間章:弟と快楽落ち
日が落ちて数分経った駅前。
いつもよりラフな格好をした甲斐がパンパンに膨れたスーパーの袋を持って現れた。
「お菓子買って来た。ゲームにお菓子はつきものだよね」
「そんなに食べると太るぞ」
「あー! 気にしてるのにぃ」
甲斐は自分の下っ腹をつまんで頬を膨らませた。
甲斐は痩せている方でもないし、太っている方でもない。
俺から見ると中間な体系だが、男どもの中には40キロ以上はデブとか自分の体形見てから言えよと突っ込みたくなる奴が結構多い。
そいつらから見れば甲斐は太り気味なのかもしれない。
俺は甲斐ぐらいの方が柔らかそうで……好き……ハッ。
ブンブンと勢いよく首を左右に振る。
そんなつもりで来たんじゃない! ただ海外限定のゲームを一緒に……
「どうしたの?」
「くっ、殺せ……」
「急な女騎士に戸惑いを隠せないよ」
「何があっても絶対に屈しない……」
「快楽落ちエンドまっしぐらじゃんか」
甲斐の笑い声が通りに響く。
屈するものか。このお泊りを何事もなく成功させて、今の距離感を守るんだ。
そう、俺はとても臆病な男だ。
告白? 甲斐と付き合う? 俺にそんな勇気は無いのだ。
甲斐が住んでいるマンションに辿り着いた。
住んでいる人しか入れないシステムになっており、セキュリティはしっかりしている様子だった。
「私の部屋は7階だよ」
「へえ、ここって何階建てなんだ?」
「んー、11階だよ」
エレベータに乗って7階で降りる。
案内されてようやく部屋に辿り着いた。
ごくり、と生唾を飲み込む。
甲斐の部屋、どんな感じだろう?
以外と男らしいのかな? ホラーが好きなぐらいだし……
好きな子のお部屋訪問に緊張が止まらない。
「どうぞー、入って入って!」
「おじゃましまーす……」
部屋の中は暗く、何も見えない。
甲斐がすぐに電気を付けた。
「へえ」
部屋は意外とさっぱりしていた。
フローリングに白の壁紙。奥に進むと綺麗に整えられたシングルベッドがあった。
ここで寝てるのか。
ベッドの手前にカーペットと机、それから大きな液晶テレビ。
テレビの周りに多様なゲーム機本体と棚に大量のゲームソフト。
寝転がってゲームをやるのかコントローラーが机の下に置いてあった。
俺も部屋を綺麗にしている方だと思っていたが、ここまでじゃない。
本当にすごいと思った。
「部屋、すごい綺麗だね」
「そう? ふふ、いつもは汚いんだけど、河野君が来るから頑張って掃除したの」
「ゴミ一つ落ちてないじゃん」
「掃除したからね! あ、お腹空いてない? 夕飯食べて来た?」
「まだ食べてないけど」
「何か作るよ。ちょっと待ってて」
笑顔を残して甲斐はキッチンの方へ。
俺は机の前で一人、立ち尽くした。
……マジ? 甲斐の手料理?
えっ? えっ? 嬉しすぎて状況が上手く飲み込めないんだけど?
何か手伝った方が良いよな……全部任せっきりとか最低だし。
その場に荷物を降ろしてキッチンへ向かう。
「甲斐さん、何か手伝うよ」
「えっ! 河野君はお客様だから座ってて」
「ただ座ってるのも申し訳なくて……簡単な事なら出来るから」
「う~ん……じゃあ卵割ってくれる?」
「いいよ」
何を作ってるんだろう?
フライパンでご飯炒めてて、この卵は……?
甲斐と目が合って微笑まれた。
やばいなー……屈せずにいられるかな……
出来上がった料理はオムライスだった。
甲斐の得意料理らしい。
甲斐が面白がってケチャップでオムライスに顔を書いていた。
「メイド喫茶にこんなのあったよな」
「萌え萌えキュン? 行った事あるの?」
「友人に連れられて一回だけ。俺には合わなかったな」
甲斐はメイド喫茶には行った事が無いそうだ。
普段甲斐が仲良くしている友人達はオタクのオの字も無いような女の子だもんな。
ホラーゲームの件が無ければ甲斐は普通の女の子だ。
オムライスは形も味も丁度良かった。この分だと他にも得意料理がありそうだ。
甲斐と結婚する奴が羨ましい……
夕食を取り終えると、外はすっかり暗くなっていた。
甲斐は買って来たお菓子を机の上に広げて、テレビとゲーム機の電源を入れた。
俺にコントローラーを渡して部屋の電気を落とした。
うわ、この時点で結構怖い。
「じゃあやろっか」
「言っとくけど、俺相当ビビりだよ」
「その方がゲームを楽しめるよね」
テレビでオープニングが流れ始めた。
化け物に追いかけられる主人公一行。
一人、また一人と化け物に狩られていく。
血の表現がリアルすぎてグロテスク。
台詞と字幕が全部英語だ。海外製だもんな、全部英語だろう。
甲斐がぴとっ、と俺にくっ付く。
怖いのだろうかと見遣ると、ニコニコの笑顔と目が合った。
どうやら怖い訳では無いようだ。
テレビの僅かな光源の中、俺は見てはいけないものを見て、瞬時に視線をゲームに戻す。
ダボダボのTシャツの隙間から胸のふくらみが……と言うか下着が見えた。
やばい、ゲームどころじゃない。
「あー!」
甲斐が声を上げる。
画面にはリトライの表示。
チュートリアルで死んだんだけど。
ビビる余裕もない。
「うわぁ、グロ……」
死亡演出がグロテスク。
甲斐の胸に気を取られていたら崖から落ちて主人公のナイスガイがズタズタに……
リトライを選択すると崖から落ちる直前に戻った。
「ごめん、気を付けけるよ」
「何度もやり直せるから、大丈夫だよ」
そう言って甲斐はポテトチップスを口に入れた。
*****
詰んだ。
遊び始めて数時間経った深夜。
どうもできずに周囲をうろうろしていた。
「河野君? 車に乗るんだよ」
ミッションとして車に乗る事を指示するゲーム。
もっと言うと車に乗って壁を破壊して先に進みたい。
「……河野君?」
スティックを倒してうろうろ……
俺は車が怖い。
事故の時の記憶はほとんど無いが、姉ちゃんの事を思い出してしまう。
同時に思い出す悲しむ両親の記憶。
車に乗る事は問題ないのに、運転する事に抵抗を感じてしまう。
だから俺は運転免許を持っていない。
この辺りは電車が多く走っているから問題ないけど……
ゲームの中……これはゲーム、現実じゃない。
思い切って車に乗った。
……これでぶつかる? 壁にぶつかって……
『ぶつかる!』
姉ちゃんの最後の一声を耳が思い出した。
ポーズボタンを押してゲームをストップすると甲斐が不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
「ごめん……出来ない」
「え? 順調だったのに……どうして?」
「車が……運転するのが怖くて……中学ん時事故に合って、それで……」
「事故!? どんな事故だったの? 怪我は?」
事故と聞いて心配そうな顔をする甲斐。
骨が折れた際の足の傷を見せると眉をひそめた。
「高速道路で居眠りしてたトラックが突っ込んできたんだ」
「そう、なんだ……怪我だけで済んで良かった」
「怪我だけじゃない、怪我だけじゃ……」
姉ちゃんが居なくなって、母さんはもう立ち直れないかも知れない。
父さんは車を運転できなくなってしまった。
怪我だけじゃない。失ったものが大きすぎた。
言うつもりなかったけど、甲斐に姉ちゃんの事を話した。
誰にも、家族にも、姉ちゃんへの気持ちを話した事は無かった。
姉ちゃんは俺を庇って死んだ。
俺の代わりに死んだんだ。
「……」
甲斐は面白くも楽しくもない、ただただ悲しい話を黙って聞いててくれた。
「河野君はお姉さんの事、大切だったんだね」
「……口煩かったけど、家族だったから」
俺がゲームで遊んでいると、必ず小言を言って来る。
母親がもう一人増えた気分だった。
あの頃にはもう、戻れない。
「死後の世界があるなら、そこで姉ちゃんと会えるなら……一生懸命に生きたって、姉ちゃんに胸を張りたいんだ」
「きっと会えるよ。私もお姉さんに会ってみたいな」
暗い部屋の中で甲斐が、ふわりと微笑む。
見惚れていると、甲斐が俺の手からコントローラーを取った。
「このゲームはここまでにしよ」
「……ごめん」
「いいよ、ゲームは他にもあるんだから。今度はどれにしよっかなあ」
ゲーム機の電源が落ちる。
鼻歌を歌う甲斐の後ろ姿をぼんやりと眺めた。
*****
成し遂げた。
早朝、明るくなってきたのでホラーゲームを中断した。
甲斐が簡単に朝食を作ってくれた。
味噌汁と焼き魚。完璧な朝食だ。
「じゃあ、またな」
邪念に屈さなかった! 快楽エンドをまぬがれたぞ!
「うん」
笑顔の甲斐に、良かったと胸を撫でおろした。
手を出さなくて本当に良かった。出していたら嫌われていたかもしれない。
甲斐とはこの距離感が良いんだ。このままでいい。
靴紐を結ぶ。
脇に置いた荷物を手に取ろうとした時、背中に人一人分ぐらいの重みがかかった。
「甲斐さん……?」
「………だ」
「え?」
「……やだ、行かないで」
甲斐が鼻をすすった。
泣いてる? どうして? さっきまで笑顔だったのに。
振り返ると、甲斐は本当に泣いていた。
「なんで……?」
「私の事、本当に何とも思ってないんだね」
「えっ? ごめ、意味が……」
何とも思ってない? いやいや、意識しまくりだったよ。
危うく屈しそうに……
「私が他の人に言い寄られても遠くで見てただけだったもんね……」
いや、どうせ上手く行かないって分かってたから……
「河野君一人だけ部屋に呼んだのに、何とも思わなかったの?」
思ったよ! 無防備すぎだろ! 俺じゃなかったら大変な事に!
「私の事、異性として見てくれないんだね……」
見てたよ! 最初からだよ!
「……下着、新品だったのになぁ」
ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。
服の隙間から見えたあの下着が新品だって?
つまり甲斐は……俺の為に新品の下着を身に着けてるって事?
「俺に襲われる事を期待してたって事?」
甲斐は恥ずかしそうに真っ赤になって俯いた。
「ごめん、好きでもない女にこんな事……」
「馬鹿言うな!!!」
「ひゃっ」
甲斐の両肩を掴んで少しだけ揺さぶる。
「俺がどれだけ我慢したと思ってるんだ!!!」
「ひぇっ! ……え?」
「好きだよ! 会った時から!! 好きだから手を出せなかったんだろうが!!!」
「えっ? えっ? えぇっ?」
「好きだから大切にしたかったんだ! 好きだから臆病だったんだ……」
「………」
「ごめん、意気地なしで……甲斐さんの気持ちに応えられなくて……」
「……こうのくん」
甲斐の手が俺の腕を掴んだ。
「まだ……間に合うよ。今日、泊まってって?」
俺は何も言わずに靴を脱いだ。
結局、俺は甲斐に屈した。快楽落ちエンドだ。
甲斐は大胆な事をしておきながら俺と同様初めてだった。
快楽に落ちたとは言い切れない。
結局、甲斐の部屋を出たのは次の日の昼過ぎ、バイトの時間ギリギリだった。




