エピローグ 上
仲が良すぎる父と母が、珍しく喧嘩をしている。
玄関でぷくっ、とふくれっ面の母。
父はすでに仕事に向かってしまい、この場には居ない。
「母上、父上と喧嘩ですか」
俺の言葉にさらに唇を尖らせる母。
母は父の為にと伸ばしている黒髪を束で掴み、
「切ろうかな……」
「火に油です」
父は母の事を愛してやまない。
騎士隊のトップである元帥の職に就いている父だが、国の危機より母の危機を救う事を優先しそうな勢いがある。
母の全てを愛している父が特にお気に入りなのが、母の癖の無い艶やかな黒髪だ。
始めて会った時はそこまで長くなかったが、長くなり切ろうとしたら反対されたと母は眉を下げる。
母は自慢の髪を適当に結って溜息を吐いた。
「どうして喧嘩を? いつも母上が折れていたではありませんか」
俺は産まれて10年ほど経つが、喧嘩をしている所なんて見た事が無い。
いつも我が儘を言うのは父の方で、母はそれを受け入れている。
父は仕事が大変だから少しくらい我が儘させないと、なんて母は言っていたのに。
「ロウガ」
「はい」
「あなたはお父様みたいになっちゃ駄目よ」
「なる予定がありません」
「……はあ、そう言っても一瞬で変わっちゃうんだろうなあ」
グラスバルトの血を継ぐ者は、どういう訳か一目惚れが多い。
俺も恋をすれば父みたいになる……? 全く想像できない。
「ロウガはどう見てもロアに似てるもんね」
「良く言われますけど、見た目だけでは無く?」
「中身も……似てるんじゃないかなあ……?」
綺麗な深い青の瞳が俺を見つめる。
母は女性にしては珍しく魔力を持っており、魔法も使える。
魔力は中位ながら回復魔法が使えるちょっと変な人だ。
「ミツキ様!」
母付きの侍女、サラが慌てた様子で走り寄ってくる。
「どうしたの?」
「それが、スーリア様がお見えになられました」
「スーリア様が? どうして?」
「お話を伺いたいと……」
「う~ん……異世界の話は刺激が強すぎたのかなあ?」
父には姉がいる。その姉の夫がスーリアと言う名でスガナバルト家の当主だ。
自称異世界人の母の話が物珍しかったのか、物の作り手として惹かれたのか分からないが冴えないおじさんが来たみたいだ。
おじさんは良いとして……今から魔法訓練だ。
訓練用の動きやすい服に着替えて準備しないと。
母とサラの脇を通って自室へと向かう。
「お兄様あっ!」
「ん?」
正面から妹のヒカリが通路の角から飛び出して抱き着いて来た。
「うわっ! いきなり危ないだろ!」
「かくまってください!」
さっと俺の陰に隠れるヒカリ。
周りには誰も居ないが……誰から隠れているんだ?
ヒカリが俺の部屋に行くように促すので仕方なく歩き出す。
「……で、お前は何から隠れてるんだ?」
「えっとぉ……隠れてなんかないです! わたしはグラスバルト家の令嬢です! 隠れてなんか……」
そう言えば今日ヒカリの礼儀作法の教師が来ていた。
確か……厳しい人でヒカリは苦手としていた。それで逃げてるのだろうか。
「ちゃんと学んでおかないと後で大変だぞ」
「うぅ、あの方苦手で……」
「実績のある教師なのだから、頑張れ。立派な淑女になれないぞ」
「立派な……う、う……」
「好きな人に選んでもらえないぞ」
俺は母に怒られるのが怖いから……とは言わない。
ヒカリは好きな人や結婚を話題に出すと言う事を聞く事がほとんどだ。
恐らく……誰かに恋をしているのだろう。
父が聞いたら発狂しそうだな。
ヒカリは母に似ている。
癖の無いストレートに光を反射する黒髪。全体的に可愛らしい顔立ちなんか特に。
唯一違うのは瞳の色で、母は青、ヒカリは赤。
俺とヒカリは父の魔力属性を受け継いだ。
「立派な令嬢になれば……結婚できるでしょうか……?」
「それは……分からないけど、礼儀作法がきちんと出来て初めて結婚相手の候補に選ばれるんじゃないか? そこがスタートラインだよ」
「わたしはまだ走り始める事もできないのですか!?」
「走る前の準備運動じゃないか?」
ヒカリの顔色が悪くなる。
そしてブツブツと小声で呪詛を吐き始める。怖い。
何を言っているか全く聞こえないが、とぼとぼと自分の部屋に向かって歩き始めた。
最終目標、好きな人と結婚。を実現するために勉学に励むようだ。
「ヒカリ、お前って好きな人が居るのか」
しょんぼりしたままのヒカリが力無く頷いた。
「どこが好きなんだ」
「……ぜんぶ。だけど……最初は、眼でした」
「眼?」
「とっても綺麗だった……また見たいです。だから、頑張ります」
「ふぅん……」
「あ、お父様には絶対に言わないで下さい」
「分かってるよ」
何度も言うが父は母を愛している。
母に似たヒカリの事も溺愛している。
ヒカリが恋をしたと父が知ったら……相手は粉微塵かも知れない……
母は恐らくヒカリが恋をしている事を察しているが父には決して言わない。
怒りに我を忘れた父を止められる人間など指で数えるぐらいしか存在しないからだ。
面倒事になるから誰も言わない。と言うか言えない。
ヒカリのつらそうな背中を見送った後、自室に入りテキパキと着替えた。
無駄に時間をくった。早く行こう。
部屋を出た瞬間、足に何かが絡みついた。
「……ツキト?」
「あにうえ! どこいくの?」
「訓練だよ」
「くんれん! ぼくもいく!」
「危ないからダメ」
「なんで? くんれんしてみたい!」
足にしがみつく弟のツキトがキラキラした青い眼で見上げてくる。
一番下の弟のツキトだけ母の魔力属性を受け継ぎ、青い眼をしている。
「もう少し大きくなってからな」
少々無理にツキトを引きはがし、廊下を歩き始める。
「やあっ、あにうえ! やだ! つれてって!」
「お前は今日歴史の勉強だろ? 連れて行ったら俺が怒られる」
「やだあっ! あにうえまって! あにうえっ!」
短い手足で必死に付いて来るツキト。
しばらく無視して進んだが、相変わらず付いて来るので心配になって振り返る。
その瞬間、にぶい音をたててツキトは転んだ。
「ツキト! 大丈夫か!?」
「うっ、うっ……うぅ」
「ごめんな、訓練には連れて行けないんだ。部屋に送って行くよ」
慌てて抱き起こして痛い所は無いか聞きながら確認していく。
頭から地面にぶつかったようで額が赤くなっていた。
仕方なく額を優しく撫でた。
「うっ」
「ツキト?」
「うぅうぅ」
「泣くなよ、頼むから泣くな、男の子だろ」
「うわあああぁあああぁあぁん!!!」
やばい! 早く外に!
「うわっ!」
ばしゃばしゃばしゃっ! 上から大量の水が降って来た。
ああ……駄目だったか。
ツキトは感情が激しく動くと無意識に魔法を使ってしまう癖がある。
特に泣いている時が酷く、大量の水が降ってくる。
対処法は外に出る事だが、ここは俺の部屋の前の廊下……すぐに出て行けなかった。
ばしゃ! ばしゃ! と追加で空中に水が産まれ、落ちてくる。
「ツキトごめん、泣きやんでくれ」
「わあぁああん、うぇえぇぇん……ひっく、いたいよぉおぉ」
「おでこ痛かったな。ごめんな」
ツキトのおでこを撫でつつ、母は近くに居ないのかと探す。
早急に泣きやませる方法がツキトを母になだめて貰う事だが……玄関でサラと話していた、近くにはいない。
「うわっぷ! ごほっごほっ!」
真上から大量の水が……思いっきり飲んだ。
あと方法と言えば……
「坊ちゃま! どこでございますか!?」
一瞬だけツキトが静かになった。
再び泣き始めたが、泣き方が変わった。
さっきまでぎゃん泣きだったが、相手を意識した可愛らしい泣き方になった。
それに、水が落ちて来る事も無くなった。
「ツキト坊ちゃま! ぎゃあああ!!!」
廊下の角からツキト付きのメイド、メリエールが顔を出しずぶ濡れの廊下を見て絶叫した。
気持ちは理解できる。
「めりぃ、うぇええぇん」
「坊ちゃま、メリーはこちらでございます」
ツキトが、とてとて、とメリエールへと向かう。
メリエールの腕に納まったツキトはすすり泣きながらしがみ付いた。
ツキトをすぐに泣きやませるもう一つの方法がメリエールに会わせる事だ。
メリエールは金の長い髪に緑の眼を持った、俺より5つ年上の15歳だ。
下級メイドとして屋敷で働いていたが、ツキトに気に入られて専属メイドになった。
「急に居なくなるから心配しました」
「ぐすっ……めりー、おでこいたい」
「大丈夫ですか? 奥様に回復魔法をかけていただきますか?」
「……いらない」
「分かりました。坊ちゃま! 痛みを耐えるなんてさすがです! ゆくゆくは旦那様のような騎士になる事間違いなしです!」
ツキトが嬉しそうにメリエールにすり寄る。
メリエールは褒め上手だ。ツキトは甘やかしてくれるメリエールに懐いている。
メリエールが一度ぐしょぬれになった廊下を見て呻いた。
「カーペット……あぁぁ……どうしよう……」
「メリエール、早く人を呼んだ方が良いんじゃないか?」
「はっ、はい! あっ、ロウガ坊ちゃまは」
「俺はまた着替える」
下着までぐっしょりで気持ち悪い。
服を魔法で乾かす事はまだ俺は出来ない。繊細な魔力操作が苦手だからだ。
ヘタしたら燃やしてしまう。
メリエールがツキトを抱えて人を呼びに行ったのを確認した後、再び部屋に戻る。
「うわあ……」
水が部屋の前まで来ていた。開けて大丈夫なのだろうか。
勢いよく開けて素早く閉めた。中まで水は入ってこなかったようで安堵した。
ぐしょぬれの服を脱ぎ捨てて着替えて廊下に出た。
廊下ではメイド複数人がツキトの魔法の後処理を行っていた。
挨拶しつつその横を通り過ぎ、ようやく玄関へ。
玄関に居た母とサラは居なくなっていた。
そのまま外に出る。
「あ、おはようございます。スーリアおじさん」
玄関前で待たされているおじさんに挨拶しておく。
しておかないと母に頭を叩かれるからだ。
急に来たからまだ中に入れてもらえないのか。
スーリアおじさんの見た目は最高位の魔力とあって若い。
しおれた青年って感じ。
この人がまさか王族から一目置かれている魔法具開発の責任者なんてなあ。
「やあロウガくん。君は本当に父君にそっくりだね」
「そうですか? あんまり嬉しくないです」
「ところで……君は蛇とか爬虫類は平気かい?」
「虫も平気です。爬虫類って可愛いですよね」
トカゲとかよく見ると可愛い顔をしていて好きだ。
捕まえて母に見せたら悲鳴を上げて頭を叩かれた。
母は虫は平気だけど爬虫類は苦手だった。知らなかった。
「かわ、いい……?」
「どうかしましたか?」
「いや、いいんだ……やっぱり君は父君に似ているよ……母君はいるかな?」
おじさんは真っ青になっていた。爬虫類が苦手な人だったのだろうか。
返事を考えていると母が出てきた。
「おはようございます、スーリアさん。今日はどういたしましたか?」
「おはようミツキちゃん、あの……前聞いた異世界の話をもう一度聞きたくて」
母は先日当家で行われた茶会で異世界の知識を披露していた。
あんまり異世界人だって言わないでね、と母は言うが……正直、俺は全く信じていない。
他の世界にもピンとこないし、異世界からやって来て父と恋愛をするって言うのも変だ。
茶会の参加者は父の近親者のみだったので、母に奇異の眼を向ける人は居なかったが……何言ってるんだかと隣で聞いていた。
母の話に一番反応を示していたのがスーリアおじさんだ。
「何をお話しましたか?」
「えっと、車! 馬を使わない馬車の話!」
「車ですか……言っておきますが、あまり詳しく話せませんよ」
「詳しくなくて良いんだ。どう言うものがあったのかが知りたいんだ」
「ここではなんですし……お部屋で話しましょう」
母とおじさんが屋敷の中に入って行く。
ふと気が付いて母が振り返った。
「あ、ロウガ! スーリアさんにちゃんと挨拶した?」
「しました!」
「これから魔法の勉強でしょ? 今から準備しちゃいなさい」
「分かりましたー!」
それ以上小言を言われる前に庭に向かって走り出す。
今日は魔法実践の日なので外で行う。
教師の考えで実践に近い方が良いと木刀だが剣も用意する為、倉庫に向かって走った。
木刀を二本手に取って、訓練広場に一人向かった。
「おはようございます!」
屋敷から少し離れた広場に本日の魔法の教師が仁王立ちしていた。
「ロウガ、おはよう。今日も調子が良さそうだな」
「訓練、楽しみにしてました! よろしくお願いします!」
俺と同じ短い黒髪に大きな赤い瞳。
挑戦的に口の端を片方だけ持ち上げ笑う、年の頃17ほどの少女。
俺の曾祖母。ひいおばあ様だ。
曾祖母は長年王都騎士第3番隊の教官を勤めていた方だ。
俺が産まれる前に教官を辞して、夫である曽祖父と一緒に旅行をして余生を楽しんでいる。
今日はたまたま王都に帰って来ていたので教師をお願いした。
「ひいおじいさまは来てないんですか?」
北の国を制圧し我が国の領土とした時の話が聞きたいのだけど……
「ロナントは騎士隊に用があるって言ってたから……父ちゃんに用があるんじゃないか?」
「父上にですか……ならしょうがないですね」
元帥に用事か……きっと大切な話なんだろう。
居ないものはしょうがないと曾祖母と向き合う。
「どうして髪が濡れているんだ?」
「あっ、これはツキトが……」
「ツキトか、あの子も困ったものだ。感情と魔力が切り離せていない……矯正しておかないと」
感情の揺らぎに魔法を使ってしまう事は、曾祖母によるととても危険らしい。
今はまだ子供だからいいけれど、大人になった際に魔力暴走を起こす引き金になる。
魔力暴走は最高位魔力保持者に起こる現象で、体を流れる魔力に肉体と精神の全てを乗っ取られ、破壊の限りをしつくしてしまう。
ツキトはもう少し大きくなってから感情と魔力を切り離す授業をするそうだ。
「ロウガ、今日は魔力の循環効率のお勉強だ。地味な内容だがとても大切な話だ、ちゃんと聞けよ」
「はい!」
強い日差しの中でひいおばあ様の授業を受ける。
数多くいた騎士達もこの話を聞いたのだろうか?
俺もそのうち……父のような立派な騎士になれるだろうか。
今はただ、愚直に真っ直ぐに、知識を吸収する。




