また帰るために
家への連絡も終わり、今日は休日ながら直仁氏は忙しく会合か何かに出かけ、今回は会えなんだ夫人とともにまたしばらく家に寄りつかないらしい。どうやらこれでもかなり無茶をして貰ったらしい。それほどの大事である、ということである。それこそ他人事ではないのだが…霞さんが大切に思われていることが分かり、嬉しいのと同時に身を引き締める。
引き締めたのはいいのだが…
「身を楽にしてくださってよいですよ」
とろける様に耳に入ってくる心地よい声と、その反対の耳に伝わる柔らかな感触に力が抜ける。今、俺は霞さんに膝枕されて耳かきの最中だった。
用事で家を離れている直仁氏や詩織ちゃんに限らず、静香さん達、家人も二人きりで過ごしたいという霞さんの要望を聞き、自発的に離れ、今はしん…とした屋敷の中で二人きりである。
「いいんだろうか?」
「何がでしょう」
「こう…特別に何かした方がよくないか? デートとかさ」
霞さんの中のわだかまりを失くしたい。そう思うからこそ、今こうしてここにいるのだがだからこそ、今ここでしかできないことをする。そういう時間だと思うのだ。
「ひょっとして、デートに苦手意識とか持ってしまっているか?」
「いえそんなことはありませんよ。あれはあれで私にとって大切な思い出です。寧ろ再挑戦できる機会は私も望むところですが…でも、今は、こうしていたいんです。真一さんは、もっと賑やかとした方がよろしいでしょうか」
いや、こうしているというのも贅沢な時間の使い方だとは思うし、事実、俺も嬉しいんだが。
「やはり、早く帰りたいですか?」
耳かきを手元に置き、俺の頭をそっと撫でるようにする。
「私と二人きりは嫌ですか?」
「ごめん。そういうわけではないんだが」
「ふふ…半分だけ冗談です」
半分は本気だった。
「せっかく静香さん達が気を遣ってくれたのですから、二人きり。水入らずで過ごしたいんです」
水入らず。引きこもりということはなくても、一人になってゆっくりとしたい時はある。それでも一緒にいる相手として俺を受け入れてくれたというのは光栄だ。
「大丈夫ですよ。真一さんが何かをしている実感が無い、そういう手持無沙汰なのも分かります。でも、私の胸の内にはとくとくとこみあげているものがあります」
だから、大丈夫だと。そう言う。
「悪いな」
それはつまり、霞さん自身も前を向いている、ということ。終わりに向けて。俺が望むままに。
このまま時が止まればいいのに、と。霞さんが望むとしてもそれは嫌だという俺の願いを霞さんは咀嚼して、受け入れている。
「謝らないでください。それとも、謝るようなことをしている、と。そう言うのですか?」
そうだな。俺は確かに自分の為に、自分の理屈を押し付けている。けれどそれでも俺だけの為ではないものにする為に、出来ることをする。そういう決意がなくちゃならない。
「…そうだな、わる…あ」
「ふふ…そうですね。そこまで申し訳なく思っているなら、私もわがままを言っちゃいます」
気を遣われているのは分かるが、だからと言ってこれ以上言えることもない。
せめて霞さんの望みを叶えたいとそう思いながら、先を促す。
「今日…今だけは私のことで頭をいっぱいにしてください」
霞さんの顔を見れば、見る見るうちに真っ赤になっていて、でも見つめる俺の目を逸らそうとはしなかった。
「分かった。よし!」
「それじゃあ続きをしましょうか」
気合を入れようとしたところで、膝をぽんぽんと手招きする霞さんに吸い寄せられるのだった。
「失礼します」
再び霞さんの膝に頭を乗せ、心地よい力加減で耳かきを始め、ふぅっと息を吹きかけてくる。
「んんー…」
唸る。いかんいかんぞと警鐘をなら…しているような気もするがそんなものは形だけになっていることを自覚していた。
「どうかしましたか?」
「いやぁ…何かダメになってしまいそうな不思議な魔力がですね」
これじゃあ気など引き締められるわけはないというのだ。
「…なるほど」
思いの外、伝わってしまったようだった。
「そうですね真一さんの本当の気持ちを知る為にも、私も膝枕をお願いしたい気持ちもありますが」
優しく、頬を撫でてきた。
「今はただ、私に身を委ねてください」
「いやそれは…」
悔しいとかいうのとはまた別の、どげんかせんといかんとかそういう衝動が湧きあがるのだが格好がつくわけはないので呑みこむ。
「なるほど。真一さんはそういう人ですからね」
「どういう人だ」
「うーん…口で説明するのは難しいですね。強いて言うなら頑張る人、でしょうか」
なるほど。分からん。
「ですがそうですね。ダメダメな真一さんを見てみたい気もします」
きらん、と霞さんの目の奥が光ったような気がした。
そして、ゆっくりとしたメロディで歌を歌い始めた。子守唄だ。優しい声色は空気に溶けて、じんわりと俺の頭を揺らし…そして…
「…ん…」
あれ…? ここは一体…
「あ…目が覚めましたか」
目の前におっぱ…いや違う。寝ぼけるのも大概にするんだ。霞さんがいた。そして完全に目を覚まし、辺りを見回す。赤い夕陽が差し込んでいた。さーっと血の気が引いた。
「……面目ない」
「何がですか? 私は真一さんの寝顔をじっくり見れて嬉しかったですよ」
ふふ、と面白そうに笑う。認めよう。俺はダメダメであった。
「真一さんも疲れが溜まっていたんでしょう。それだけ安らいでいてくれたということなら私も嬉しいです」
さながらひなたぼっこのような牧歌的というかそういう日常の一部として、みたいな意味合いで言っていると思うのだが…いやーあれはもうシロップ漬けの缶詰みたいなもんで毎日は楽しんじゃダメなやつだと思うよ。
「…」
霞さんは、どこか遠くを見つめる様にする。
「不思議ですね。あんなに、焦っていた、どうにもならないと思っていた、どろどろとしたものがぽっかりと抜け落ちた気がします」
霞さんがここに来る決意をしたきっかけ。自分の中で消化できなかった嫉妬。
俺にぶつけてくれたことで、幾分か消化できた部分もあるんだろう。けど全部、どうにか出来たかといえばそんなことはない。これは謙遜だとか自信がないだとかそういうことじゃない。
「抜け落ちて…思うんです。寂しいな、って。我ながら現金なものですね」
寂しさと、それと後悔だ。
『ダメ! こういうのする前に私…うーん? 私達に相談するの! そうしないとダメ! 許さない!』
『まあそういうことだな。別に排他を目指す必要もあるまい。どうせならば、問答無用によりよき結末を目指せばそれでよい』
そう簡単に断ち切れはしないのだ。断ち切りたくなんてないのだ。それはいつの間にか俺達の間で当たり前になっている。
「でも…分かっているんです。また私は嫉妬したりして、どうしてまた帰ろうと思ったのだろうかとまた後悔する。そんな…矛盾が。想像するだけで、分かってしまうんです」
ただ別れを、決意を、覚悟を先延ばしするためにそれを利用していると言えばそうなのかもしれない。けれど、今は許してほしいとそう思うのだ。
だから、俺は霞さんの背を押す。いや、霞さんだけでなく皆を、俺を。
「霞さん。今の気持ちを、忘れないようにしよう。みんなに会いたいとそういう忘れたくない気持ちは、失いたくないって思う温かいもののはずだ」
「どうやって、ですか?」
すがるように、霞さんは見つめてくる。
「多分さ。結婚だとか…約束ってのはそういうものなんだよ。心なんてのはどうしようもないもんなんだけど、それでも、それを確かなものにしたくて、定めて、決めて、刻むんだ」
霞さんの手を取る。
「俺達自身のために、俺達自身の手で、俺達自身の婚約を交わそう。それが根元にあれば、きっと大丈夫だ」
これからもきっとぶつかることだってあるだろう。お互いだけでなく、どうしようもないと思えるほどの何かが立ちはだかることだってあるんだろう。
けれど、それでも離れない、と。そう約束した事実が、胸に刻んだものがあれば、きっと大丈夫だ。
「まったく…それで一体、どれだけの女の子を泣かせてきたんですか?」
冗談交じりに言って来る。どこかで直感したんだろう。これは初めてじゃない。
だからやくそくだけでもいいの。わたしと…けっこんしてほしい
愛希が、明日香が、霞さんが、華凜ちゃんが、友助が、皆がいてほしい。そうでなければ、今、こうして霞さんの前にだって立ててない。
当たり前だが俺は不完全なのだ。だから、足りない部分を皆に補ってほしい。そんな俺で、皆を補いたい。
「…もう、取り消しは聞きませんよ?」
霞さんが俺の首に手を回し、抱きついてくる。そして、ゆっくりと顔を近づけ、目を閉じ、止まる。ここから先は、俺が踏み出せと。それは、言い訳しようも無く俺の意思を示すものだと。
「…ん」
口づけを交わす。明確な文言はないが、それでも俺達の間に何かが築かれるのを感じた。
昨日の今日というやつでもう帰ると言われればさすがに面喰らうかと思われたのだが、そんなことはなかった。いや、どっしり構えすぎだろうと。
「まあ思ったより絡まった事柄の様ですし、これから度々、様子を見にお邪魔することになります」
静香さんが言った決定事項であった。
「あ! わたくしもわたくしも!」
一番、引き止めていたのは詩織ちゃんだったのだが…うん。何だかんだで安心感というかある種の安定感のある子だった。
「真一さん、蜜柑食べますか」
そして今は、すっかり暗くなった特急電車に揺られ、俺と霞さんは家路へと急ぐ。
「どうかしましたか?」
「いや、何か既視感がね」
感慨深いというか…
「静香さんですか?」
むぅっと蜜柑を一房、俺の口に押し付けながら言って来る。不謹慎だが可愛い。
まあヤキモチを妬かないでくださいとは口が裂けても言えないが、何か微妙に反応が違う気がする。
「そうですね。浮ついた気持ちと書いて浮気ですからそれはちょっと違うかな? と思うんです」
なるほど。やるからには本気ならいいのかと…うん? そういうことでいいのかな。
まあそれは置いておくとして。俺が感慨深いと思っていたのは
「霞さんが一人でいるのは寂しくなかったんだろうか、とそんな話をしていたんですよ」
そして、今、こうして俺が霞さんの傍にいる。それならよかったと。つまりはそんな話だ。
「…っ!」
霞さんはしばらく呆然としていたがやがて赤面して、黙る。
「恥ずかしいですねもう…私ったら」
それだけではなく、嬉しいと思ってくれたのならば喜ばしい限りである。
「でも、こうしていると駆け落ちの様ですね」
「そうかな。そうかもな」
「そうです。不安を胸に抱きながらも、だからこそこれからの希望を語り…」
「えーっと…霞さん?」
「はっ! す、すみません…」
いや、いいんだ。こうして、冗談みたいに話が出来るのなら、きっと大丈夫だとそう思うから。
「いつか、またこうして出かけるのもいいかもな。一緒に、さ」
「そうですね」
そして、駅から出て、手を繋ぎながら歩く。
「真一さん。手、強いです」
「悪い。痛かった、かな」
「いえ…ただ、大丈夫ですから」
少しだけ不安な帰り道。離れないように手を繋ぐ。
しかし、そう言った霞さんの手の力は強くなる。
「ふふ」
はにかむ。そうしたいから、とそれだけの理由で、きっと強くなってる。
短いような、そんな帰り道も、終わりを迎える。しかし、それを気に病むことはない。むしろ、ようやく、という心地で、俺達はまた帰ってきた。
「ただいま」
次回、蛇足っぽいエピローグ




