「 」
宿屋へ戻り、ロアが先にシャワーを浴びたいと言うので頷いた。
戻る途中の道でお店に寄って必要なものを買い足した。
魔法具とか、保存食とか。
カナトラだとお店も夜遅くまでやっている様だった。
明日、早朝の馬車に乗って王都に向かう。早起きしなくちゃ。
わたしはソファーに座って、文字を書く練習をした。
この世界の言葉は話せるし、文字も読めるけど……それは神様から貰った力だ。
その力の中に書く力は無かった。
つまりわたしが文字を書くと、全部日本語なわけで……ロアに、何この文字? と言われるのだ。
ひらがな、カタカナ、漢字だよ。とロアに説明してもなんにもならないので、時間がある時に練習している。
ふっと、空気がざわめいた気がしたので妖精の眼を使う。
『おねえちゃん』
「うん? どうしたの」
この妖精はストーラからずっと付いて来てくれている妖精の一人だ。
その子が、すごく寂しそうに話し始める。
『本当に帰っちゃうの』
「えっ……?」
『せっかく魔法も使えるようになったし……こっちで暮らさない?』
その言葉に他の妖精も反応した。
『そうだよ!』
『魔法がない世界より楽しいよ!』
『おねえちゃんと一緒に居たい』
チカチカと妖精が輝く。
彼らは本当に、わたしに帰って欲しくないのだろう。
わたしが居なくなると知って泣き出す子まで出た。
「ごめんね」
困ったように笑い、ただ、謝った。
「わたしは家族に会いたくて……帰りたいの」
『おねえちゃんを待ってないかもしれないのに?』
「それは、どうか分からないけど……」
一度、言葉を区切る。
周りの妖精の反応に心が痛んだ。
「日本に帰りたいの。ただ、生まれ育った場所に帰りたいだけなの」
わたしはずっと日本で暮らして来た。
この世界とは違う、都会の喧騒や田舎の静かさ。季節によって咲く多種多様な花々。見知った草木。
生まれ育った場所は、やっぱり安心するのだ。
わたしの居場所は、此処には無い。
「だから、ごめんね」
精一杯微笑む。
最初に声をかけて来た妖精から涙が零れた。
『後悔しても知らないから!』
「あ……」
妖精は、そう言って何処かへ飛んで行ってしまった。
……悪いことをしただろうか。
でも、わたしの本心だから、仕方ない。
溜息を吐いて、妖精を見る事をやめる。
「ぁ……ロア」
ロアがシャワーを浴び終えた様だ。
うわ、珍しく上半身裸だ。
前に一度上半身裸で出てきた事があって、その時わたしがやらないでって言ったきりだったのに。
ロアの上半身は思っていたよりも筋肉が付いている。着やせするタイプなのだ。
目のやり場に困って挙動不審になる。
どうしたんだろう? 今日のロアは様子が変だ。
さっきの独り言、と言うか妖精との会話、聞かれてないよね。
文字の練習用にと出したロアが書いてくれた文字帳をしまい込みながら、ロアに何と声をかけるか悩む。
「……?」
目の前が暗くなった。
影がかかったのだ。
「ロア?」
振り向くと、ロアが居た。
じっとロアに見つめられる。
様子が、いつもと違った。
少なくともロアは、そんな目でわたしを見たりしなかった。
不鮮明な、言葉にしにくい不安が胸に残る。
もう一度声をかけようと口を開いた時だった。
「!?」
わたしはロアを見ていた。
現にロアはさっきより距離は近いが目の前に居た。
私は正面を見ていた。
正面を見ているのに、どうして天井が見えるのだろうか。
状況を把握するのに時間がかかった。
「ろ、あ?」
わたしは、どうやらソファーに押し倒されたらしい。
誰に?
……ロアに。
動き出した思考が、現状を理解したくないと叫んだ。
ロアはずっと、わたしの目を見つめていた。
それに、シャワーを浴びたばかりだと言うのに、少しだけ震えていた。
言葉が出なかった。
不思議と、怖くはなかったけど、不安だった。
心臓の音だけが、やけにうるさく耳に残った。
「…………」
「…………」
ただ、見つめあっていた。
どのぐらい時間が経っただろうか。
この世界には時計がないから、分からない。
もうしばらくして、ロアの体が冷え始めた頃、ロアの口が開いた。
「 」
三文字。何か言った。
声にはしてなくて、口の形だけ変わった。
分からなくて、ロアを何度も見た。
「 」
何度も見て、言葉を理解し、わたしは、緩やかに首を左右に振った。
そして、口を開く。
「 」
わたしも、同じように三文字、ロアに伝えた。
ロアはまた、口を開いた。
「 」
「 」
「…… 」
「……… 」
何度か繰り返した。
だんだん、ロアの表情が歪み、苦しそうな顔になった。
「 」
わたしは、もう一度伝えた。
ロアは、わたしを抱きしめた。
わたしは、
「 」
とロアに見えないけれどもう一度だけ言って、ロアの背中に手を回した。
しばらくそのままでいたけれど、ロアが全く動かないので問いかけた。
「ねえ……風邪引いちゃうよ……?」
風邪なんて引くことは無いのだろうけど、何か声をかけたかった。
「ロア……? ふ、ひっ」
「……」
「ちょ、待ってっ……うふふっ」
ロアから離れようともがく。
「ふっふっ、ちょっと!」
「……」
「あふっ、あ、まって! ほんとに無理だから!」
「……」
「あはははっ! くすぐるのやめて! 苦手なんだから!!」
バタバタと暴れる。
何度かロアを蹴る事になったが、ロアはビクともしない。
「あひははっ! もお、やめてよぉ!」
そこでようやく、ロアと目があった。
「くすぐり苦手なんだ」
ロアが呆れた様にそう言った。
わたしは、すごく、安心した。
良かった、いつものロアだ。
「そうだよ。子供の頃から苦手で、うひひ」
「へえ、面白い」
「面白くないよ!! もう! 離れて!」
「いてっ」
ロアの頭を叩いた。
ロアは素直に離れてくれた。
「と言うか裸で出てこないでって言ったでしょ!」
「ああ、うん」
「シャワー浴びてくるから、先に寝てて!」
「うん」
ロアは何処か、しおらしかった。
わたしは着替えを持って、シャワーを浴びるため駆け込んだ。
「っ、はぁ……」
扉を閉め、そのままその場にへたり込んだ。
何とか勢いで乗り切ったけど……
「ぁ、あ、ぁ……」
恥ずかしくて頭から煙が出そうだ。
上半身裸の男の人に抱き着かれました、って家族が聞いたら驚くだろうなあ……
「……」
……ロア。
ロアはとっても魅力的だよ。
わたしも、そう言う意味でロアの事、好きだから。
ロアもわたしの事が好きだったのか。
だから……あんな事を言ったんだよね。
「 」
音にならない言葉をささやく。
わたしはこの世界の人間じゃない。
ロアはこの世界の人と結ばれるべきだと、わたしは思う。
わたしは、家に帰るよ。
だからロアも、自分の家に帰ろう。やるべき事があるのだから。
「……ふ、ぅ」
一息ついて落ち着く。
瞼を閉じればさっきの光景が思い浮かぶ。いや、焼き付いていると言って良い。
ロアは、必死な顔でわたしの目を見て、言った。
「いくな」
声にしなかったのは、わたしを家に帰すと言う約束があったからだろう。
伝わらなくても良かったのだろう。
ただ、言わずにはいられなかった。
「いくな」
ロアはわたしに何度も言った。
「いくな」
さすがに少しは揺らいだ。
でも、わたしは首を振った。
ロアの願いは叶えられない。
だからわたしは、
「ごめん」
そう、言うしかなかった。
ロアの気持ちを噛み砕いて飲み込むまで、わたしはうずくまっていた。
明日から、普通に接する為……気持ちの整理を付けていた。
そうじゃないと何処かが破綻してしまいそうで……壊れてしまいそうで怖かった。
「いくな」
「ごめん」
「……いくな」
「………ごめん」
あのやり取りはしばらく忘れられ無さそうだ。
今まで気持ちを隠すのは上手にやってきたはずだ。
だから、大丈夫。
何時か、ちゃんと、忘れられる日が来るはずだ。
何も怖い事なんて無いのに、涙があふれた。




