別章:失った最愛 上
ナタリアが旅立った。
まだミツキの胎に二つ目の命が宿っていた時だった。
ミツキはとても優しい子で大きな腹を抱えながら俺の事を一番に心配してくれた。
ナタリアが死んだのは唐突では無かった。
死ぬ間際、まともに動く事も出来ず食事もあまりとっていなかった。
病が彼女の体を侵しつくしていた。
やせ細り死を待つだけのナタリアに、俺はそばにいる事ぐらいしか出来なかった。
延命させることも考えた。だが、結局しなかった。
ロアが楽にする事を提案したからだ。
無理に延命させてもただ生きているだけ。
俺の自己満足なのだと息子に言われた気がした。
「旦那様……奥様がお呼びです」
仕事から帰宅すると、ナタリア付きのメイドのリファにそう言われた。
部屋に行くといつも通りナタリアはベッドに横たわっていた。
「ナタリア」
いつも通り名を呼ぶが反応が無い。
耳がきちんと機能していない様子だった。
身を乗り出してナタリアの頬に触れる。
「……ろぜ、くん」
ようやく俺の存在に気が付いてナタリアが目を開けた。
殆ど焦点は合っておらず、きちんと見えているか怪しい。
ほんの数年でここまで病が進行してしまった。
俺は結局、何もできなかった。
「ごめんな……」
ナタリアの骨ばった手を握る。
体温が無い。そう思うぐらい冷たい手だった。
「ロゼくん……おかえり」
「ただいま」
ナタリアの前髪を指先でよける。
ナタリアの髪はずいぶんと短くなった。
介護してくれている使用人に少しでも迷惑にならないようにと長かった茶色の髪をばっさり切り落とした。
「おねがいがあるの……」
「お願い? 言ってごらん」
虚ろな、しかし強い意志を持った瞳が俺を射抜く。
ナタリアからお願いがあるなどと言われたのは……もうどのぐらい前の話だろう。
どんな無茶な要求でも叶えるつもりだ。
「わたしが死んだら、新しい人を娶って」
意味を理解してナタリアの手を握りしめた。
「そんな事出来ない」
「おねがい、ロゼくん」
「出来ない! 無理だ……そんな事言わないでくれ」
本当はナタリアを失いたくなんかない。
ずっとそばに居て欲しい。だけど、叶わない。
握っていた手が弱弱しく握り返して来た。
「わたしのあとを、追わないで」
「………」
「わたしはもうすぐ……」
聞いていたくなくてキスで唇を塞いだ。
ナタリアの唇は酷くカサついていた。
ぽろぽろと涙を流し始めたナタリアに胸が締め付けられる。
「ごめんね、本当はずっと一緒にいたかった。いたかったの」
「ナタリア……」
「わたしはもう生きていられない……ロゼくん、ごめんね……」
俺より早くに死ぬ事をナタリアは何度も謝った。
とても聞いていられなかった。
「君が若くして死ぬのは俺が……俺が、君に恋をしてしまったから」
「ちがう……ちがう……」
「早く死ぬナタリアを忘れて後妻を取れと言うのか!?」
「だって、そうじゃないと……」
ナタリアの頬を伝う涙を指先で掬い取ると、拒否するように顔を背けられた。
「ロゼくんが私を追って来てしまうから! あなたまで死んでほしくないの!」
ナタリアが死んだら、俺はどうしていただろう。
考えたくなくて、考えないようにしていた。
ナタリアの言うとおり、あとを追っていたかもしれない。
「この家にはまだロゼくんが必要なの……ロアだってまだ半人前で、ミツキさんはこれからお産が控えてるの……」
「………」
「私の事を忘れろなんて言わない、ただ死なないで……長生きして、お願い」
「長生きしたって……ナタリアが居ないんじゃ……」
「私はずっとそばにいる。見えなくてもそばにいるから」
ナタリアを抱きしめた。
肉は無く骨ばかりの軽すぎる体。
壊さないように大切に大切に抱きしめた。
「……新しいお嫁さんを取っても、私は何も言わないわ」
「俺が嫌だ」
「私以外に恋をする日がきっとくる」
「そんな日はこない」
ナタリアの言葉を否定し続けた。
俺の恋はナタリアで始まって、ナタリアで終わるんだ。
「誰かに恋をしたら、思い出して……私は、心から祝福するわ」
首を振って聞かなかったふりをした。
それから数日後、ナタリアは旅立った。
自分の命が残りわずかだと悟っていたとしか思えなかった。
棺に入れられ花に埋もれるようにして眠るナタリアは、闘病の末の姿だと聞かなくても分かるぐらい痩せていた。
ナタリアを見送り、何度か自ら命を絶つ事を考えた。
だが、約束を思い出し実行する事は無かった。
元帥として職を全うしていたが、書類のミスが増えて現場が混乱した事があった。
父に、少し休んだらどうだ? と言われたが断った。
外泊が増えたのもこの時からだ。
屋敷に居るとどうしてもナタリアの事を思い出してしまうから。
急な案件で泊まり込みで仕事をしていた日があった。
完全に疲れ切っていて脳が回転していなかった。
ナタリアに逢いたい。
俺は屋敷に向かい、ナタリアに逢いに行った。
ナタリアが死んだ事をすっかり心の奥深くに閉じ込めてしまっていた。
部屋に居ないナタリアを探し回っていると、臨月を迎えたミツキが心配そうにどうしたのかと聞いてくる。
「ナタリアを探しているんだ、どこにいるか知っているか?」
「……え? ナタリアさん、ですか?」
「部屋にいる事が最近は多かったんだが……」
ズキズキと頭が痛み始める。
ナタリアは殆ど寝込んでいる事が多くて、部屋から出る事も……
「どこに行ったんだ……まともに動けないはずなのに……」
「ロ、ロゼさん!」
「? どうした?」
「ロゼさん思い出してください! ナタリアさんは、ナタリアさんはもう……」
強張ったミツキの表情と、大きくなったお腹を見て……
ふと、ナタリアが死んだ事を思い出した。
「そうか……そうだったな……」
「ロゼさん……大丈夫ですか」
「大丈夫だ。すまなかったな」
俺はナタリアの部屋に行き、ナタリアのベッドで寝た。
もうほとんどナタリアの痕跡が残ってなかった。
ナタリアだけを残して時が過ぎて行く。
いつかナタリアを忘れてしまう事だけが恐ろしかった。
次の日、早朝。
仕事の為、早くに起きてナタリアの部屋を出る。
「おはようございます、旦那様」
「……ああ」
ナタリア付きのメイド、リファだ。
最後までナタリアに寄り添ってくれた、たった一人の側付きメイド。
「ミツキ様からお話を伺いまして……」
「昨晩の事か」
「はい」
「疲れていたんだ。ナタリアが死んだ事を一時的とはいえ忘れていた……最低だろう?」
「……いいえ、私はそうは思いません」
リファに見上げられる。
真っ直ぐな決意に満ちた瞳を眺める。
「奥様を思い出すとつらいですか」
「……そんなことは、ない。思い出せなくなる方が、つらい」
「奥様と共にありたいですか」
「ずっと一緒に居たかった。共にありたかった」
「……分かりました」
リファがポケットから何かを取り出す。
開いた手の平には金の鎖に存在感のあるペンダントがついたネックレスがあった。
「奥様から預かったものです」
「ナタリアから?」
「旦那様が元帥をお辞めになった時に渡して欲しいと頼まれたのですが……」
リファは少しだけ俯く。
「その前に旦那様がおかしくなってしまいそうで……」
ネックレスを渡される。
鎖部分は何の変哲もない。気になるのはペンダントの部分だろう。
「これは?」
「モーニングロケットです。開けてみてください」
ロケットの出っ張り部分を押すと勢いよく蓋の部分が開いた。
中は髪が丁寧に編み込まれている。
「この髪……」
「奥様の物です。長い髪を切った際、ご自分でお作りになられました」
親指でそっと髪を撫でる。
まだナタリアが死んでそれ程経っていないのに酷く懐かしくて込み上げてくる。
ロケットを握りしめて涙を堪える。
「ナタリア……」
俺を残して逝く事に罪悪感があったのだろう。
何か残しておかないと俺が壊れ始める事を察していたのだろう。
ナタリアは自己犠牲がすぎる女だった。
これも長く美しかった髪を犠牲にして作られたものだ。
堪えていた涙が溢れて止まらない。
その場に膝をついてロケットを抱きしめひたすら名前を呼んだ。
返事が返ってこない、名前を……
「ナタリア、すまない……」
俺はもう……屋敷にも王都にも居られない。
君との思い出を思い出すと心が悲鳴を上げる。
君が居ない事実が俺を苦しめる。
王都を出よう。
そうでもしないと君との約束を守れそうにない。
新しい女性を娶るのは無理だが、長生きの約束だけは守るよ。
「旦那様……」
心配そうにリファが覗き込んでくる。
「……元帥を辞めようと思う」
「そんな、せめてお休みに……」
「もう決めた。ここに居たらナタリアとの約束を守れない」
「……では大旦那様に権限をお返しするのですか?」
「いや……」
父がまた元帥に戻る事が一番良いのだろうが……
英雄の血は駄目だと保守派に難癖付けられる可能性が高い。
「ロアに継がせる。まだ早いが何とかなるだろう」
「今日、お話になられますか」
「いいや、まず父上に話を通してから……」
すまないロア。不甲斐ない父親で……お前に苦労を強いる事になる。
「ミツキがお産を終えるまではここに居る。ナタリアとの約束だから……」
屋敷を出て騎士隊で元帥を辞める事を父に伝えると、妙に安心した顔をしていた。
ナタリアを失った俺は見ていてきつかったらしい。
ロアのフォローを頼むと最初からそのつもりだと頷いてくれた。
ライトにも話をすると、世界は広いから色々と見てくると良い、と言って送り出してくれた。
母は……そんな事で元帥を辞めるのかと怒声が飛んでくるかと思ったが以外にもしおらしく、いってらっしゃい、と言うだけだった。
ロアはこんなに早く元帥になると思っていなかったようで、なんで、と言われた。
ナタリアとの約束を話すと、神妙な顔つきになってそれ以上疑問を口にする事は無かった。
ミツキにも話をするとロアが好きであろう笑顔を浮かべて、お土産期待してますね、と冗談を言った。
冗談では無く暗に帰って来るように言われたのかもしれない。
ミツキが無事に子を産んだ。赤い目の魔力を持った女児だった。
ヒカリと名付けられたその子をミツキに願われて抱き上げた。
じっとヒカリの顔を見た。目元がナタリアに似ている気がした。
その数日後に俺は王都を出て国中を回る事になる。
ヒカリの事が妙に気になって1年に1回ぐらいは帰ろうと思い始めていた。
ロケットに編み込まれているナタリアの髪を撫でた。
……ナタリアの命日ぐらいは帰ってもいいかもしれない。
王都の外、広大で肥沃な大地に感慨に耽る。
俺の心の中に君は居る。
俺が死ぬまでずっと一緒だ。
目を閉じると、爽やかな風が肌を撫でた。




