たちばなけ
いまさらですが全国の橘さんすみませんネーミングのあれが乏しくてですね
「真一さん。蜜柑食べますか?」
向かいの席から、白い筋を丁寧にとった蜜柑を差し出してくる静香さん。
あの後、言うまでも無く了承した俺は、霞さんの実家へと足を運ぶこととなった。今は特急電車の中だった。まだ明るい時間帯のせいか元々、乗客の少ない路線なのかこうしてぼちぼちと向かい合って談笑するくらいには落ち着いた旅だった。
「えっと、いただきます」
「はい、どうぞ」
にこりと笑う。本気で怖いくらいの迫力を出す時もあるが、本来は穏やかな人なのだろうなとそう思う。
「どれくらい電車に乗ることになるでしょうか?」
「あと一時間ほど、になるでしょうか」
遠いな。
「何か考え事ですか?」
「霞さんは、一人でどんな気持ちだったのかと」
「…私と二人というのも、気が休まらないものと思いますが」
「そうですね。さすがに緊張しないと言えば嘘になります。けど、不安な時、誰かが傍にいるとやっぱり安心できる」
情けないことを言うようだが、やはり俺はどうしようもなく青い。いつだって恐れずに前に進むなんて、言葉で言う程簡単に出来はしない。
そんな時、引っ張ってくれなくてもいい、誰かがいてくれさえすれば意地を張ってでも前に進もうと思える。
『もし…愛希さんや明日香さんに私の想いを伝えて、その結果、ぶつかって、シャボン玉のように割れてしまったら?』
『そんな心配はないとは思うが…責任を取る。絶対に霞さんは孤独になったりはしない。必要も無い。だって霞さんが好きな俺がいるから』
なのに何をやっているんだろうな俺は。
「そう悲観することはありませんよ。少なくとも、私は真一君の味方をしましょう」
驚く。ともすれば嫌われているとくらい覚悟していたのだが
「そうですね。まあ正直、直してほしい部分もないではないですが…概ね、個人的に真一君のことは気に入っています。でなければいくら私でも身体を差し出すなどと冗談でも言いません」
「いや、それに関しては本気で頷いたら殴られるくらいはしてましたよね?」
「そんなことを言わないと信じていたのですよ?」
悪戯っぽくはぐらかす静香さんだった。
「でも静香さんの立場が…」
「私は私として橘のことを考えているつもりです。それを受け入れぬほどの狭量であるというのであれば、今まで私が仕えていたことこそが間違いであった、ということ。気にすることはありませんよ」
なるほど。俺が思う以上に静香さんは個人として尊重されているし、また同時に、静香さんは橘の、ひいては霞さんのことを想っているということらしい。それでおいてなお、俺を支持してくれるのだろうか。
「参考までにどの辺がでしょう?」
この先にある霞さんの親父さんとの対面のために聞いておきたい。
「自ら捻り出したものでなければ、人と向き合うのに足りる言葉とは言えませんよ」
嗜めるように言う。そう言われればそう、なのだが
「とはいえ、私としても実の所、答えを持たないのですよ。実を言うとですね、霞様は無理をしているのかもしれない、とそう思っていたのですよ。そう…自らの心すらも騙し、あなたのことを恋い慕っていると」
確かにそうでしかなかった時があった。でも
「ええ。今は違ったのだなとそう思います。まあ…もしかしたら、私が個人的にあなたのことを気に入ったからそう思っているだけかもしれません」
「…えっと、俺のような青二才を弄んで楽しいですかね」
「あはは…申し訳ありません…ですが、そうですね。楽しいかもしれません」
自分でも意地の悪いことを自覚したのか、しきりに首を傾げる静香さんだった。
その後、バスなどを経由し、ようやく着いた頃には辺りは暗かった。景観を意識してか電灯も少ない歩道をゆっくりと歩いていく。
「着きました」
そびえ立つ、という言葉がふさわしいくらいに荘厳な、日本家屋。静かに佇む歴史漂うその家の風体に、これから何が起こるのだろうかとひそかに息を呑んだ。
「こちらへ」
しかし、正面ではなく裏口に回される。五分ほどかかるその道のりで、緊張感が増しているのかそれとも緩んでいるのか、判断がつかないほどとにかく心乱れていた。
「よく来たね」
案内された部屋に入って、声を掛けられる。しん…と静まりかえるような響きを残すその穏やかな声に耳を傾けると、そこにいたのは白い髪が混じる中年の男性だった。
儚いようでいて、しかしそこに確かにいる。ともすれば、油断、してしまいそうな柔らかな雰囲気を持っているが、心してかからねば、と心のどこかで警鐘を鳴らす。
「私の名は橘直仁。君が真一君か。会えてよかったよ」
「…挨拶が遅れてすみません」
「ん? 男と女が話をした程度で挨拶は要らないよ。それとも、それ以上のことでもあるのかな?」
息がつまる。ともすれば聞き逃してしまいそうな、そんな言葉に込められた真意を、必死に掴もうとする。
「失礼。意地悪をしてしまったね」
直仁さんは足を崩し、柔和な笑顔を浮かべた。
「霞のことは、うん。礼を言おう」
「礼、ですか」
「…実の所、親子の縁を切る、と言われてしまっても文句は言えないくらいに強引なことをあの子にしてしまったからね」
語った。霞さんが俺の元に来た、その真の理由を。
どうやら直仁氏は霞さんの自主性の無さを嘆いていたらしい。霞さんがいい人なのは事実だし、もてなし、相手に合わせ、どこまでも柔らかな雰囲気を持っている。一人の人として間違いがあるわけではない。
けれど、それは霞さんが望んでそうなったのかと言えばそれは違う。まして、構ってあげられなかった自らのせいであるというのならそれはやりきれない。そこで荒療治ながら霞さんが拒否せざるを得ない様なことを突きつけた。それが、本来なら拒否することも出来た、俺との婚約であったらしい。
「あの子が恋に憧れを抱いていたのは分かっていたからね」
けれど、それすらも受け入れようとした。本来ならば無理をしないでいいと言えばいいのに、それを言いきれず、そして、であるのならば俺の元に行き、後悔するように、とそう仕向けていたらしい。
「勝手な話だな」
「面目ないけれどね。けれどびっくりしたよ。霞が、このように戻って来るとは思わなかったからね」
このように。つまり、俺や愛希たちが悲しむのを分かっていても、ということだ。本来の霞さんなら何かあるとしても消化して、そのまま表面上は何も無いように見えたかもしれない。そう考えると…喜ばしいことであったのかもしれない。
ただ、原因は結局の所分からないのだ。
「そこで、なのだけれど」
何だ? 俄かに部屋の外が騒がしい。
「霞も元気が無くてね。やはり君が傍にいないというのは堪える、と。思わず漏らすことがあったよ」
「そうですか…」
「そこで、暫くこの家に滞在してほしい」
「はぁ…は?」
などと言う間もなく、障子が開けられ、
「それじゃあ頼んだよ婿殿」
そこから来た使用人の方たちに、俺は連行されたのであった。
霞さんの親父さんは悪ノリしてるだけです




