決断は、今
見ないフリをしていた。目を逸らし続けていた。
まだ大丈夫だと、まだ決めたくないと、ずっと先延ばしにしていた決断の時。
それが突然目の前に現れて、何を言おうとしたのかもわからず口を開いて、何も言葉が出て来なくて口が閉じていく。
「この異変を止めるには、誰かが過去へ行き、異変に介入する他無い。
それをできるのは、その時代に存在しないお主だけじゃ。
しかし、今この世界は異変の影響で酷く揺らいでおる。
そこに異世界の縁を保たせたまま過去に介入などすれば、世界は耐えきれず、世界そのものが崩壊し消えてしまうじゃろう」
黙り込んでしまう私に、アースさんは優しい声色で語り続ける。
聞かなければならないと、向き合わなければならないとわかっている。
わかっているけれど、自ずと視線は下に下がり、鼓動が速くなっていく。
何かに縋りたいと傍にあるクラヴィスさんの手に触れようとして、何にも触れられない自分の手を一人握りしめた。
「過去へ行くのなら、お主はあちらとの繋がりを捨てねばならぬ。
そして繋がりを捨てれば、お主は……」
「……元の世界には帰れない、だね」
「……うむ」
私と元の世界を繋ぐ縁。私が元の世界に帰るために必要な道しるべ。
アースさんと出会って以来、ずっと守ってくれていたそれが無くなれば、私は帰れなくなる。
でも、それがある限り、クラヴィスさん達は助けられない。
どちらがより多くを得られるかなんて、わかりきった事だ。
今すぐ決めなければならない。今すぐ、決別しなければならない。
それなのに捨てたくないと、何か方法は無いのかと、未練がましく縋り付いてしまって選べない私に、アースさんは静かに床へと降り立った。
「じゃがな、トウカ。
お主が行かずとも良いのじゃよ」
「……え?」
「異変を止めずとも、この世界は新たな形で続いていくじゃろう。
ワシ等渡る者の役目はあくまでも世界の存続。
崩壊せずに世界が続くというのであれば、無理に介入しなくとも良いのじゃ」
俯く私を覗き込み、柔らかい眼差しでこちらを見つめるアースさん。
気遣ってくれているんだろう。それも一つの選択なんだろう。
でもそれは、クラヴィスさん達を見捨てろと言っているのと同じじゃないか。
「クラヴィスさんが居なくなるのに……?
皆もどうなるかわからないのに、アースさんはそれでも良いって言うの……!?」
「もし今あるこの世界が、本来はあってはならぬ形であれば?
もしこの異変が、本来のあるべき形に戻るための変化なら?
……可能性など無限にある。何がどうなろうと、それが世界の運命ならばワシは見守るだけじゃよ」
「そんな……!」
少なくない時間を共に過ごした。一緒に笑って、一緒に怒って、一緒にこの世界を見て来た。
だから渡る者としては見守るのが正しいとしても、アースさんとしてはそんなの苦しいはずで。
突き放すように告げられて、でも苦し気なアースさんに、再び言葉を失った。
「どちらを選ぼうと、誰もお主を責められぬ。
何が正解かなど、誰も、世界にもわからぬ事。
確実なのは、お主がどちらかを失う事実だけじゃ」
「で、でも……」
「……お主が決め切れぬというのなら、ワシはお主を元の世界へ連れて行く。
世界が変貌する際、お主の縁がここに在ると何が起こるかわからぬからの」
もう悩む時間すら無いんだろう。
迷ってばかりの私と違い、既に覚悟を決めたんだろう。
どこまでも優しい表情のまま、アースさんが私に迫る。
「仕方なかったのだと、時間が無かったのだと、そう思って帰りなさい。
全てワシが決めた事なのじゃから、お主に責任はありゃせんよ」
「待っ、て」
ドクドクと脈打つ心臓を握りしめ、声を絞り出す。
これは私の問題だ。私が選ばなきゃいけない選択だ。アースさんに背負わせるわけにはいかない。
それに、どちらを選ぶべきかなんて、わかっている。
わかっているから、ただ、それを告げれば良いだけだ。
「私、は……──」
頭ではわかっているのに、殺しきれない心の弱さが言葉を押し留める。
それでも決めなければと、告げなければと息を吸い込んだその時、視界の端であの人の手が動いた。
「アース」
掠れて、小さく、呻くような声。
それでも確かに、クラヴィスさんがアースさんを呼ぶ。
「アース、どこだ、どこだ……!」
苦しそうに、それでもアースさんを探して手を伸ばし、体を起こそうとするクラヴィスさん。
咄嗟に支えようとするけれど、私の手は通り抜けていって、クラヴィスさんは一人抗い続ける。
「彼女を、帰せ」
「クラヴィスさん……?」
「彼女を、元の世界へ帰してくれ……!」
隣にいる私の声も聞こえていない。目の前にいるアースさんも見えていない。
それなのに、クラヴィスさんは自分ではなく私の行く道を示し続けた。
「彼女はあるべき場所へ……彼女、だけは……! 彼女に、選ばせるな……!」
この人は、どこまでわかっているのだろうか。
全てわかっているのだろうか。
もしわかっているのなら、この人は、私の代わりに選び取る責任を背負おうとしているのか。
自分の事も決め切れない私の代わりに、世界を捨てる責任を背負おうとしているのか。
私のためだけに、何もかも無くなっても良いというのか。
「……なんで、貴方はいつもそうなのかなぁ」
いつも私を優先してくれた。いつも私を守ろうとしてくれた。
例えそれで自分自身を傷付けようと、迷う事無く選ぶほどに私を大切にしてくれた。
何でもできるのに、守り方だけは少し不器用な、私の大切な人。
私の手は彼に届かないだろう。私の声は彼に届かないだろう。
だからその頬がある場所へと顔を近付けた。
「──大好きですよ、クラヴィスさん」
助けてもらって、助けになりたいと思った。
傍に居て、もっと傍に居たいと思った。
大切にされて、大切にしたいと思った。
守られていて、守りたいと思った。
だから別れを告げられても、別れたくないと思うんだ。
もっと貴方の助けになりたいと、傍に居たいと、大切にしたいと、守りたいと思うんだ。
例え貴方が願ってくれた私の幸せが叶わなくとも、貴方の傍にも私の幸せはあるんだと、信じられるんだ。
「だから、行きますね」
覚悟は決めた。決別も、告げられた。
だから私はクラヴィスさんから離れて、アースさんに向き直る。
「……良いのか?」
「うん、良いの」
クラヴィスさんは私に選べと言った。
少しでも後悔しないように、私自身の答えを選べと、私が幸せになるように、と。
今ここで元の世界に帰れなくなっても、あの世界の大切な人達は生きていてくれるのなら。
今ここで元の世界に帰ってしまったら、この世界の大切な人達は居なくなってしまうのなら。
どちらがより後悔するかなんて、答えはすぐに出せる。
それに、何よりも。
クラヴィスさんが私の幸福を願ってくれているように。
私だってクラヴィスさんに幸せになって欲しいのだから。
「……なら、準備しておいで。手で持てる物ぐらいなら持っていけるじゃろう。
それから預かっている時間じゃが、過去に行くのであればそれも邪魔になってしまう。
今返すか、このまま捨て去るか、どちらが良い?」
「じゃあ今返して。少しでも成長してた方が色々できるし」
「うむ、ではこれを」
十歳の体と十七歳の体ではできる事も大きく違うはずだ。
そう考えてすぐに頷けばどこから取り出したのか、手のひらサイズの結晶を渡される。
「それはお主の時間を閉じ込めた結晶じゃ。
壊せばすぐさまお主に時間が戻るじゃろう」
「りょーかい」
独りでにキラキラと光る結晶は既にヒビが入っていて、すぐ壊せるよう脆くしているようだ。
軽く握っただけでピキ、と小さな音がしていて、この様子なら力一杯握れば壊せるだろう。
勢いあまって今壊してしまわないよう、手の力を緩める。
「それから……クラヴィス、ちともらうぞ」
アースさんはそう言って倒れているクラヴィスさんへと近付き、髪を一束浮かばせる。
すると魔法を使ったのか、瞬きの間にバッサリと髪が切り落とされた。
何をするつもりなんだろうかと見ていると、アースさんは自分の鱗を一枚口で剥がし、クラヴィスさんの髪へと乗せる。
そして髪と鱗が白い光に包まれたかと思うと、次の瞬間には小さな黒い耳飾りが私の目の前に浮かんでいた。
「これを身に着けていなさい。ワシの予想が正しければ、過去で使う事になるはずじゃ」
穴が無くとも付けられるよう、イヤーカフになっているらしい。
でもさ、目の前で作られてるからどうしても考えてしまったけれど、素材からしてちょっと呪術っぽくなぁい?
まぁ元がクラヴィスさんの髪なら良いかと、右耳に付ければ、アースさんは小さく頷き浮かび上がる。
「……ワシは中庭で待っておるからの。
ゆっくりしている時間は無いから、急ぐんじゃよ」
「はーい!」
最後の確認か、じっと私を見つめるアースさんに、意識して明るく返事をする。
大丈夫、もう決めたから。決められたから。
だから私も、立ち止まらないよう駆け出した。




