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母は変わった人だった

放課後、学校から帰ると、リビングのドアがわずかに開いていた。


胸騒ぎを覚えながら、私はそっと扉を押し開けた。


そこに、見知らぬ少女がいた。


肩までの栗色の髪。


宝石のように光る瞳。


十歳ほどの、小さな体。


まるで絵本から抜け出したような、人形めいた美しさ。


淡い青と白の刺繍チュニックに、小さな肩ケープ。


見たこともないデザイン――まるで異世界の服だ。


少女はゆっくりと私を見上げ、優しく笑った。


「おかえり、ほのか」


一瞬、時が止まった。


その声の響きと、その優しい笑い方。


あまりにも、死んだはずの“母”に似ていたからだ。


遠くで蝉が鳴き始める。


私の止まっていた時間が、静かに、けれど確かに動き出そうとしていた。


これは、膳所高に通う私の三年間――その季節の隙間に起きた、不可思議で愛おしい物語。


私の母は、変わった人だった。


「ちょっと琵琶湖を一日で一周しようと思う」


ある日の朝食。

味噌汁をすすりながら、母は当たり前みたいに言った。


「……は? 本気で? 一周だよ?」


「本気だ。自転車ならいける」


滋賀県民の私(松本ほのか)は知っている。

琵琶湖一周=二百キロ超。普通は一日じゃ無理だ。


それなのに母・千尋は、ノートにルートと時間配分を細かく書き込み、古びたママチャリに水筒を括りつけて――


本当に出発してしまった。


「どうせ途中で帰ってくる」

そう思っていた夕方、母は全身汗だくで帰宅した。


サイクルメーターは二百キロを超え、母は玄関の床に倒れ込みながら笑った。


「やってみれば、案外できるもんだな」


私の母は、いつもこうだ。

人目なんて気にしない。やりたいことはやり切る。


そのめちゃくちゃさに、私は何度も恥をかき、何度も呆れた。


小学生の頃、私が給食の牛乳をこぼされて男子と喧嘩になったときもそうだ。

呼び出された母は、相手の派手なギャルママと先生の前で言い放った。


「牛乳を粗末にしたら怒るのは当然だな」


「え、当然って……いや、お母さん、掴み合いの喧嘩ですよ?」


「しかし、牛乳で遊んでいたのだから、そこは両方が反省すべきだ」


「いや、悪ふざけでしょう?」


「悪ふざけで人に迷惑かけたら、それは悪ふざけじゃなくて迷惑そのものだろう!」


論点はどんどんずれていき、なぜか「牛乳を粗末にしたこと」が一番の問題になっていた。


相手の男の子までが(大変だなお前の母ちゃん……)と私に哀れみの視線を送ってくる始末。

私は机の下で縮こまり、顔から火が出そうだった。


(なんでやねん……)


またある時は、「ママさんバレーで優勝したい」と言い出した。

経験もないのに。背も低いのに。


「セッターは空を支配する役割だ。だから私は“天空の司令塔”を目指す」


市の広報誌にそんな大言壮語が掲載され、私は恥ずかしさで頭を抱えた。


けれど母は、家のリビングで天井に向かって何百回もトスを繰り返した。

指先が赤く腫れても、やめなかった。


人目なんて気にしない。やりたいことをやりきる。

それが、私の母・千尋だった。


「やりたいことはまだまだある。だから私は長生きする」


そう言っていた母。

ひょっとしたら百歳まで生きるかもしれない、と思っていた母。


けれど。


中学二年の夏。

母は、交通事故であっけなくこの世を去った。


いつもの朝が、その日を境に永遠に帰ってこなかった。

家の中は驚くほど静かで、時計の針の音だけがやけに大きく響いた。


「もう、恥をかかなくていい」

そう自分に言い聞かせてみても、胸の奥はぽっかり空いたままだった。


あれから数年。

母のいない生活に、私と父がようやく慣れ始めていた、今日。


リビングには、異世界の服を着た謎の美少女が立っている。


目の前の美少女と、記憶の中の破天荒な母が重なった瞬間。


その笑い方を見た瞬間、私は確信してしまった。


この子は――

ただの「よく似た誰か」なんかじゃない。


私の平凡だった高校生活は、きっと、もう二度と戻らない。


挿絵(By みてみん)


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


最後に現れた、異世界の服を着た小さな少女。

彼女は「母によく似ている存在」なのか、

それとも——本当に“母”なのか。


次回、その答えは出ません。

ですが、もっと厄介な問題が見えてきます。


もし少しでも引っかかるものがあれば、

ブクマで続きを追っていただけると嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
引き込まれる導入で、個人的に好きな設定です。特に母親のキャラ設定が魅力的! ただ琵琶湖1周を軽くするのかと思ったら、ノートにルートまで書く徹底ぶりに思わず笑っちゃいましたw その後から母親とはどう…
うっわ……1話でいきなり心が揺さぶられた これからどうなるのか……どきどきします
Xの読み合いから参りました。 導入からして強い。ただ強いだけじゃない、力強い。 小説を書いてると、バカを全力で出来る人は本当に強いと、つくづく思い知らされますが、この作品はその部類に当て嵌まるんだろ…
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