第20話 離婚の理由
突然なにを言いだすのか――。
今聞いた言葉が信じられなくて、思わずごくりと唾を飲み込んでしまう。
「ど、どうして!? なんで今更――」
離婚をすることは承諾してくれたはずだ。再婚の約束をした時に、民の前で誓ってくれたことなのに――――。
もう一度、気持ちを落ち着けるために唾を飲み込もうとしたが、ほんの一言発しただけで、口の中はカラカラだ。
瞬きもできずに見つめる前で、リーンハルトはイーリスを見つめたまま、少しだけ視線を床に落とした。
「君との約束は覚えている。だが、離婚状がなくなって行方が知れない今、どこで誰に悪用されるかもわからない。それならば、万が一にでも俺たちがこの先再婚できなくなるよりも、今ここで離婚をとりやめてやり直す方が安全だろう」
やめる――離婚を。
はっきりとリーンハルトの口からその言葉が出た瞬間、まるで悲鳴のようにイーリスの口から叫びが迸った。
「そんなことはできないわ! 私達の離婚は民達の前で約束したもの! それにグリゴアにだって離婚状は渡すと言ったのに!」
「グリゴアだって、離婚状は書いて盗まれたのだと言ったら、きっとわかってくれる!」
「そうとは限らないでしょう!? 現に私を王妃宮から追い出して、今だって一刻も早く離婚をするようにと迫ってきているのに! 私に対して怒っていると、あれだけはっきりと言っていたのはあいつよ!」
「たとえグリゴアがなにか言ってきても、絶対に俺が説得する! あいつなら、俺が本音で話せばきっとわかってくれるはずだ」
なにをわかってもらえるというのか――。
離婚の話が決まってから、ずっとさっさと進退を決めろと言い続けていたのは、そのグリゴアではないか――。自分からすれば、一番疑わしい相手なのに。
「随分と信頼しているのね? でも、そのグリゴアがもし私達の反対派に取り込まれていたらどうするの!?」
言い放った瞬間、リーンハルトの目つきが明らかに変わった。
「だったら離婚状を二通書くのか!? 俺たちをやり直させたくなくて、盗んだ者がそれを狙っているとわかっていながらわざわざ!?」
「それは――」
ぐっと唇を噛みしめる。
思わず顔を逸らしたが、こちらを見つめるリーンハルトの顔も苦しそうだ。体の横で、ぎゅっと広い拳が握りしめられた。
「確かに、俺にも今のグリゴアの考えはよくわからない。俺のイーリスへの気持ちは気がついているはずなのに、どうしてここまで別れるように迫ってくるのか。だが――」
だんとイーリスの横の壁に向かって、今まで握りしめられていた手のひらが伸ばされてきた。
「誰が盗んだのかわからないのなら、尚更! 正式に離婚状が盗まれたことを公表して、誰もあの離婚状を悪用できないようにするべきだ! 一度は確かに書いて盗まれた、これを発表すれば、ちゃんと民に公約した内容は守れる! グリゴアだって、盗まれたのだと知れば、もう一度書けとまでは言えないはずだ!」
「でも――」
見下ろしてくるアイスブルーの瞳の鋭さに、びくりと背中が怯えてしまう。
「それでは……、私達が、離婚したことには……」
昔を思い出させる瞳に、どうしても声が震え出すのを止められない。違うとわかっているはずなのに、今目の前にあるアイスブルーの瞳の切っ先が、記憶の中でイーリスに向けられていた過去のリーンハルトの姿と重なっていく。
声を震わせながら見上げたイーリスの前で、リーンハルトは一瞬だけ瞳に後ろめたそうな影を宿した。そして、言いにくそうに口を開く。
「確かに……手続きの途中で止めたとなれば、俺たちが正式に離婚したということにはならないだろう。だが、悪用されて再婚できなくなるリスクを考えれば、このまま離婚にこだわるよりは――」
諦めて、このまま結婚を継続した方が安全だと言いたいのだろう。
「離婚を――しない……」
しかし、その言葉を口に乗せた瞬間、まるで記憶の蓋が外れるように、イーリスの脳裏に様々な過去のできごとが溢れ出してきた。
今日こそは仲直りをしようとギイトについてきてもらって、リーンハルトに近づき、冷たい一瞥だけで話もできずにパーティで別れた日のこと。もう一度、勇気を振り絞って声をかけたのに、少し和やかに話せたかと思ったら、すぐに怒られて背を向けられた次の日。なにに怒っているのかすらわからず――――。何度もなんとか前のように笑って話せる仲に戻りたいと思っていたのに、またあの冷たい瞳で見られるかもしれないと思うと、だんだんと声をかけるのが怖くなっていって。
だから、リーンハルトが、花園で知らない令嬢と二人きりで話しているのを見た時も、どうして一緒にいるのかすら問いかけることができずに、背中を向けて逃げ出してしまった。
――何人かいた、自分の前の婚約者候補の令嬢の一人だと知ったのは、部屋に帰ってしばらくしてからだ。
自分は――政略結婚で押しつけられた相手。しかも、リーンハルトにとっては、もう価値すらない政略の。
それならば、愛されなくても、妻として求められなくても当然のことだと涙を我慢して、諦めようとした遠い日のことが脳裏に甦ってくる。パーティや公式行事の度に差し出してくれる手は温かいのに、話しかけて見上げれば、針のような瞳に鋭く睨みつけられて――。
いつのまにか、怒られるのが怖くて、側に近寄るのさえうまくできなくなってしまった。
――また、怒られるのかもしれない。
また、睨まれて冷たく背中を向けられるのかもしれない。
(あの辛かった日々が――このまま、なにも終わらずにこれから先も続いていく……?)
「嫌よ! そんなの!」
思った瞬間、咄嗟にリーンハルトの手を振り払って、腕の中から飛び出していた。
(あの日々が終わらずに、これから先もずっと同じに続いていくだなんて……)
考えただけで、体が震えて止まらなくなってしまう。
「イーリス!?」
しかし、突然腕を振り払ったイーリスに驚いたのだろう。リーンハルトが目を開いて見つめてくるが、イーリスも飛び出した先で震え続ける体を両腕で抱えるのだけで精一杯だ。ただ、未来も同じに続いていくという恐怖が、必死に唇を広げさせた。
「嫌よ……! 離婚は――離婚だけは、絶対に譲ることができないの……!」
「どうして!?」
驚いて近づいてくるリーンハルトを、振り返ることさえできない。ただ必死に言葉を紡いだ。
「嫌なの! どうしても……、このままなにも変わらずに一緒にいるだなんて……!」
心からの叫びだったが、口に出した途端、リーンハルトの近づきかけていた足は廊下のタイルの上で止まった。
そして、視界の端に映る手が、ゆっくりと指を握り込んでいく。
「俺は――、君が離婚を望むのは、俺が六年間にしたことを許せないからだと思っていた」
「えっ?」
驚いて振り返れば、ひどく暗い色に沈んだアイスブルーの瞳が辛そうにイーリスを見つめている。そして、ゆっくりと寄せられていくではないか。
「だから、罰として一度離婚をされるのは仕方がないと思っていた。だけど、やり直すと決意してくれたのに、俺たちが再婚できなくなるかもしれなくても、まだ離婚にこだわり続ける君を見ていると不安になるんだ。本当に――君は、俺を許してやり直してくれるのか?」
「リーンハルト!?」
まさかそんなふうに考えていただなんて。
(――そんなつもりではなかった!)
違うのに! 自分が離婚をしたいのは、リーンハルトに罰を与えたいからではない!
それなのに、悲しいとも悔しいともとれるように寄せられていく瞳を見ていると、記憶の中の瞳と一緒になって、背筋が凍り口がうまく動かせなくなっていく。その前で、顔を持ち上げたリーンハルトの眉が、きっと強く寄せられた。
「グリゴアにも言われた。君は、本当に俺とやり直してくれるつもりがあるのかと? 離婚、離婚とそれは何度も口にするが、そのあと本当に俺を選んで、もう一度一緒に生きていってくれるのか――」
「それは……」
「それとも、本音では大臣やほかの者達が言うように、離婚だけが狙いで、嫌がる俺から逃げるために、再婚という餌を――」
その先は口にすることさえできなかったのだろう。ただ握りしめられた拳の震えで、リーンハルトが今回の離婚騒動で、周りからどれだけ色々なことを吹き込まれていたのかがわかる。
ぐっと怒るように、アイスブルーの瞳が立ち尽くすイーリスの姿を射貫いた。
(どうしよう……。ちゃんと伝えなければいけないのに……)
「リーンハルト……」
言葉が震えて、うまく口が動かせない。違うはずなのに、今向けられているのはあまりにもあの頃に似た眼差しで。怒りを含んだような視線に、体の芯が凍りついて固まっていくような気がする。
必死に震える指先を伸ばした。だけど、言葉はうまく出てこない。
その前で、くるりとリーンハルトは背を翻した。
「……すまない。俺は少し頭を冷やす必要があるようだ」
「あ……」
説明しなければと思うのに、向けられた背中が表しているのは、昔と同じ拒絶だ。それになにも言葉を発することができなくなってしまう。
「少し仕事がたまっている。明日は早朝から騎士団と一緒に、王都の郊外の視察に行ってくる。だから、朝食は一緒にとれないが――代わりに、この間に俺もこの件について、よく考えてみるよ」
「リーンハルト……っ!」
ようやく声を振り絞ったのに、リーンハルトは少しだけイーリスに視線をよこすと、そのまま背を向けて歩き始める。
何度も見た昔と同じ光景だ。その姿に、イーリスはこれ以上言葉を続けることができず、ただ歩き去って行くリーンハルトの背中を見送ることしかできなかった。




