誰かの為ではなく
突然のこと申し訳なく思います。私、橘霞、故あって一時、この家を離れ実家に身を寄せることを決めました。
これは私の一存であり、私の親族や静香さんたちに強要されたことでは決してなく、また愛希さんや明日香さん…真一さんに不満があった、というわけではありません。全ては私の不徳と致すところです。
ですから、何も気にすることなく、日々を健勝に過ごして下さることを切に願います。
乱筆乱文申し訳ありません。
霞さんの残した手紙には手短にこのようなことが書かれていた。
「まあこうは書いているが恐らく実家からの何かしらの干渉があったことは事実であろうな」
だろうな。そのくらいのことは分かっていたはずだけど、見通しが甘かったんだろう。
「連れ戻しに行かないと!」
「待て」
愛希が叫ぶのを、明日香は冷徹に呼び止めた。
「何でよ!」
「…何故、霞は我らに直接何も言わず、また他の連絡手段も使わず手紙だけを残していったか分かるか?」
言われて気付いた。霞さんは古風な人といっても携帯だって持っているし番号を知らないということもない。
「返事は要らぬと言う意思表示だ。恐らく今さら連絡を取ろうとしたところで無意味だろう。まあそれはさして重要ではないな。問題なのは、それほどに強い意志で我らを拒んでいるということだ」
拒んでいる。分かっていたはずなのにこうして言葉に出されるだけで、どうしようもなく心を抉る。
「さて、その上で尋ねよう。愛希よ。お前は誰のために霞を連れ戻そうとする?」
「誰って…霞さんの為よ。こんなの、霞さんが望んでるわけ」
「勢いだけでここまではせんよ。手紙など悠長に書いている時点で普通は冷静になったりするものだ。つまり、それこそ、霞が望んでこうしているだけなのだ。それとも、お前は、霞が分別も付かぬガキとでもいうつもりか」
「何で…何でそんなこと言うのよ…!」
愛希は明日香に掴みかかる。それをどうということも無く、明日香は平然と受け止め、じっと見つめる。
「そうだな。お主が色々騒いだことで却って冷静になった面もある。その上で、我は霞の残した言葉を尊重しようと思う」
「霞さんの…言葉…?」
「霞は気にするな、と言った。今のお主のように顔を曇らせるのを望みはしないであろうよ。であれば無理にでも笑え。それが、霞の為というものだ」
「そんな…霞さんの為になんて…出来るか! 私は…そんな、明日香みたいに、達観したことなんて言えない…!」
「達観か…さてどうであろうな。結局の所、我は我が身の可愛さにもっともらしいことを言っているだけかもしれん」
愛希は黙った。明日香が、寂しそうに笑っていたからだ。
明日香は、明日香にしてみれば身勝手と罵りたくなるような、そんな感情の元で生を受けた。だから、明日香は自らが正しいと思う道を常に考え、目指すのだろう。
「とはいえ、愛希も勘違いしている。我は別に、止めているわけではないのだぞ」
にやり、と面白そうに俺の方を見つめる。その顔は、期待するように。凄絶に可憐に。
明日香の道を違えさせたという、俺に。さあ何が出来ると。
「失礼いたします」
そんな時だ。声が響く。その声は、ついこの前聞いた…
「静香さん?」
「む? この者が、か」
「…お気持ちお察ししますが、まず私の話を聞いていただきたい。その後は何なりと」
躊躇いも無く頭を下げる。実直な人柄が伝わったのか、その様子を見て、二人も静かに話を聞くことにしたようだ。
「どうやら私の報告が引き金となってこのような事態となったようで」
「霞さんの親父さんは何て言っていたんですか」
「そうですね。霞様の父君…直仁様は霞様の様子を大層心配していたそうでお二人の詳しい会話内容は分かりかねますが、私からの報告により『いつでも帰ってくるように』と。それだけを伝えたそうです」
なるほど。
「それじゃあ…本当に…?」
「そうですね。霞様が何を考えているのかは分かりかねますが、直仁様は霞様に無理強いをしているわけではありません。多忙の身ゆえ、触れ合う機会の少ないながらも深い愛情を霞様に注いでおられます」
つまりは、明日香の見立てに間違いはなかったと。もしかしたらと聞いてみた愛希は、押し黙る。
「そっか…よかった」
安心した。霞さんは、たとえば政略結婚に巻きこまれたとかそういうわけでもなかった。
ただ、優しい愛情に包まれただけだ。多分、いや間違いなくその原因となった俺がどの面を下げて言うのかと思わないでもないが…まあ仕方がないか。
「静香さん」
「何でしょう?」
「霞さんの実家に連れて行ってください」
さすがに静香さんは面食らったようだった。いや、愛希もか。明日香はというとはっはっはと愉快そうに笑っているが。
「どういうつもりでしょうか? 霞様が望んであなたの元を去ったということは察していると。そう認識していたのですが」
じろりと睨みつける。傍から見ていた愛希が小さく悲鳴を上げるくらいには。
しかし退かない。
「いきなり言われても困るんだ。霞さんは、もう俺の日常に無くてはならない存在だから」
「家事手伝い程度であれば私が代わりに請け負いましょう。そうですね。もしも、それ以上、たとえば霞様の身体が目当て、とでもいうのであれば私のことを好きになさってもらっても構いません」
挑発するような目で言う。にわかに色気立つようなその視線。
静香さんにそこまで言わせてしまうのは申し訳ないと思う。けれど、
「俺は、霞さんに会いたい」
言い切る。目を逸らさず、じぃっと見つめる。そう、事実、霞さんは俺に顔を合わせるのすら辛かったりするのかもしれない。
けれど、知ったことかというのだ。明日香は言った。誰の為だと。そう。俺は霞さんの為じゃなくて、俺のために。俺が霞さんと会えないのも、泣いているかもしれない霞さんを放っておくのも、霞さんがこの場にいないのも、嫌なんだ。事態を引っ掻き回すだけ、ややこしくするだけかもしれんが、そうなったらそうなったで責任とってやる。
「…少々お待ちください」
静香さんはそう断り、携帯電話でどこかと連絡を取り始める。
「はい静香です。実は…はい…はい……分かりました。確認を取ってみます」
静香さんは、俺に顔を向け、言う。
「真一さん。直仁様とお話をする覚悟はありますか」




