絶望を乗り越えて咲く花
「――お母さん」
絞り出した声は、静寂に吸い込まれて消えた。
返事はない。
いつもの笑顔も、温かい声も、どこにもない。
ただ、鼻をつく鉄の臭いと、焦げた肉の臭いが、ここが地獄であることを告げていた。
逃げ出したいのに。
目を逸らしたいのに。
私は、立ち上がれずにいた。
今起こっていることが現実なのか、それとも悪夢の続きなのか。
世界が白黒になり、音も色も失っていた。
遠くで、父さんとフランが叫んでいるのが見える。
口は動いているけれど、内容は頭に入ってこない。
鼓膜が拒絶しているみたいに、何も聞こえない。
フランが私の肩を掴んで、必死に何かを訴えている。
(わからないよ……何を言っているの……)
目の焦点が合わず、自分がどこを見ているのかさえ曖昧だ。
ただ、床に広がる赤黒い染みだけが、やけに鮮明に焼き付いている。
フランは、力強く私の肩を揺さぶり、叫んだ。
「――フロ!!」
その一言で、私はハッと我に返る。
目の前には、叫びすぎて息切れしているフランと、ボロボロになった少女を抱え上げた父が立っていた。
「ほのか! 風呂だ! 急げ!」
父は扉を蹴破るように開け、階段を駆け下りる。
私も、ふらつく足に鞭打って後を追う。
父の腕の隙間から、力なく揺れる少女の手が見えた。
黒く焼け焦げ、皮膚がひきつれている。
爪はすべて剥がされ、指先からは絶え間なく血が滴り落ちていた。
(一体誰が……こんなひどいことを)
胃液がせり上がるのを必死で飲み込む。
涙があふれそうになる。
「ほのか! 悲しむのは後だ! まだ千尋は生きている! 今ならまだ……」
(間に合う!)
父の声に背中を叩かれた気がした。
風呂場に着くと、すでにフランが先回りしてシャワーを出していた。
湯気で視界が白む。
「ココ!」
フランの指示で、父が少女を洗い場に横たえる。
フランは、祈るような手つきで、ゆっくりと少女の手に温かいお湯をかけた。
すると――信じられないことが起きた。
炭のように黒くなっていた皮膚が、薄皮が剥がれるようにボロボロと落ち、下からピンク色の肌が現れたのだ。
(すごい……)
私は息をのむ。
ゆっくり、ゆっくり、シャワーを少女の手から腕、そして身体へと移していく。
お湯が触れるたびに、出血が止まり、裂けた傷口がふさがっていく。
(一体どうして……? 地球の水に、何か特別な効果があるの……?)
もしかしたら、異世界人である彼らにとって、こちらの水は“聖なる水”に近いのかもしれない。
あるいは、この家そのものが、母にとっての回復魔法なのかもしれない。
フランはさらに、顔にお湯を当てていく。
半分以上焼けていた頬が、見る見るうちに元の色を取り戻す。
そして、父はフランの指差す浴槽に、少女を静かに沈めた。
透明だったお湯が、一瞬にして黒く濁る。
まるで、身体に溜まったすべての穢れや呪いを、お湯が吸い取ったかのように。
父が湯船から少女を引き上げたとき、そこにいたのは――いつも通りの、幼い母の姿だった。
けれど、完全に治ったわけではなかった。
深い打撲の痕や、えぐれた傷の跡はまだ薄く残っている。
そして何より――母の意識は、戻らなかった。
母の身体をタオルで丁寧に拭き、清潔なパジャマに着替えさせ、父のベッドに寝かせる。
体温計の電子音が鳴る。
『38.2℃』。
「熱が高いな……」
父がアイスノンを枕元に置き、額に冷却シートを貼る。
母の呼吸は浅く、苦しげだ。
まるで長い悪夢の中を彷徨っているように、時折小さくうなされる。
翌日。
父が知り合いの医者を連れてきた。
古くからの友人で、今は引退しかけている産婦人科の先生だという。
年老いた医者は、ベッドに横たわる少女を見て一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに職業人の顔に戻った。
脈を取り、瞼の裏を確認し、まだ生々しく残る傷跡に指を這わせる。
「……大輔くん」
医者が静かに父を呼ぶ。
「本来なら、即刻救急車を呼ぶべきレベルの大怪我だ。火傷も打撲も、普通なら助からん」
私の心臓が凍りつく。
「だが……」
医者は不思議そうに首を傾げた。
「傷が、異常な速さで塞がっている。診察しているこの数分の間にもだ。……まるで人間の回復力じゃないみたいにな」
父は何も言わず、ただじっと医者を見つめ返した。
医者はひとつため息をつくと、聴診器をしまった。
「まあ、昔から君たちの周りじゃ不思議なことが多かったからな。深くは聞かんよ」
そう言って、抗生物質と栄養剤の入った点滴をテキパキと準備し始める。
「身体の機能に異常はない。極度の疲労と衰弱……一種の冬眠状態に近い。傷の治癒に全エネルギーを使っているんだろう。
念のため化膿止めを打っておくが、あとは本人の生命力次第だ」
「ありがとうございます、先生」
「礼はいらん。目が覚めたら、美味い酒でも持ってこい」
先生はそう言い残して帰っていった。
――母が目を覚まさないまま、四日間が過ぎた。
フランは片時も離れず、ベッドの脇で様子を見守っている。
言葉は通じなくても、その背中が「絶対に守る」と言っているのが分かった。
「私も、学校休む」
朝、食卓でそう言うと、父は首を横に振った。
「ダメだ。千尋なら、きっとこう言う。『そんな時だからこそ、普通に行きなさい』ってな」
「でも……」
「大丈夫だ。俺とフランがついている」
父の言葉に、私は渋々鞄を持った。
――七日目。
怖い。
またいなくなったらどうしよう。
また……一人になったら。
言いようのない恐怖が、夜になるたびに襲ってくる。
私は真っ暗な部屋で、母の手を握りしめ、静かに泣いていた。
(いつも肝心な時に、私は何もできない)
あの時……母が買い物に行くのを止められていたら。
あの時……平和堂に行かなかったら。
後悔。絶望。
「もしも」ばかりが頭を巡る。
私は、いつも無力だ。
ふと、肩に温かいものが触れた。
顔を上げると、フランが心配そうな瞳で私を見下ろしていた。
彼は、いつの間にか覚えたらしい、片言の日本語でぽつりと呟いた。
「……ダイジョウブ」
たった一言。
でも、その不器用な響きが、凍りついた心を溶かしていく。
私はフランの手を両手で包み込み、涙声で答えた。
「……ありがとう」
放課後。
私はまっすぐ家に帰れず、大津港のベンチでぼんやりと琵琶湖を眺めていた。
遠くに白いヨットが浮かんでいる。
家族連れが笑いながら、カモメにパンくずを投げている。
遊覧船ミシガンが、今にも出港しようと低い汽笛を鳴らした。
平和な日常。
つい一週間前までは、私もこの景色の一部だったのに。
ふと、ベンチの横の花壇に視線が落ちる。
そこにはマリーゴールドが咲いていた。
オレンジ色の、丸い花。
「おばちゃん……あの花だけ、他と形ちがうよ」
近くを歩いていたお婆さんと、孫らしき子供が立ち止まる。
子供が指さした先には、一輪だけ背の高い株があった。
こんもりとボールみたいに咲いていて、花壇の中でそこだけ浮いて見える。
「ほんまやなあ。台風で他の大きい子はみんな折れたのに、あれだけ残ってるんやから強いわ」
お婆さんが、どこか感心したように言う。
「へんなの」
子供はそう言って笑い、またボール遊びを始めた。
(確かに……なんで一輪だけ?)
気になって、私は制服のポケットからスマホを取り出した。
こういうとき、すぐ検索してしまうのは、母ゆずりの悪い癖だ。
花壇の縁にしゃがみ込み、ボールみたいな花にピントを合わせて一枚撮る。
そのまま画像検索にかけると、画面に同じようなオレンジの花がいくつも並んだ。
『アフリカンマリーゴールド』
マリーゴールド⋯
私の顔に冷たい汗が落ちる
私は震える手を片手て押さえ
一番上に表示された名前をタップする。
園芸サイトのページが開き、特徴が淡々と並んでいた。
大輪でボール状の花を咲かせること。
草丈が高いこと。
暑さに強く、開花期が長いこと。
さっきのお婆さんの「背が高い」「台風でも残った」という言葉が、頭の中でなぞられていく。
(やっぱり、あの子だけ種類が違うんだ)
ページの下の方へ、何気なく親指を滑らせる。
育て方、肥料、水やり。
そのさらに下、小さな文字で「花言葉」と書かれた項目が目に入った。
『悲しみ』『嫉妬』。
スクロールする指が、そこで一度止まる。
胸の奥が、少しだけざわついた。
その下に、行をあけて、ぽつんと一行。
『絶望を乗り越えて生きる』
ドキン、と心臓が跳ねた。
(絶望を、乗り越えて……)
不吉な花の象徴だと思っていたマリーゴールドにも、
こんな意味が隠れていたなんて。
ページには、他にもそれらしい言葉が並んでいる。
『悲しみ』だの『嫉妬』だの、今の私ならいくらでも拾えそうな文字列。
それなのに、目に焼き付いたのは、最後のたった一行だけだった。
きっと、今の私が、それしか見たくなかっただけだ。
それでも――まるで、母がそこだけ蛍光ペンで線を引いておいてくれたみたいに思えてしまう。
私は鞄の持ち手を握り直し、ぐっと立ち上がった。
早足で歩き出す。
次第に駆け足になり、最後は全速力で走っていた。
息を切らせて玄関にたどり着く。
鍵を開ける手がもどかしい。
勢いよくドアを開けると、いつもは暗いリビングから、温かな西日が差し込んでいた。
そして、鼻先をくすぐる甘い香り。
これは――金木犀の匂い。
心臓が早鐘を打つ。
靴も揃えず、リビングの扉をゆっくりと押し開けた。
そこに、彼女はいた。
私のお下がりの服に、いつものエプロン姿。
ボブカットの栗色の髪が、夕日に透けて輝いている。
少女は、ゆっくりと振り返り、私を見てふわりと微笑んだ。
その顔は、あの日の――初めて会った日と同じ、優しい母の顔だった。
「おかえり」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
涙があふれて止まらない。
私は袖で乱暴に顔を拭い、一歩踏み出した。
あの時言えなかった言葉。
ずっと、一番言いたかった言葉。
「ただいま――お母さん!」
次回「リベンジ前夜」
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