2-2 旧王都への観光客
施術室を出て、外で待ってくれていた人たちに、患者を奥のベッドに運んでもらうように頼む。
「アリオスに行ってくる。さっきの人が熱が出るようならこの薬。痛みが強いようならこの薬。もし他に怪我人が出たらこの薬を飲ませて。急を要するなら侯爵邸まで呼びに来て」
現在出回っている一般的な材料から調合した薬の中から、「熱」「痛み」とラベルを張った瓶と、あとは昔に錬金術でつくった緊急回復薬を薬箱に入れて、いつも率先してノアの手伝いをしてくれる青年に薬を渡す。
「それじゃあ、いってきます」
治療院の外に出ると、青い空が広がっていた。白い、やわらかそうな雲がふわふわと流れている。
誰も住んでいない市街地に降りて、外に向かう。街の終わりの場所には、移動用の馬が繋いである馬小屋がある。見張りの兵にノアの馬を出してもらう。
月毛のきれいな馬。
乗ろうとすると、いつの間にかついてきていた黒猫がノアの肩の上に飛び乗る。めずらしいこともあるものだ。
ノアは兵士の手を借りて、横乗りで鞍に座る。
(いい加減、ひとりで乗り降りできるようにならないとなぁ)
手綱をしっかりと握り、馬上から兵士に礼を言う。
「あ、ノア様。この前いただいた滋養強壮剤ってやつですが、おかげですごく調子がいいですよ! 風邪も一晩で治りましたよ!」
「そう? よかった!」
(とりあえずヴィクトルの話を聞いて、薬草園の様子を見て、減ってきた薬を調合して、差し入れを見繕って)
馬を歩かせながら、アリオスに帰ってからやるべきことを考える。
(常駐の医師もいてくれた方がいいだろうな。この場合、市長に頼めばいいのかしら。それとも領管理官? うーん、とりあえずヴィクトルに相談してみよう)
いまのノアの立ち位置はとても不安定だ。
旧王都の調査を任されていた流れから、いまも調査員の責任者のようなことをしているが。都市開発と協力して進めていける専任の監督がいた方がいい。
権利者に直接話を通すことはできても、ノア自身には権力も何もない。いまのままだと時間が経てば経つほど、調査員に負担がかかる。
(薬の研究一本に絞ろうかな。錬金術がなくてもつくれる薬をつくって、売って……あ、そうすれば引きこもれる!)
素晴らしいアイデアに心が躍る。薬の開発で医術の発展に貢献する。なんてやりがいのある仕事だろう。
本当は錬金術を堂々と使って、人を治療したりしたいのだが。
空を見上げる。
青い空を流れる雲はあんなに自由なのに。
帝国の皇帝が錬金術師を探している限り。帝国の犬になる覚悟ができない限り。自由に錬金術を使えるようになる日は来そうにないのが残念だった。
手の届かない空から、進むべき一本道に視線を戻したときだった。道の先で倒れている人影の存在に気付いた。
すぐに馬から降り、馬が逃げないように手綱を木にくくりつけてから、急いで駆け寄る。
暗灰色のマントに身を包んだ、若い男だった。
顔や手足に擦り傷はあるが、大きな怪我はない。
少し前にヴィクトルの一行が通っていったはずだ。その時点で倒れていれば拾われていたはずだから、まだ倒れてからあまり時間は経っていないだろう。
腕の力を強化して男の身体を起こさせ、木に寄りかからせる。
「う……うう……」
力のないうめき声。
とりあえず水だ。水が入った水筒に塩とハチミツを少し入れる。それを唇に当て、ほんの少し注いで口を湿らせる。
顔の表情が動く。男は自ら両手で水筒を抱え、ごくごくと飲み始める。
ノアは安堵した。
自力で水が飲めるのなら、症状は軽い。
次は携帯用の食料の中から固形スープと木製のカップを取り出す。固形スープを小さく割って、体温程度に温度を上げた水に溶かし、薄いスープをつくる。
つくっている間、男は閉じられていた目をなんとか開いて、何かの言葉を口にする。
(帝国の言葉?)
困った。帝国語はわからない。聞きかじったことはある。書いてあるものなら何とか読めるが、会話はできない。
相手もこちらが言葉がわからないことに気づいたのか。
「君は……」
聞きなれた王国語で話してくれた。
「君は……女神かな……?」
「違う」
相当錯乱しているらしい。危険だ。早く回復させないと。
中身のなくなった水筒を受け取り、スープを手渡す。
「ゆっくりどうぞ」
スープを飲んでくれている間に、ドライフルーツを練りこんだパンを小さくちぎる。
パンは一度に食べさせるのは危険だと思ったので、一口分ずつ手渡す。
――ああ、亜空間ポーチというのはなんて便利なんだろう。
収納容量は無限に近く、中に入れている限り劣化もない。こんな素晴らしい発明をしてくれた錬金術師マグナファリスに何度目かわからない感謝をした。
「私はノア。あなたのことはなんて呼べばいい?」
パンを渡しながら問いかける。
ノアは改めて男の姿を見た。
茶色がかった暗い色の髪、森のような緑色の瞳。目元は涼やかで、顔立ちは整っている。唇は少し荒れているが、顔色はこの短時間で正常な範囲に戻ってきていると思う。
「ファントム」
――亡霊。
本名だろうか。通り名だろうか。
冗談を言っているようには見えない。
「旅人なんだ。アリオスに来たついでに旧王都も見てみようと思ったんだけど、森で迷ってしまってね」
いきなり饒舌になってきて、ノアは驚くと同時に安堵した。
「それは……不運でしたね」
「いや、君のように美しい人に助けてもらえたのだから幸運さ」
軽い。
「それじゃあ、ファントムさん」
「そんな丁寧な呼び方をされたのは初めてだよ!」
何故か腹を抱えて笑い出す。やはり本名ではないのだろうか。
困惑したが、気を取り直してファントムと向かい合った。
「残念だけど、いまは旧王都は調査中で、いろいろ危ないから見学は受け付けてないの」
「ああ、それは残念なニュースだ」
「後日でいいなら私が案内するから、しばらくはアリオスで旅の疲れを癒やしてて」
「ああ! それは素晴らしいお誘いだ!」
朗々とした声が森に響く。
発声や動作、表情、すべてがどこか芝居がかっている。演劇関係者なのだろうか。そう言えばアリオスに移動劇団がやってくるとかいう話を聞いた気がする。
(それにしても元気だな)
行き倒れ寸前だった割には、感心するほどに回復している。これならもう安心だろう。
ずっとノアの背後に隠れていた黒猫がニャア、と鳴いて前に出てきた。
「おや、こちらの美しい貴婦人は?」
「グロリア」
「撫でていいかな?」
「本人が良ければ」
「あ痛ぁ!」
細い牙が触れようとした指先に噛みつく。容赦がない。
「そろそろ立てそう?」
「あ、ああ。世話をかけたね」
ノアが立ち上がると、ファントムも立つ。ふらついている様子はない。
「それじゃあ、アリオスまで送るから馬に乗って。私が手綱を引くから」
「ええっ? いやいや、女性を歩かせて自分だけ馬に乗るなんてできないよ」
「行き倒れてた人が文句言わない」
渋るファントムを馬に乗せて、森の道を歩く。
旧王都と城郭都市アリオスを繋ぐルートは、少し前はほとんど森だったが、いまは整備された道ができている。
昔は怪しい人間が森に潜んでいたりもしたが、往来の増えたいまは出てこないので治安もいい。
道中で何があって行き倒れかけるまで迷ってしまったかはわからないが、相当な不運、もしくは方向音痴なのだろう。
ファントム本人の強い希望により、城壁の西門に近づいたところで馬を降りる。どうしてもこのまま中に入るのは抵抗があるらしい。
「宿とかの当てはあるの?」
「ああ、心配しないでくれ。色々とありがとう、ノア。この礼はいつか必ず」
「気にしないで。あ、そうだ。代わりに、誰か困っている人がいたら助けてあげて。それじゃあ、また!」






