会いたくないとかならまだわかるや。
シドのお説教って積もり積もった小言がメインだからチクチク刺さるんだよねぇ。
それにしても、あれだけ警戒心剥き出しの状態から、よく右腕になるまで信頼関係を築いていけたものだ。
シドが頑張ったのか、クラヴィスさんが歩み寄ったのか。
彼等がどう絆を築いていったのかすごく気になるけれど、私はただ遠ざかっていくクラヴィスさんとディーアの後ろ姿を見送った。
「……アースさん」
クラヴィスさんの姿を目にしたのだろう。
シドの喜びに満ちた声を聞きながら、沈黙を保っていた龍の名前を呼ぶ。
――シドは私を知らなかった。
私を知っていて黙っていた二人とは違って、私が異世界の人間だなんて知らなかった。
つまり私とシドはここで出会っていないのだろう。だから――
「私達も、帰りましょうか」
たぶん私は今、すごく情けない顔をしているだろう。
そうわかっているけれど、アースさん相手に取り繕うものなんてなくて。
「……そうじゃな、ワシ等も在るべき場所へ帰ろうか」
その優しい声に頷いて、私はクラヴィスさん達に背を向けた。




