3-8 元錬金術師と侯爵と
「では、我が家に案内しよう」
ヴィクトルはそう言って立ち上がり、ノアの手を取る。引っ張られてノアも立つと、そのまま片腕で抱き上げられた。
「ひえっ?」
思わずしがみつき、慌てて離れる。降りようとしても足をしっかりと固定されてうまく降りられない。
「お、降ろして。自分で歩けるし、逃げないから」
耳元で言っているのに聞こえていないかのように無視される。
倒れた拍子に泥まみれになっているから服が汚れる。
重い。邪魔になる。
そして何より恥ずかしい。
様々な感情で頭がぐちゃぐちゃになっている間に、ニールは男たちの手と足をくくって廃墟のひとつにまとめて入れていた。きっとこの後は牢屋に直行だろう。
それらが終わると何事もなかったかのような顔で、落ちていたノアの鞄とトルネリアの背負っていた鞄を持つ。
そもそもどうしてこんなことに。
今度は黙っていなくなったわけではない。ちゃんと手紙も書いた。
『錬金術が使えなくなりましたので旅に出ます。探さないでください』
簡潔に、理由も今後のことも探さないでほしいということも書いた。不義理はしていないはず。
それでも、心配や迷惑をかけてしまっていることは事実だ。
だからもう抵抗するのは諦めた。抵抗したところで逃げ切れるとは思えない。
猟師に捕らわれた哀れな獲物の気分だった。
「で、この男はお主の男なのか? いったい何者じゃ?」
担がれたノアを見上げながらトルネリアが興味津々で聞いてくる。
「ヴィクトル・フローゼン。彼女の婚約者だ」
「ほぉう、婚約者」
トルネリアの目が輝く。きっと、きっちり対価を回収できそうだとか考えている。
続けて表情が変わる。青ざめて引きつる。
「フローゼンだとぉ!」
驚愕の声が青く晴れ渡った空に響いた。
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「おかえりなさいませ、我が君。皆様もご無事で何よりです」
やわらかく落ち着いた声が、侯爵邸の玄関ホールから響く。
侯爵邸の新しい男性使用人が爽やかな笑顔で立っていた。犬によく似た耳を持つ黒髪の獣人で、人当たりの良い青年だ。名はクオン。どんな経緯で雇うことになったのかはノアは知らない、ヴィクトルに崇拝に近い気持ちを抱いている。この街に住む獣人は大小に違いはあれど同じ傾向があるので珍しいことではないのだが。
「変わりはなかったか」
「はい、何も」
「各門の警備を通常体制に戻すように伝えてくれ」
「仰せのままに」
ヴィクトルの肩の上でぐったりと倒れながら、クオンとのやりとりを絶望的な気持ちで聞く。
それにしても、担がれているだけでここまで消耗するなんて。
結局ここまでこの格好で街中を歩いてきた。
ずっと目を閉じていたので街の人々にどんな目で見られていたかはわからない。考えたくもない。
ちなみに既に領主を往来で跪かせた女として有名なのだが、それはもう忘れることにしている。
「さて、トルネリア嬢。次の要求は?」
素直についてきたものの所在なさげなトルネリアに問いかける。
「いい加減に離してください……」
ノアのささやかな要求など聞き届けられるはずもなく。
トルネリアは、無邪気な笑顔を浮かべた。
「うむ、そうじゃな。まずは食事じゃな」
「ニール。アニラは彼女に部屋を」
短く命じて、奥の階段に向かう。
助けを求めようにも、誰も目も合わせてくれなかった。
ヴィクトルの部屋はノアの部屋の隣、主人の間になる。
この部屋の中に入るのは初めてだ。まさか抱きかかえられてはいることになるとは思わなかった。
白と灰色でまとめられた飾り気のない実用性重視の部屋。部屋の主人の存在を感じられるのはベッドのサイドに置かれた数冊の本くらい。正に寝るためだけの部屋だ。
無言でここまで運ばれて、無言で椅子の上に降ろされる。
前に立たれれば逃げ場などない。既に腰が抜けているので逃げられるはずもなかったが。
いよいよ怒られる。
覚悟はできていても身体は緊張で硬くなる。
何を言われても、何をされても、いまのノアには何もできない。
「体調はどうだ」
「え?」
想像していたよりずっとやさしい声で、労わる言葉をかけられて、戸惑う。
目を瞬かせて顔を見つめると、怒っているどころか、むしろこちらを気遣う表情をしていた。
「数日前から疲れているようだったが、まさか……」
言葉を濁す。
まさかベルナデッタと同じ病気だったなんて、ヴィクトルは想像もしていなかっただろう。
胸がずきりと痛んだ。
そして改めて思い返してみれば、確かにここ数日体調が悪かった。
いつもより疲れやすくなっていたし、微熱もある気がする。それらも病気の症状だと考えるべきだろう。自覚をすれば、身体は更なる不調を訴えてくる。
(気づかなかった……)
非常に情けない話だが、自分自身の体調を把握していなかった。
もしかして、ここまで一切降ろしてくれなかったことも、体調を心配してくれてのことなのだろうか。
何も言えないままでいると、ヴィクトルはノアの前に片膝をついた。
「怪我の方は」
「それは平気。トルネリアが治してくれたから」
頭痛も、出血ももうない。トルネリアの医療系錬金術は手慣れたものだった。彼女は人を癒すことに長けている。ノアもトルネリアと同じ系統を学んでいったから、よくわかる。彼女は能力のある錬金術師だ。
「私が武器を持っていなかったのは、あの者たちにとっては幸運だったな」
独り言のように呟く。ヴィクトルが何かしら武器を持っていたら、あれぐらいでは済まなかったということだろうか。
彼らはどうなったのだろう。今頃牢屋の中だろうが、トルネリアが言ったように悪い薬の中毒になっているのだとしたら、薬の経路なども調べておきたいところだ。トルネリアの誘拐事件も。
(あ……)
その時やっと、ちゃんと礼も言っていなかったことに気づいた。
「ごめんなさい……助けてくれてありがとう」
駆けつけて助けてくれたのに。
アニラとニールにもあとで礼を言わなければ。仕事を放り出して来てくれた。そんなことにも気づけなかったなんて。
(でも、どうして)
どうして探しに来てくれたのだろう。錬金術が使えなくなったことは伝えたのに。あんな短い手紙ひとつでは納得できなかったということだろうか。
ノアはジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくり上げて、腕を出す。
硬質化し始めた肌が、鱗のようにきらきらと輝いていた。
「錬金術を使おうとすると身体が――たぶん、導力回路が痛くなって、症状が進行するの。病気が治ればまた使えるかもしれないけど……」
治るという確証はなく、以前と変わらず錬金術が使えるようになるかもわからない。トルネリアを信じていないわけではないが、こればかりは経過を見てみなければわからない。
ヴィクトルの表情が陰る。
どうしてそんな悲しそうな表情をするのかがわからない。胸が締めつけられ、感情が混乱し、言葉が出てこない。
「……何故、何も言わずに出ていった」
「……ごめんなさい」
謝ることしかできない。
わかっている。何も相談もせずに、短い手紙一通だけで家を出たのは、無責任な人間のすることだと。医療系の錬金術師だった身としても最低な判断だ。ちゃんと話をして、他に感染者はいないか、治療法はないかを調べるべきだった。身の振り方を決めるのはその後でよかった。
それでも。
「知られたくなかった……」
顔を深く伏せる。ヴィクトルの顔を見ることができない。
「だって、錬金術師でない私には価値はないでしょう」
鉛のように重たい言葉を無理やり紡ぐ。
「人を治すことも、あなたを守ることも、薬の研究だってできない」
ヴィクトルはかつて言っていた。ノアを利用しようとしていると。
彼にとって利用価値があったからこそ、ここにいることができた。
利用価値がなくなったら、いてはいけない。
ましてや錬金術のないノアには何もできない。ここにいても、ただの邪魔者にしかならない。
そんな姿を見られたくなくて、だから誰にも言わずに家を出たのに。
どうして。
どうしてまだ病気すら治っていないのにここにいるのだろう。何もできない自分が、何故――
王太子の婚約者ではなくなったエレノアールからは、多くの人が離れていった。家族も友人も。
幸運にも錬金術の才能があったエレノアールは、師に見い出されて錬金術の道に進むことができ、国にも認めさせることができた。それすら、なくなってしまったら。
(存在価値がない)
ここにあるのは暗闇だ。ただの虚ろな闇。
強く抱きしめられる。
大きな身体の感触が、伝わってくる熱が、髪のにおいが。
いまここに、この場所、この時に、自分が存在することを教えてくれる。
「ノア」
それはこの時代で錬金術師として生きていこうと決めたときの名前。
耳元で響いた声に、身体が、心が揺さぶられ、思わず強く目を閉じた。
この熱をもっと感じたい。この虚をもっと埋めてほしい。手が、指先が、縋るように背中に触れる。
腕の力が強くなる。苦しいほどの抱擁が身体に刻まれる。
「ノア。私は、錬金術師のあなたに恋をしたのではない」
――言葉は魔法だ。
頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなっても。
身体が熱くなる。
触れ合っていた部分が離れても、言葉の熱が身体を、心を焦がす。
青い瞳から目を逸らせない。
身体が動かない。いま息はできているのだろうか。
熱が上がり、気絶しそうなノアの肩に、ヴィクトルの手が掠めるように触れた。
「いまは休んでいろ。必ず助けてみせる」
立ち上がり、どこかへ行こうとするヴィクトルの袖を思わずつかむ。
逃げ出したい。向き合いたい。
矛盾する感情がぶつかり合って、混ざり合って、何も考えられない。
「私は――」
何を言おうとしているのかもわからない。
それでも、溢れ出してくるこの気持ちを止めたくはなかった。
息がうまくできない。
目元が熱い。
「私は、あなたと――」
感情をただ言葉にしようとした刹那、激しい爆発音が窓を揺らした。






