4-9 諦観
ヴィクトルに手を引かれ、子爵家の使用人の案内に従って廊下を歩く。
ふと、窓ガラスに映った自分たちの姿を見て、ノアは不思議な気分になった。
(最初にヴィクトルに会ったときは――)
重傷者で、病人で。
いまにも死んでしまいそうだったところを、治療し、助けた。
その後は何度も逃げようとしたり、距離を取ろうとしたのに、結局いまはドレスを着て、貴族として、婚約者役として手を引かれている。
どうしてこうなったのだろう。
(自分で決めたこととはいえ)
眠りにつく前の――三百年前のすべてのしがらみから解き放たれて、錬金術師としてひっそりのんびり暮らすつもりだったのに。
重なる手はあたたかく、力強く。
とても離れそうにない。
外に停めてあった侯爵家の馬車の前では、御者とニールが主人を待っていた。
馬車に乗り込むときも、ヴィクトルの手を借り、横に座る。少しだけ距離を開けて。
昨夜のことが気まずさから、今日はできるだけ顔を合わせないようにしていたのに、まさかこんなことになるなんて。
ヴィクトルの様子をこっそり窺ってみたが、見る限りいつもと変わらない。ヴィクトルにとってはあんなことぐらい大したことではないのだろう。経験の差を思い知らされているみたいで、なんとなく悔しい。
ニールが同乗してくれてよかった。
ふたりきりだときっと間が持たない。
「何かあったの? わざわざ迎えに来てくれるなんて」
「いや、特別何かあったわけではない」
ならどうして迎えに?
素朴な疑問は解消されることなく馬車は走り出す。
(意味のないことをする人じゃないから、きっと意味があるんでしょう。うん、終わり)
馬車が走り出す。
妙な緊張感と静けさが馬車の中に漂う。
窓の外を見ながら、ヴィクトルがぽつりと言った。
「皇帝陛下から結婚の勅許をいただけた」
「え?」
咳き込みそうになるところをぐっと抑えて聞き返す。意味は理解できる。しかし意図が理解できない。
「快く、許していただけた。これでもう段取りは問題ない」
流れる景色を見たまま言う。こちらを見ないまま。
(結婚の許可? 皇帝から? そりゃあ貴族なら必要なんだろうけど、そこまでしないといけないの?)
これはまだ嘘の婚約だ。正式な婚約ではない。
ヴィクトルは嘘にしたくないと言っていたが、少なくともノアの気持ちの上では、理解の上では、これはまだ偽りの婚約だ。
それなのに皇帝まで関わってくるなんて。婚約の信憑性を高めるために必要な段取りなのかもしれないが。
気持ちが置き去りになったまま、段取りばかりが進んでいく。
(返事を先延ばししている私が悪いんだけれど……それはそれ、これはこれ!)
気持ちを切り替える。ノア個人の感情と、ヴィクトルの都合は無関係だ。
(きっと必要なことだったんだろう。うん、終わり)
段々思考が停止していく。
「三日後の大皇宮での夜会に共に来てほしい」
「うん」
大皇宮での夜会ならば、皇帝と挨拶できる場面もあるだろう。錬金術師を探しているという皇帝と。
胸を震わせるのは緊張か、好奇心か。
「ドミトリ様もいらっしゃるかしら」
大皇宮での夜会ならば公的で、規模の大きいものと推測される。公爵家の子息も来る可能性は高い。
ドミトリから預かった指輪。ヴィクトルは持っていればいいと言っていたが、やはりノアには重い。返しておきたいと思った。
「来るだろうが――あなたはもう表向きは私の婚約者だ。誤解をされるような行動は控えてほしい」
怒気を含んだ強めの口調。ノアは驚きで目を見開いた。
(……怒ってる?)
明らかに怒っている。感情の激しさは理性で抑え込まれているが、不機嫌さは隠れていない。
困惑した。何故怒っているのか、理由が思い当たらない。
考えられるのは、昨日の夜のことぐらいだ。
許しも得ずに触れたから。
「……ごめんなさい……」
声が上ずっていた。
やっぱり、慣れないことはするものではない。
意思も確かめずに勝手なことをすれば、怒るのも、嫌われるのも当然だ。自業自得。
重い空気が漂う中、馬車は侯爵邸に向かて走る。そう遠くない距離がとてつもなく長く感じた。
「心配しないで」
少しでも場を和らげるため、口を開く。
視線は膝の上で組まれた両手を眺めたまま。
「ちゃんと、演じるから」
##
その日の夜は、早めに就寝することにした。
自分の部屋に戻ったノアは、早々にベッドに寝転ぶ。身体が疲労感に包まれて、妙に重い。
身体を労わりながら、三日後の大皇宮での夜会のことを考える。
婚約者役が完全に演技でいいとなると、少し気が楽だ。ただの「エレノア」として演じることに注力すればいい。
「…………ッ」
胸が痛む。締め付けられるように痛く、血が溢れたように熱い。
些細な痛みだ。いつかはこの痛みもなくなる。知っている。
(やっぱり、恋愛は向いてない)
頭を枕に押し当て、ため息をつく。疲れているはずなのに、胸がざわついて眠れそうにない。
(好きって言ったのはそっちじゃない! なのに……)
気持ちは些細なことで変わる。
そんなことはよくわかっている。だからこれは八つ当たりだ。
眠れないままいると、自然と意識が尖ってくる。隣室のヴィクトルはまだ部屋にはいない。おそらく書斎で手紙のやり取りやらをしているのだろう。
領地にいても帝都にいても、いつ休んでいるのかわからないぐらい仕事をしている。
(身体を壊しかねない)
怪我や病気はノアが治せる。錬金術で。
疲労もある程度は緩和できる。薬や錬金術で。
だが睡眠に勝る薬はない。
(もう、無理やりにでも休ませよう)
顔を合わせるのは気まずいが、そうも言っていられない。
さらに怒られたり嫌われたりするかもしれないが、もう、どうでもいい。
(帝都の滞在期間が終わったら、旅に出ようかな……ああダメだ。やり残したことがいっぱいある)
薬事業のこと、トルネリアの保護のこと、このふたつは流石に放置できない。蒸気機関のことも、まだまだこれは未定だが、言い出した責任がある。
いつの間にかこの時代でもしがらみができている。
(身辺整理しないと……)
すべて終わらせて、引き継いで。
そうなるとますますヴィクトルを過労死させるわけにはいかなくなる。
(こんな気持ち、持たなきゃよかった)
傍にいたいと、彼の行く未来を見たいと思わなければ、こんなに苦しくなかったのだろうか。
そしてこんな苦しみを知っても、まだ同じ願いを抱いているのだから始末が悪い。
(恋愛だけが、傍にいる理由じゃない)
いままでだってそうだった。
これからまたそうしていけばいい。
気を取り直してベッドから起き上がった刹那、背中に冷たいものが走った。
「…………」
背後に、死角に、見えない場所に、何かの気配を感じた。
昏く、冷たく、底のない沼のような。
本能の警鐘のままに身体を捻る。
髪を振り乱しながらベッドから転がり落ちる途中で見えたのは、先ほどまでノアのいた場所に、大型の影が勢いよく覆いかぶさる光景だった。
四つ足の獣が、長い首をベッドに埋め、鋭い牙でシーツを引き裂く。
「なっ!」
驚きと床に落ちた衝撃で声が漏れる。
そこにいたのは犬だった。
全身黒い毛に覆われた、大型の犬。
どうして犬が部屋の中にいるのか。ずっと室内にいたのか。どこかの隙間から入ってきたのか。
普通の犬だったら、そんな疑問を抱いただろうが。
その犬は、頭を三つ持っていた。
――ケルベロス。
古き生き物によく似たものが、六つの目をぎらつかせて、床に転ぶノアを睨んだ。






