Side 研究所7 心変わりのきっかけ
ソルフィアの過去編です。
ーーソルフィア視点ーー
今から約三年前……
俺は忠実な研究員だ。光を一筋も宿さぬ赤い瞳を輝かせ、淡々と指示を聞き、今俺の目の前にあるパネルを眺める。
俺の隣には同期の研究員がいる。名前はラリア。彼女もまた冷酷な瞳をしていた。
「実験対象、リトル、ルティア、スケール。今日は初めて彼ら三人の同時実験を行う。準備せよ」
「はっ」
俺はそれぞれ別々の部屋に収容されている彼らの腕を掴み、研究室へと連れていく。抵抗されようが関係ない。俺は動こうとしない彼らを無理矢理引きずって連れてきた。
彼らは、感情を失った瞳を開いたまま、瞬き一つせず俺を見つめていた。その乾き切った青い瞳は、七歳、九歳、十二歳の子供だとは思えないほど冷たい。
俺は彼らの手足に金属でできた拘束具……手錠と足枷をはめる。実験をする時に抵抗されると厄介だからだ。彼らにはまだ抵抗するという意思がある。
そして俺は彼らの腕の静脈ラインに実験用の太い針を深くまで刺した。その先についたチューブを機械に繋ぐ。俺は振り返りもせずに監視室へと入り、戸を締める。
「準備できました」
パネルにはグラフが表示されている。
痛覚グラフ、治癒力の効果を示すグラフ、注入した薬の量を示すグラフ、体力の変化を示すグラフ。その計四本のグラフである。それぞれ三人分のデータがそこにはある。今はどれも何一つ立っておらず、時間の経過だけが測られている。
「今日は彼らが持つ治癒力の結晶の深い部分を研究する上で重要なものとなる。そのために我々が流すのは……『血液の成分の一部を破壊する薬』そう、毒だ」
毒と聞いても俺の中では何も揺らがなかった。自分に投与されるわけではないからだ。あくまで苦しむのは監視室の向こう側……ガラス窓の先に見える、やけに広い研究室に座らされた被験体。彼らはモノなのだから何をしても良い。そう長から教えられている。
「それでは実験を開始する」
無機質にも程があるラリアの声が室内に響いた。パネルに映し出されたボタンに彼女の指先が触れた。
彼らの腕に繋いだチューブの中を薬が流れていく。数秒後……彼らの表情が変化した。
「うっ……あっ………ん、っく……」
リトルが、わずかに体をこわばらせた。息を止めるように、歯を食いしばる。
リトルの痛感グラフが急激に上昇していく。限界値を示す赤いラインを越えようとしていた。それと共に顕現化していく治癒力結晶の量も増えていく。今入っている薬の量は僅か5ミリリットル。
「…………やはり濃度三倍だと訳が違うわね。取り出せている治癒力結晶の量も多いわ」
ラリアはそのグラフを眺めて口を歪ませていた。俺は少しずつ少しずつ投与する薬の量を上げていく。
ルティアの声は、今にも消えそうな細さだった。彼女の足が微かに痙攣し、拘束具が軋む音だけが響く。
スケールは、顔をしかめながらも、唇を固く閉じていた。その目には、怯えと痛みが滲んでいる。部屋の空気が、息苦しいほどに重くなる。
「痛感グラフの上昇もそんなに早くない……もう少し量を上げてみるか。彼らの限界を突き詰める。そうすれば治癒力の個体差も算出できるだろう」
俺はラリアの指示に従って、更に毒の量を増やしていった。
「う、うっ……う、うわああああぁぁん!いたいっ!いたいっ!いたいよ……!!」
リトルが泣き出した。流石にやりすぎたか。
ルティア、スケールは叫ぶことすらないものの、肩が大きく震えている。その力の入り具合からするに、かなり限界まで来ているだろう。
グラフを確認する。もうとうに限界値を超えていた。俺はそれを見て、芽生えてはいけないはずの少しの躊躇いが芽生え始めてしまったのだ。
「すごい、すごいわよ。治癒力はどれだけ採取しても再生しているわ」
ラリアは結果にしか目がないというように目を輝かせる。俺は見た。彼らが、壊れていくのを。これ以上やったら死んでしまうというのが分かった。
「ソルフ。更なる治癒力結晶の変化を観測するためにも……」
ここに来て初めて俺の指が震えた。ラリア、君は何を考えているんだ。
「それは、ダメだ、ラリアっ!」
その言葉を言い放って、俺は両手で自分の口を押さえた。頭の奥に、じわりと黒い波が満ちてきた。冷たい鎖が思考に絡みつく。
『守るな、監視しろ、記録しろ。彼らの叫びに同情する暇があるのなら。情けなどかけるな。彼らは実験体。モノと同じだ』
長の“支配”——意識の奥底に囁かれる、命令のような囁き。
「……ちがう」
思わず、声が漏れた。
視界が歪む。鼓膜がきしむように痛む。
それでも、俺は子供たちを見続けた。
そうして、実験は終了した。
大丈夫。まだ保っていられる。俺は、刺さった針を引き抜き、彼らをそれぞれの個室に投げ入れた。
俺の心は震えていた。何故だ。今までもずっとそうしてきただろう。どうして今更。俺は大きく深呼吸をして管理室へと移動した。
✳︎
もしもこれを起動させたら、何を得られるのだろうか。
俺は手の中に起動させない方が良いと言われている機械を握りしめた。
それは彼らの首に巻き付いている監視装置……その中の機能の一つ「心の中の声」を研究員も聞けるようになるというものだ。これを起動させれば心が破壊させられると研究員の間で話題になっていた。現にそれで長の見えないところで自殺した研究員もいると聞いている。
それでも俺は聞きたかった。何より自身の喉の奥から叫び声を上げることすらできない子供達だ。だから本当の痛みを知るにはこうするほか方法がない。
そっと、スイッチを入れた。その瞬間、耳を、いや、胸をつんざく悲鳴が刺した。
『やだ、やだ、やめて……! もうやだ、誰か、助けて……!』
リトルの声。
『なんで……なんでこんな目に遭うの……私、何もしてないのに……!』
ルティアの声。それは心の中の、誰にも届かない“叫び”だった。
そして同時に、別の叫びもある。こっちは生の叫びだ。全ての研究員の耳に届いている、喉からの叫び。
俺の頭を締め付ける。心の中の叫びと、喉の奥から絞り出された叫び。
どちらの叫びも俺に突き刺さっていた。
そして何より残酷なのは、俺はそのどちらにも応えることができないということだった。
俺はただ、淡々と事をこなす。誰より冷酷に。誰より機械的に。表向きは、完璧な研究員として。
だが、俺は気付かされた。
彼らはこれだけ酷い実験をされていても強靭な精神力で生き物としての心を留め続けていた。俺はそれに気づけていなかった。
それに気づいた今。俺の中では恐ろしい思考が渦めいていた。
俺がやったことはなんだ?
毒を流して、治癒力結晶を取り出して、彼らの泣き叫ぶ声を聞いて……そして、口元では薄く笑みを作って、蔑むように見つめる。
人殺し、狂人じゃないか。そんなの……
もう、これ以上は、俺も、そんなことはしたくない……
目の前が暗くなる。
後悔は、熱くもなく冷たくもない。ただただ心を蝕むだけの波のようだ。
脳内に、また、あの声が響いた。
『迷うな、ソルフ。思考を止めろ。感情を捨てろ。今更、哀れみなど必要ない。お前は記録をつけ、処理をし、役割を全うすればいい。お前の過去も、未来も、全ては我が支配のもとにある』
ガクンと膝が震えた。視界が赤く滲んで、息が詰まる。どうしようもない未来と戻せない過去に絶望を覚えた。
『彼らは生き物ではない。繁殖も、文化も、言葉すら失った。お前が殺したのではない。すでに壊れていた。ただの“素材”だ。——罪悪感など、無意味だ』
「やめてくれ……」
無意識に息を吐き出すと同時に言葉が口から漏れた。誰に向けてでもない叫び。脳を支配する思考の鎖が、容赦なく巻きついてくる。
足音が響いた。扉が開く音。白衣が揺れる気配。冷気のような静寂が、背後から忍び寄る。
「ソルフ、何をしているの?」
ラリアだった。あの、真っ赤な目。あの、何も映さない瞳。
「無駄な感情は捨てなさい。私たちは研究員よ。心なんて、持つ必要ない。あなたは支配を受けながらも動ける優秀な存在。私の、同期なんだから」
ああ。俺は……ラリアの隣にいる研究員だった。感情などいらない。俺は冷静に記録し、数値を読み、データを蓄積する。役割に徹すればいい。痛みも、叫びも、無視すればいい。
ラリアはそれ以上何も言わなかった。白衣の裾が静かに翻り、足音だけを残して、彼女は去っていく。
俺はその背中を見つめながら、何も言えなかった。リトルの心の中で訴え続ける声が消えない。
『私、まだ……生きたい……』
俺はここまで聞いてもう、耐えられなかった。この機械の電源をオフにしようと思った。でも、できなかった。
聞かなかったフリなんてできない。まして忘れることなど……
俺は悩んだ。このまま従い続ければ命の保障はある。だが、後から降りかかる代償は大きい。しかし、だからといって自分の手で自分を壊すことはできなかった。なら、俺にできることは、彼らに出来る限り優しく接することなのではないか、と思った。
『感情など、捨てろ』
しかし、その思考を潰すぞっとするような低音が響き渡る。不快な囁き。それがずっとずっと響き渡るようになったのはこの頃からだ。
『彼らの叫びを聞いても、心を揺るがすことは許さない。お前はただ命令に従え。感情など持つな。哀れみも怒りも必要ない。彼らは生き物ではない。ただの素材だ。モノとして扱え』
口が開かない。喉が閉じる。脳が抵抗を許さない。
それを聞くたびに俺の頭の中で芽生えた「人間の心を持った自分」がどんどん洗い流されていく。
ラリアの横顔が視界に映る。
何の迷いもなく、ただ記録を続けるあの姿。かつては、俺と同じように笑っていたはずの、同期だったはずの彼女が。ロボット化していた。俺も、そうなりかけていた。
だが、目の前で震えているリトルの息の音を聞いた時。俺の心は、もうそれを「素材」とは呼べなかった。
今目の前にいるリトルの、ルティアの腕を切り付けるための器具を取り落とそうとすることも許されず、俺は傷をつけた。その時の二人の表情は今も忘れられない。
俺はずっとずっと、抗い続けていた。長に、他の研究員にどう言われようが構わない。支配に耐える意志はある。
そしてある日俺は出会った。俺と同じような思考を持ち、リトル達のことを大切に思っている、研究員に。




