第8話 新しい神官
「イーリス様、どうしましょう!?」
グリゴアがちらりとイーリスと陽菜を守るハーゲンを見つめて扉を閉めるや、後ろで聞いていたコリンナが、顔色を変えて駆け寄ってきた。
「王妃宮の御衣装は持ち出せませんし! ここにある三枚だけでは、どうしようも――」
三枚。そうだ、イーリスが逃亡にあたって持ち出したのは、手持ちの中でも特に飾りの少ないシンプルな物ばかりだった。
長いふりふりひらひら生活で庶民と感覚がずれていたとはいえ、とても元王妃が披露目の席に着ていけるようなものではない。
精々日常着――招待された茶会などに着ていけば、ひどく地味に見えるのは間違いないだろう。
「大丈夫よ、それについてはなんとかするから」
「なんとかとは言われても……」
元王妃が、貴族達の前にみすぼらしい姿で出るのが、どれほど恥ずかしいことか。コリンナはよく知っている。だから、心配そうに口を開いた。
「あの……、グリゴア様に流されるわけではありませんが……。陛下とやり直されるのなら、いっそこの際離婚などされず、すぐに一緒に暮らされた方がよいのでは……」
今ならば、陛下もイーリス様を大切にしてくださいますし、それならば王妃宮の品も元通り使えますと、コリンナが焦りながら心配してくれている。しかし、それだけは首を縦に振ることができない。
「ううん、それだけはできないの」
「でも――」
(そうよね、普通ならば誰だってそう思うわ)
――どうして、やり直すのに離婚をするのか。
ふっと思わず笑みがこぼれ出た。
「でも、これは私のけじめだから」
(きっと、ここを乗り越えなければ、自分は一歩だって前に進むことができない)
わかっている――ただ、自信がないのだ。
(本当にこのままやり直して、またリーンハルトと同じことにならないかという不安を、どうしても拭い去ることができない)
グリゴアに言われるまでもなく、それはイーリスの中で、リーンハルトとやり直すのを決意した瞬間からくすぶり続けている不安だった。
だから――。と、離婚を決意した頭を持ち上げる。
そして、にこっと振り返った。
「まかせて」
今だけは、心に潜む不安を忘れるように力強く笑う。
「生活費に関してはちゃんとあてがあるの。それについては」
力強く言いかけたところで、こんこんと新しく叩かれて開かれた扉に、「あっ」と顔を弾けさせた。
振り返れば、昨夜心配していたギイトが、やつれた様子もなく、扉のところで丁寧に体を折っているではないか。
「ギイト!」
「帰着が遅くなり、申し訳ありませんでした」
嬉しさのあまり、顔中に笑みが広がってくる。
「よかった! 無事だったのね?」
思わず立ち上がると、ギイトはいつもと同じように、穏やかな笑みを浮かべながら歩いてくる。
手も足も普通に動いている。見た限りでは、なにか残酷な刑罰をうけたという様子もないが――。
「はい。陛下が口添えをしてくれましたので」
「リーンハルトが?」
(まさか、本当に神殿に赦免を願い出てくれたの?)
王であるリーンハルトが願えば、神殿としても王室の顔を潰すわけにはいかない。更に王家に貸しを作って、神殿が任命した側近の不手際を有耶無耶にできると踏んだのかもしれないが。
「はい。陛下が自ら罰を与えるので、伴侶の家出に関することについては、神殿は口出し無用と説得してくださいました」
(違った――! むしろ、ますます厳罰フラグが濃厚になっているじゃない!)
ごくりと息を呑む。
これは、ひょっとしてあれだろうか。神殿ならば、降格や勤労奉仕、もしくは僻地での布教活動なども候補に入れられかねないから、直接リーンハルトが厳選してギイト個人への恨みを晴らそうという……。
いや、まさかと思うのに、脳裏にはありありとその光景が想像できていく。
(やるわ……! あいつ。昔から妙にギイトへの恨みは深いから!)
勝手な嫉妬とは言え、これは恋敵を自分の目の前から排除できる良い機会と捉えたのではないだろうか。
だらだらと脂汗に近いものが出てくる。
しかし、おそらく今自分の未来が、奴隷ルートと阿鼻叫喚のルートに分岐しただろうことを気がついていないギイトは、「ところで」とにっこりと笑いながら、俯いたイーリスを見つめてくる。
「ご紹介したい者がおります。こちら、神殿から新しく陽菜様の側近にと派遣されてきたアンゼル・クラインです」
「え……」
(陽菜の新しい側近?)
あんなことがあった直後なのに。まさか、もう次の神官を用意してくるとは思わなかった。
驚いてギイトが指す部屋の入り口を見たが、廊下から現れたのはイーリスよりも小柄な男の子だ。
年の頃は、自分と同じか少し下ぐらい。
背が低いせいで、実年齢がはっきりとしないが、二十歳にいっていないのは間違いがないだろう。
「お初にお目にかかります、聖姫様。今日より、前任者に代わり、正式に聖女陽菜様のお側で補佐をするようにと命じられたアンゼル・クラインと申します」
明るい灰色の髪に、薄茶の瞳。見上げてくる瞳は屈託がなくて、前のヴィリ神官のように挑発的ではないが――。
「どんな人物なの?」
こそっとギイトに耳打ちをしたのは、前回の経験があるからだ。訊くのに合わせて、ちらっと陽菜の方を見れば、主人といわれた当人も驚いた顔をしている。
「はい。神殿もヴィリの件で、懲りたのでしょう。前回は、機知に富み、貴族間の情勢にも明るく、社交に通じている者という基準で選ばれましたが、今回はそれは敢えて一切入っておりません!」
「いや……それは、それでどうなのよ……」
「代わりに、陽菜様がこちらの世界になじめるように、市井に詳しく、性格も明るく、金も欲も好きだが、それをまったく自分のうちにため込むことをしない人物として選ばれました!」
(わからない! 神殿の側近選びの基準が!)
こういう場合、普通高潔とか真面目とかで選ぶものではないのか。
頭がぐるぐると回りそうになるのに、あっけらかんとギイトは笑う。
「つまり、街で奉仕活動のために金を集めるのはうまいが、自分のためにためこんだりはしない――という人物です」
「ああ、なるほど……」
「任せてください! 俺は、平民の生まれですから、金は大好きですが、神様に仕える身として、自分の信じるものに全てを捧げますよ! もちろん、陽菜様にも滅私奉公でお仕えするつもりですから!」
にかっと笑う姿は、明らかにヴィリ神官とは対照的だ。
(うーん、不安が残らないといえば嘘になるけれど……)
「どう、陽菜?」
突然新しい部下をつけられた本人に訊いてみる。
「今日からあなたの側近になるらしいけれど? うまくやっていけそう? 今度はだいぶ気さくなタイプみたいだけれど」
「え……」
「お願いします! お側においてください! 俺、もう神殿のあのお香くさい空間と外に簡単にでられない生活にうんざりとしていたんですよ! 置いてくださるのなら、絶対に陽菜様の役に立つようにしますから!」
「ま、まあ……それなら」
多分、陽菜にとっても年上で威圧的なヴィリより、同級生ぐらいに見えるアンゼルの言動にほっとしたのだろう。
過去の聖女の記録から、そういう意味での人選だとしたら、悪くはないが。
「なんで今このタイミングなのかしら」
敢えて気になるとすれば、その一点だ。
腕を組んで、やったーと叫んでいるアンゼルを見つめたが、イーリスの横に立つギイトはにっこりと笑う。
「それは、神殿がヴィリの件で、本気で焦っているからです。その証拠に、これを聖姫様にと」
「なに?」
差し出された神殿の紋章入りの大きな封書を開ける。そして、次の瞬間出てきた書類に目を見張った。
ぱっと急いで封筒から引き出せば、中に入っていたのは、蔵の目録。更に神殿からの神領の奉納についての正式な書類と、その収入の一切を納めた蔵の所有権を示す手のひらほどの金色の鍵。
「これは――」
急いでギイトを振り返る。
「やってくれたのね! ありがとう!」
「イーリス様の正当な権利でございます。私としましては、ヴィリのせいで、今イーリス様が置かれた苦境を涙ながらに大神官様に訴えただけ。たいしたことはしておりません」
(怒っているリーンハルトと、責任問題に怯えている神殿の前で!?)
それは、どんな脅し文句よりも効果があったことだろう。
特に、リーンハルトのあの怒りを含んだアイスブルーの瞳の前で言われたという、神殿の上層部の方々には同情を禁じ得ない。しかし、これで戦うことができる。
「それでも、本当に助かったわ! ありがとう!」
明るく告げると、それまで後ろで見ていたコリンナが不思議そうに首を傾げて覗きこんだ。
「あの……イーリス様、その書類はいったい」
「これは聖姫への神殿からの化粧料よ!」
「正確には、聖恩料と申しますが。ここ数代、聖姫様は出ておりませんでしたので、神殿が民への施しとして与える分以外は、貯めてあったはずです」
「聖姫への!? では、昨日から悩んでいた生活費やドレス代などは――」
「すべてこのお金でなんとかなるわ!」
ぱっとめくって蔵に収められている備蓄麦や、現金化されたこれまでの収入を見たが、すごい額だ。
「リーンハルトが、王妃の化粧料とも並ぶと言っていたのは、本当だったのね……!」
これならば、たとえ一年王妃の化粧料の使用を止められようと、いや、派手な生活さえしなければ、十年は余裕で暮らすことができる額だ。
(私をみすぼらしい姿にして、晒しものにしたかったようだけれど――)
脳裏に浮かんだグリゴアの面影に、思わず不敵な笑みを浮かべる。
(これで、もうグリゴアがなにを言ってきても、経済面で困らせることはできないわ!)
「喧嘩の最中とはいえ、有益な情報をくれていたリーンハルトには、本当に感謝だわ」
自分が飢えもせず、みすぼらしい姿をすることもないと知れば、あの紫色の瞳が薄く微笑んだままでいられるのかどうか。
楽しい未来を予想するように、微笑んだ時だった。
「俺が、なんだって?」
(――え?)
ここにいるはずがないのに。聞こえた耳慣れた声に振り向くと、なぜか入り口のところに、今朝は来ないはずのリーンハルトが立っているではないか。
「リーンハルト!?」
がたんとイーリスは驚いて立ち上がった。




