リベンジ前夜
母が目覚めてから数日が経過し、我が家も少しずつ落ち着きを取り戻していた。
母の傷も順調に癒え、日常生活程度なら問題なく過ごせるまでになっていた。
そして、私たちは――奈良の東大寺にいた。
「どうして⋯毎度毎度こうなる⋯」
私は大仏殿の前で空を仰いだ。
母の「リハビリも兼ねて、もう一度神頼みだ!」という鶴の一声(という名の思いつき)である。
「おおー!」
初めて見る大仏に、フランが目を丸くして驚いている。
その横で、父と母が得意げに胸を張った。
「どうだフラン、これが日本のビッグ・ブッダだ!」
「大きいだろう? これなら魔力も満タンだ」
「違うから! 大仏はガソリンスタンドじゃないから!」
私がツッコミを入れても、三人はどこ吹く風だ。
東大寺を出ると、フランが不思議そうに何かを指差して私たちに聞いた。
彼が指差した先にいたのは、四足歩行の、角が生えた生き物。
――鹿だ。
「鹿だな」
「ああ、鹿だ」
母と父が声を揃える。
母はフランに向かって、身振り手振りで説明を始めた。
「あれはシカだ。人間に害はない。草食の、優しい動物だ」
フランは「へえ」と感心したように頷き、今度は別の方向を指差した。
そこには――鹿せんべいを持った観光客を取り囲む、鹿の群れがいた。
服を引っ張り、頭突きをし、せんべいを強奪する獰猛な姿。
「……襲われてるな」
「ああ、そうだな」
母は平然と言い放ち、売店で鹿せんべいを一束買った。
「フラン、これをやる。シカにあげてみなさい。友好の証だ」
フランは目を輝かせ、せんべいを受け取った。
そして、無邪気な笑顔で鹿の群れへと歩み寄っていく。
「だ、ダメだよフラン! せんべいの束を持って近づいたら……!」
私の静止も虚しく、フランは鹿の群れのど真ん中へ。
次の瞬間。
「ギャーーッ!?」
一斉に群がる鹿たち。
服を噛まれ、角で突かれ、もみくちゃにされる美少年。
フランは短い断末魔を残し、茶色い毛並みの波に飲まれて消えていった。
その日の夕方。
身も心もボロボロになり、服のあちこちがよだれでカピカピになったフランが、食卓についていた。
夕食は、母特製のハンバーグ。
こねて焼く前にパン粉をまぶし、外はカリッと、中はジューシーに仕上げるのが千尋流だ。
一口食べた瞬間、フランが椅子から飛び跳ねた。
「ンーッ!!」
言葉にならない声を上げて、目を輝かせる。どうやら気に入ったらしい。
「そういえば……」
私はふと湧いた疑問を、母に投げてみた。
「どうしてお母さんは、フランの言葉がわかるの?」
私の問いに、母はきょとんとした顔をする。
「何が?」
「いや……私たちはフランの言葉がわからないのに、お母さんは普通に話してるじゃない? なんでかなって思って」
母は箸を止め、少し考えてから言った。
「私からしたら、何故わからないのかがわからない」
「……はい?」
よくわからないことを言う。禅問答か。
「いやいや、フランは異世界の言葉を話してるよね? 日本語じゃないよね?」
「日本語を話していると思うが?」
母は真顔だ。
「明らかに日本語じゃないよ! フランだって、私たちの言葉がわからない顔してるし」
母はフランの方を向いて聞いた。
「フラン。ほのかの言葉が、わからないのか?」
フランはコクコクと頷いた。
「……あまり意識したことはなかったが……確かに、書く文字は違うな」
母は腕を組み、考え込んでしまった。
ハンバーグを食べ終わったフランが、紙と鉛筆を取り出し、さらさらと何かを描き始めた。
「なにこの、ブサイクな犬?」
私が覗き込むと、フランはニコニコしながらその絵を指差した。
「大輔らしい」と母が通訳する。
「あはは! 特徴、なにげにとらえてるね!」
父が手を叩いて笑う。確かに、ちょっと情けない眉毛の感じが似ている。
次に、さらに小さいブサイクな犬を描いて、私の方を指差した。
「ホノカ」
と、フランが言う。
「……確かに似て……ないかな……」
父が言いかけて、私の冷ややかな視線に気づき、慌てて口をつぐんだ。
最後に、フランは紙の真ん中に、二人の女性の絵を描いた。
一人はエプロン姿の母。もう一人は……エマだ。
フランが語り始め、それを母が通訳する。
「フランの仮説だ。私の中には、私(千尋)とエマ、二人の人格がいる。この二人が無意識に補い合い、お互いの言葉を通訳しているんじゃないか、と」
「通訳?」
「私が話すとき、日本語は私が、異世界語はエマが担当する。お互いが意識せずとも、自然と使い分けているらしい」
「じゃあ、千尋が話す日本語が、フランに通じるのはどういう理屈だ?」
父が尋ねる。
確かに、母はずっと日本語で話しているように聞こえる。
「これもあくまでフランの仮説だが……『魔力による翻訳』だと」
「魔力?」
「この地球では、どういうわけか魔法が使えない。けれど、微力ながら『白(無垢)の魔力』は残っている」
母は続ける。
「エマと私が、お互いの言葉を完全に理解しているからこそ、言葉に乗せた魔力が、相手の脳内で自動的に翻訳される……『言葉の魔法』が成立しているんじゃないか、と」
フランはリビングを見回し、テーブルの上に置いてあった父の老眼鏡を手に取った。
パキッ。
いい音がして、メガネが真ん中からへし折られた。
「あ……それ……高いやつ……」
父の肩が震えている。泣きそうだ。
でも、フランに悪気は一切ない。キラキラした目で実験を続けている。注意できない空気が流れる。
フランは折った片方のレンズに魔力を込め、私に渡した。
レンズが淡く光っている。
「片方の目だけで、これを通して見てみて」フラン(通訳母)
フランに言われ、私はレンズを右目に当てた。
「お母さん、なんでもいいから、最初に思いついた言葉を言ってみて」
母は父の顔をじっと見て、真顔で言った。
「ハゲ(HAGE)」
「ど、どうしてその言葉なのかな!?」
父の眉毛がピクピクする。
「いや……最初に思いついた言葉と言われたから……」
「ちょっと待って!」
私は声を上げた。
レンズ越しに見える母の口元に、文字が浮かんでいたのだ。
『ハゲ』という日本語と、その下に重なるように、見たこともない記号のような文字。
まるで映画の字幕みたいに。
「これが……魔法?」
「すごい……」
父やフランの言葉には反応しない。母の言葉だけが、文字となって可視化される。
「恐らくだが」とフラン(通訳母)
「エマと私が同時に話すことで、私たちには日本語に、フランには異世界語に聞こえるよう調整されている。不要な言葉はかき消され、必要な言葉のみが相手の鼓膜に届く……極めて複雑な術式が、無意識下で完成しているらしい」
「へえー……」
私たちは感心するしかなかった。
さらにフランは、キッチンの蛇口をひねり、水を出した。
レンズ越しに見ると、水道水が淡く発光している。
「ここの水には……微力ながら魔力がある」
フランが目を輝かせて言った言葉を母が話す。
「この家の場所が一番濃いらしい。京都で飲んだ黒い苦い液体には何も感じなかったが、ここの水は特別だそうだ」
「なるほど……だから千尋の傷も、風呂場で劇的に治ったのか」
父が納得したように頷く。
結局、すべては仮説のまま。
後に残ったのは、半分に折られた父の高い老眼鏡だけだった。
父が私にボソッと言った
「俺のメガネ⋯折る必要あったのか?」
数日が経過し、母とフランが異世界へ帰る日が来た。
母はいつもの私のお下がりの服ではなく、異世界の服を着ていた。
王立魔術学院の制服。
父が、私の制服を仕立ててくれた店に頼み込んで、フランの記憶を元に特注で作ってもらったものだ。
フランも、同じ制服を着てビシッと決めている。
「本当に行くの? ……行かないって方法もあるんだよ」
私が心配そうに言うと、母は首を振った。
「やられたままでは気分が悪いからな」
その言葉に、フランも深く頷く。
「でも……本当に大丈夫?」
「ああ。あの時は私もフランも、連戦で疲弊した状態だった。だが今回は違う。万全の状態だ。な、フラン?」
母が同意を求めると、フランは高い声で何かを言った。
母は笑いながら「それもそうだな」とフランの肩を叩く。
「え? なんて言ったの?」
「『勝ち目がないのに挑む馬鹿がどこにいるの?』……だそうだ」
母がフランの口調を真似て言う。
フランはゲラゲラと笑い出した。
何か……二人だけの共通のツボがあるらしい。戦友のような絆が、そこにはあった。
「本当に……勝てるの?」
私が母の手を握り、真剣な表情で聞く。
母は、いつものようにニカッと笑った。
「勝てるさ」
その一言に、根拠のない、でも絶対的な安心感があった。
二人が靴を履き、玄関前に立つ。
ふと……私は別のことが心配になった。
「あ……お母さん、ちょっと」
このパターンは……もしかして。
「なんだ、心配性だなほのかは」
母は笑いながら、玄関の扉に手をかける。
(いや違うのよ、私が心配してるのは……そこじゃなくて!)
「行ってきます!」
勢いよく扉を開け、一歩踏み出す。
そこは異世界。
麦畑、美しい景色、ルナフィール……ではなく。
我が家の庭だった。
バジルのプランターが風に揺れている。
父も、私も、フランでさえも、頭の上に「?」マークを浮かべた。
しばらく停止する母。
ゆっくりこちらを振り返り、てへっと舌を出した。
「やっぱり……まだコントロールできてないみたい」
「ですよね!!」
私は盛大にツッコミをいれた
***
拝啓 お母さん様
あの後、フランと小さい母は、私の授業参観の帰りにいなくなりました。
「来るな」と言っても母には通じるわけもなく、しかもなぜかフランと一緒に教室の後ろに立っていて……。
恥ずかしくて穴があったら入りたかったです。
でも、二人がいなくなって一週間。
待つことしかできない私は、心配で食事もあまり喉を通りません。
大丈夫だよね? 勝てるよね……。
あの時止めていたら……また後悔でいっぱいです。
父も心配なのか、頭の髪も心なしか少し後退しています。
それではまた、手紙を書きます。
そうだ、お母さん
帰って来たら言いたい事が一つあるの
お母さん、覚えてる?
私、もうすぐ……夏休みだよ。
追伸
日曜日の雨の日。
決まって何かある日は、雨が降っている。
ドォン!!
雷鳴と共に、我が家が大きく揺れた。
「なんだ! 地震か!? 天変地異か!?」
取り乱す父。
(いや……何回目なの?)
私は弾かれたように立ち上がり、階段を駆け上がる。
父の寝室へ。
扉の前で、足が止まる。
心臓が痛いほど脈打っている。
(どうしよう……またあの時みたいに……ボロボロだったら……)
手が震いて、ノブに触れられない。
父が私の肩に手を置き、優しく扉を開けた。
ふわりと香る、金木犀の匂い。
そして……。
そこには、光に包まれた二つのシルエットが立っていた。
ボロボロじゃない。
しっかりと自分の足で立ち、こちらを見つめる影。
私は少し泣いて、涙を袖で拭った。
「おかえり……お母さん」
次回「黒の魔力」
火曜日20:00投稿




